ソーシャルビジネスについては、既に多くの本が出回っている。
しかし、ソーシャルビジネスが解決することで救われる社会的弱者の当事者自身の声を十分に反映し、社会起業のミッションの確かさを担保しているものは少ない。
まるでマクロ経済を語るように、たとえば貧困の度合いを数字にして終わっていたり、当事者自身による証言や自助努力を十分に紹介していないなど、ソーシャルビジネスの語り部の表現には、まだまだソーシャルビジネスの恩恵を受ける「顧客」の声が届かず、このことは僕自身も反省しなければならないことかもしれない。
僕は自殺の取材を15年ほどしてきて、そのプロセスから「自殺問題の解決には社会起業(ソーシャルビジネス)のアプローチが不可欠」という思いを強くしてきた。
そして、もう一つの気づきがあった。
それは、自殺志願者とひとくくりにはできず、その中には「救われたくない人」が存在し、「死ぬこと自体が私の幸せ」とはっきりと明言する人たちが一定層いるということだ。
もちろん、同じ人間でも「救われたい」と切実に思う時と、「もういい。救われたくない」とあきらめてしまっている時と、その両方の時間を相互に往復しながら「わからない」あるいは「考えたくない」と思考停止することで心の安定を保っている時など、生きている限り、当事者自身のニーズは常に揺れている。
だから、当事者ニーズを満たそうと思えば、「死にたい」「救われたくない」という声を無視することはできなくなる。
こう書くと、「死にたい人に『死んでいいよ』と言うわけですか?」と反論する向きもあろう。
そこであえて答えるなら、僕の答えは、「そうです」だ。
「死にたい」と切実に願い、それこそが幸せと感じている人に「死ぬな」「生きろ」と言うだけならそれはとても簡単なことだ。
しかし、そうした言葉がたいていの場合、言葉だけの励ましに終わることを、自殺志願者や自殺未遂の当事者たちの多くは気づいている。
たとえば、親からの虐待には、全国民に通告義務があるが、これはイジメの問題と同様に、周囲に発覚すれば、結局、虐待する親に児童相談所が指導に訪れるため、虐待がエスカレートしてしまうのに、一時保護や親権停止はめったにされない。
そこで、自分の家にかくまってくれるような人は、まずいない。
親からの告発で誘拐罪(未成年略取)に問われれば、救う自分が社会的に抹殺されかねないからだ。
たとえば、精神科の病院へ入院した後、仕事復帰したくても、処方薬への依存が自力で辞められず、復職が困難で生活保護の受給者になったまま、30歳を過ぎても社会復帰できず、友達も作れず、深い孤独の奥底で自殺を考えてしまう人がいたら、あなたなら、どこまで付き合えるだろうか?
人を救うには、そのための時間やお金、スキルが必要だが、そこに人生の労力を費やす覚悟が問われるのだ。
実際、死にたい人には、死にたくなるだけの切実な問題を常に抱えている。
それが自助努力では解決できず、かといって他の人にも容易に頼れない案件であると思いこんでしまっていたり、「こんな最低の自分なんかの問題に他人様を巻き込みたくない」という自己評価の低さゆえの遠慮もあるし、あるいは「私の抱える問題ととことん解決まで付き合ってくれる人など会ったことがない」という経験値から、結局は切実な苦しみから逃れられず、「死=幸せ」という認知に希望を見出してしまうことは、自殺を考える当事者たちにはよくあることだ。
もちろん、こうした当事者の声については、『生きちゃってるし、死なないし リストカット&オーバードーズ依存症』(晶文社)や、『「死ぬ自由」という名の救い ネット心中と精神科医』(河出書房新社)、『日本一醜い親への手紙』などの本で紹介してきたため、『社会起業家に学べ!』(アスキー新書)ではそこまではっきりとは書かなかった。
社会起業を志す人間なら、社会的弱者の当事者の声を否定せず、その声そのものをニーズとして受け入れ、それを解決できる商品やサービスを生み出すのが自明だろうと、たかをくくっていたからだ。
もっとも、上野千鶴子さんが共著で発表した『当事者主権』(岩波新書)は、当事者ニーズと当事者の自助努力そして当事者による制度変更やアドボカシー(政策提言)の動きを非常にわかりやすく詳述している。
既に社会起業を始めている人には、改めて「当事者」と伴走することの意味を感じ入るだろう。
ソーシャルビジネスの担い手にとって、当事者各自の声を拾い集めることは、当事者をひとまとめにせず、個人の尊厳を守ることだ。
個人の尊厳は、先進国ですら多くのタブーによって蹂躙され、十分に守られているとは言いがたい。
個人の尊厳は「私が私のままで生きられる」ことを保証することで実感されるので、自分の属性が社会の中で少数派であるがゆえに不自由や偏見を強いられていたり、多くの人たちから関心を持たれないためになにかのガマンを強いられている。
社会起業(ソーシャルビジネス)が、社会的課題を解決する事業体である以上、こうした少数派(マイノリティ)の切実な苦しみに向き合うことも事業目的の一つとして数えられるだろうし、同時に自殺予防対策の一つであると言えるだろう。
ところが、より多くの人の関心を引き付けることで視聴率や読者を獲得し、スポンサーへ広告の費用対効果を約束しようとするマスメディアであるテレビや新聞では、なかなかマイノリティの問題は取り上げられにくい。
それでも、志のある映像ディレクターや雑誌ライターも一部にいて、制作費がどんなに低くても、自腹を切って取材を進めたり、自分の生活をギリギリに切りつめても取材を続け、マイノリティゆえにタブー視される問題も報道しようとしてくれる。
今日の時点では、マスメディアの従事者でソーシャルビジネスに関心を持っている人はほんの一握りしかいないし、その中でも継続的に同じテーマを取材する人は決して多くはない。
そのため、ソーシャルビジネスを紹介する映像や記事でも、その事業が社会的弱者の当事者の声に注目し、彼ら自身のニーズどれほど答えているかについてまで言及したコンテンツは多くはない。
それでも、誰もが解決をあきらめてしまいがちのヘビーなータブーに対して挑戦し、必死に解決に取り組んでいる人をきっちり取材する人もいる。
その一つとして、下記の動画をご覧いただきたい。
健常者にとっては関心外にあるために、性的にも恋愛的にも疎外されている障害者の「性」の問題に対して、性的介護サービスを始めた新潟のNPOホワイトハンズの活動を紹介する番組である。
上記の映像には、サービスの恩恵を受ける障害者(当事者)=ソーシャルビジネスの顧客へのインタビューもあるため、NPOホワイトハンズの始めた「性的介護」のサービスが当事者ニーズと決してかけ離れておらず、介助に従事するスタッフにも、そのサービスの社会的価値が理解されていることが良くわかる。
そして、オランダでは行政がそのサービス料金を行政が負担していることも紹介されている。
これを見れば、ソーシャルビジネスが、本来なら政治や行政が率先して解決すべきことを民力によって解決するために行われる事業であることも理解できるだろう。
日本の社会起業家の先駆け的存在である片岡勝氏は、「私たちは第2の行政を作っているのだ」と言ったそうだ。
既存の行政は、政治によって予算をつけられている。
政治は「最大多数の最大幸福」を優先するため、マイノリティの権利や尊厳は優先されないし、関心外になりがちだ。
だからこそ、政治や行政、既存の企業が解決できないでいる社会的課題を解決しようとするなら、社会的弱者の当事者個々の声を最優先に大事にするのは、当然のことなのだ。
それゆえ、社会起業家に対して少なくとも2つの重要な提案をしておくべきかもしれない。
一つは、ソーシャルビジネスの成功事例として、その起業家が救おうとしている当事者自身によって顧客満足度を語ってもらうこと。
メディアの取材が入ったら、起業家と一緒に顧客も同席させるのがベターだし、社会的課題によって苦しんでいる当事者をより多く取材してもらえるよう配慮することだろう。
こうした広報の具体的な戦略については、依頼があるたびに有料で応じているが、広報以前に大事なのは、そもそも社会的弱者の望んでいることを的確に把握したサービスを行っているかどうかだ。
これがもう一つの提案内容になるのだが、お金に余裕のある中流層以上の顧客を救うのは難しくないが、同じ社会的課題で苦しんでいるといっても、優先して救うべきはお金がない人たちのほうではないかと思う。
もちろん、お金のある人から救済して、業務が安定したらお金のない人の問題に手をつけるというのも、間違っているわけではないが、その先送りした時間の分だけ、お金のない人たちは苦しみ苦しみ続けることを決して忘れてはならないだろう。
ソーシャルビジネスの醍醐味は、より弱い者を最優先して救える仕組みを作り出すイノベーションにある。
この挑戦的なイノベーションにこそ、ソーシャルビジネスの社会的なミッションの確かさが担保されるのだ。
それが理解できるなら、自分ので手掛けるソーシャルビジネスによって社会にある課題が温存されるような事態になることを恐れなければならないこともわかるはずだ。
前述の自殺という社会的課題にしても、単純にソーシャルビジネスによって当事者が生き直したくなっただけでは、その人に死を思いつめるまでおいやった社会的要因は温存されてしまう。
温存されれば、社会起業家のサービスを必要とする顧客はいつまでも減らない。
それは、「社会を変える仕事」と言うには思い上がりが過ぎるだろう。
ソーシャルビジネスの最終目標は、そのサービスが不要になる社会を作り上げることだ。
不要になるとは、社会起業家が手掛け続けなくても、全国に同様のサービスが根付いたり、政治が行政に予算をつけるなどの成果によって、その社会的課題が減ったり、解決しやすくなったりすることだ。
それでこそ、社会を変える仕事になる。
だからこそ、当事者ニーズを明確にし、的確に把握し、成功事例を広報することで、より多くの市民に共感できる商品やサービスを社会起業家の皆さんに開発してほしいし、「みんなが真似できる解決方法」をどんどん開陳していってほしいと願う次第だ。
これからソーシャルビジネスを始めたい若者たちへ。
自分がすべきことに悩んだら、一人の頭の中であれこれ考えず、真っ先に自分が救いたい当事者に教えてもらいなさい。
当事者こそが、ソーシャルビジネスにとって至高のメンター(指導者)だから。
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