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■「酒鬼薔薇聖斗の書いた本」が作る、新たな悲劇の始まりの予感 ~著者の身元の「証拠なし」が確定


 「酒鬼薔薇聖斗が書いた本」という騒動が、一応の決着を見た感がある。

 今日(6月18日)発売の週刊文春が出版の経緯を取材し、これまでで一番精度が高い取材記事を報じたからだ。

 ざっくり言えば、『絶歌』を出版した太田出版も、太田出版に著者を紹介した幻冬舎も、著者の身元確認を行ってなかったことを、両社の人間自身が告白したのだ。

 つまり、「元少年A」が酒鬼薔薇聖斗である確かな証拠はどこにも無く、著者が誰かもわからないまま、本だけが販売され続けているのだ。

 これは、著者が殺人者であった場合よりも、はるかに道義的責任が重い。

 金を出して本を買った消費者に対して、「その著者は酒鬼薔薇聖斗かどうかは私たちも知りませんよ」と出版社自身が言ってしまったのだから、本の中身についても「本当のことが書かれてるかどうかは読者が勝手に判断して! うちの会社は何も本当のことは確かめてないのでわかりません」と言ってるのと同じなのだ。

 誰だかわからない著者と、本当かどうかがわからない内容。
 そんな本を「ノンフィクションの手記」として、買う価値があるか?
 これは、詐欺そのものだ。

 今回も長いブログ記事だけど、ゆっくり読んでみてほしい(※音声で聞きたい方はこのツイキャスで)。

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(※画像にある文章をよく読んでみてほしい/週刊文春より)


 詳細は、週刊文春を買って読んで確かめてほしい。

 幻冬舎の見城社長から著者を紹介された太田出版でも、著者の身元を確認していないことを、同社の担当編集者自身が証言している。
(※文中の「紹介者」とは、幻冬舎の見城社長のこと)

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■テレビや新聞、ニュースサイトが放棄したリテラシー

 僕は、以前のブログ記事で、下記のように指摘していた。

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 上記の週刊文春の取材報道によると、2013年に幻冬舎の見城社長の元へ「A」が現れたが、幻冬舎では出版を断念し、今年2015年3月に太田出版を紹介したそうだ。

 「仲介者」は見城社長だったが、見城社長は「A」の身元を確認しないまま、編集作業を重ねていったのだ。
 しかし、いざ出版するとなると、次の3つのハードルが必要だったと見城社長が告白している。

●本当に贖罪意識を持つこと
●実名で書くこと
●遺族に事前に挨拶をすること


 編集作業が続き、このハードルがいずれも越えられないことが次第にはっきりとわかってくると、見城社長は「旧知の間柄だった太田出版の岡社長」にAを引き合わせた。

 まさに僕がブログで指摘した通りの展開だ。
 どこのテレビも新聞もニュースサイトも、今回の騒動で僕のような冷静さをもった報じ方を最初からとるところは無かった。
 そうした商業メディアに対して、読者の中には違和感を覚えた人も少なくなかったはずだ。

 テレビや新聞は、事実の詳細を時間をかけて検証するので、速報については「ざっくりした情報」しか出せない。
 そこで、身元不明の著者の本でも、その内容まで憶測で踏み込んでしまう。
 それが、「社員ジャーナリスト」の仕事の限界なのだ。

 その点、週刊誌は社外の複数のフリーランスの記者たちを動かし、1週間遅れでも、とんでもなくスピーディに事実を検証し、「裏を取る」ことに長けている。
 今回の騒動も、テレビや新聞がたきつけ、週刊誌が冷静に事実の核心に迫って、早期に結果を出した好例だろう。

 ハッキリしたのは、『絶歌』の著者が「酒鬼薔薇聖斗」である証明がどこにも「無い」ということだけだ。

 著者が身元不明なのだから、『絶歌』の中身の真偽なんて誰も保証できない。
 ウソかもしれない内容に腹を立てたり、遺族に本の存在を知らせてコメントをとること自体、自分勝手なさもしい作法になる。

 報道関係者が、「酒鬼薔薇聖斗が書いたかもしれない本が…」と遺族に語りかけた時、遺族の方は「…かも? はっきりしてないうちにこっちの気持ちを刺激するな!」と怒り心頭にコメントしたかもしれない。

 でも、その怒りコメントをバッサリ切ってしまうのが、新聞とテレビなんだよ。
 情報は常に、発信者の都合や思惑でいかようにも左右される。

 『絶歌』で書かれた内容も、著者が「本人」だったなら、著者の思惑で事実を変えて書くしかない箇所が少なからずあると見るのが、冷静な読み方というものだ。

 元少年Aが「酒鬼薔薇聖斗」本人だった場合、実名で執筆せず、遺族への事前の挨拶も難しかったのは、現在の自分の個人情報が流出するのを恐れたからだろう。

 少年院出身者は誰でも、人を殺した疑いが高いとされる医療少年院の出身者ならとくに、目立たないように静かに暮らしたいと望む。
 個人情報がバレれば、住居や名前、交友関係、家族、職場などを全部変えないと生きづらいし、それらを何度も何度も変えて生き続けること自体、死にたくなるほどの苦行だ。

 絶対にバレたくないのだから、たとえ結婚し、子どもがいても「まだ独身」と書いて、週刊誌にマークされにくいニセの情報を流すこともあるだろうし、スキャンダラスな猫殺しの描写をあえて書いて読者に強い印象を与え、関心をそこへ集中させることも試みるかもしれない。

 いかにも証拠らしく写真を本に載せることもあるだろうが、それは「写真はウソをつかない」と盲信しがちな素人しかダマせない。
 (写真を日頃から加工するカメラマンや編集者、ライター、デザイナーなど、出版業界で働く人は、そんな妄想など抱かないが)

 そのようにして「安全に、しかもバカ売れする」という出版のあり方にその後の人生を賭けることこそが、「元少年A」を名乗る著者の思惑であり、生存戦略なのだ。

 そういう思惑をふまえて読む構えがあらかじめある人なら、『絶歌』の内容に関心をもつことはないし、読んでも一喜一憂などしない。
 端的にバカバカしいからだ。

 情報に対して、はっきりとした情報源からの信じられるに足るものなのかどうかを見極めようとしないと、うっかりニセモノに金を払うことになりかねない。

 しかし、6月18日以後、『絶歌』の著者が誰だかわからないことがハッキリしてしまった。

 今後は、詐欺罪や名誉棄損罪などの法廷闘争や、回収・不買、著者に関するさらなる周辺取材などの動きが、水面下でじわじわと進んでいくことだろう。
 「酒鬼薔薇聖斗・包囲網」が、本人の思いも知らないところで日々刻々と狭められていくのだ。

 「自分が彼だったら…」と、想像してみよう。
 知らない人たちがいつでもどこでも自分を探し出そうと躍起になっている恐ろしさと不安で、胸がつぶされることだろう。

 しかも、「酒鬼薔薇聖斗」本人には、遺族に対する1億円以上の賠償金の支払いが残っている。
 こうした切迫した状況は、遅かれ早かれ本人を追い詰めてゆき、悲劇的な結末を導く恐れがある。

 どういうことか?


■本が売れれば売れるほど、本人の個人情報は暴かれる。それが何をもたらすか?

 著者が誰であろうと、「酒鬼薔薇聖斗」本人は『絶歌』が出版されたことで、週刊誌やテレビや新聞などに個人情報を探られるようになる。

 いま、読者・視聴者の知らないところで、著者の身元はもちろん、本人の現在の状況や本人周辺の取材がメディア企業の各社で競って行われているはずだ。

 『絶歌』がバカ売れしていることは、このネタが売れる(=視聴率や読者を増やせる)ことを証明して見せた。
 そうなれば、他社より早く「スクープ」を報じて稼ぎたい。

 それが、メディアの仕事というものだからだ。
 仕事だからこそ、熾烈な戦いになるだろう。

 著者が本人だった場合、莫大な印税を手にして一刻も早く雲隠れできるか、それともそれより先に自分の顔も実名も住居も交友関係もバラされて逃げおおせなくなるかの「賭け」に出たことになる。

 でも、『絶歌』の出版が、本に書かれたように「生きる道」や「自己救済」になるだろうか?

 見城さんは週刊文春で、彼に対して「A」が手紙で出版の打診についてこう書いてきたことを明かしている。

「破滅を覚悟で人生最大のロシアンルーレットに挑むことにしました」

 つまり、大金を早々とつかんで逃げられる可能性が低いことを、「A」は覚悟していたのだ。
 それは同時に、逃げられない可能性の方が大きいという不安でもある。

「『出さなければ彼は自殺してしまうかもしれない』という恐れもあった。
 それほど鬼気迫る何かが彼にはあったんだよ」

(週刊文春の記事より見城さんのコメントを一部引用)

 そういう記事を読んで、「早く自殺すればいいのに」と思う人がいるかもしれない。
 他人を自分の思い通りに動かせる超能力でもあれば別だが、現実はそんな都合良く展開してはくれないものだ。

 たとえ死にたくなっても、いや死にたくなればなるほど、自殺する勇気が出ず、かといって自分を殺してくれる人もいない孤立状態では、死刑を目指してわざわざ無差別大量殺人を犯してしまう恐れがある。
 事実、そういう輩が少なからずいることは、大阪・池田小事件や秋葉原・通り魔事件などで続々と報じられたとおりだ。

 そうなると、新たな被害者が出る恐れがあり、あなたや、あなたの親友や家族、子どもなども標的になりうる。
 これは、遺族も含めて本人の関係者の誰も幸せにしない結末を招きかねない悲劇だ。

 そのような悲劇に導くのは、著者だけではなく、出版を決めた出版社と、『絶歌』を買った人だ。

 それでも、太田出版は「加害者の考えをさらけ出すことには深刻な少年犯罪を考える上で大きな社会的意味がある」と考えるそうなので、著者が本人だった場合、著者によって社長や社員、あるいはその身内が皆殺しにされようと、「社会的意味」によって、また著者の手記を出版して大儲けし、運良く生き残った社員たちに給与を出すのだろう(もちろん、遺族の許可など取らないまま)。

 あるいは、本屋で『絶歌』を買った人が本人に付け狙われて襲われるような事件がどこかの街でおこれば、本を売った書店までも世間から大きな非難を浴び、地域の市民たちからは敬遠され、売上不振で閉店に追い込まれる恐れもある。

 本人がどこに住んでいるかなんて、誰にもわからない。
 日本全国の書店は、『絶歌』の扱いに慎重になる必要がありそうだ。

 東京・神奈川で38店を展開する書籍チェーン「啓文堂書店」が注文を受けないと決めた後で、太田出版は5万部を増刷した。

 太田出版は、著者と心中する構えらしい。
 でも、心中するより、著者の安心と社会の安全を同時に考えるのが、社会人の良心ではないか?
 
 そう問う時、著者が本人であることを前提にして、本人が選びうる選択肢を想定しておくことは、無駄ではないだろう。


■「酒鬼薔薇聖斗」と僕らの選びうる選択肢

 現時点で悲劇的な結末を避けるには、以下のような選択肢が「酒鬼薔薇聖斗」本人と僕らの社会に残されている。

A 太田出版が著者の安全を全面的に守り抜くことで社会的責任を果たすこととし、その旨を発表する
B 本人を守りたい有志の人たちが集まって身元引受人となり、彼の将来を全面的にサポートする
C 一刻も早く海外で暮らし、海外の出版社と契約して本を出し、落ち着いてから遺族に贖罪する
D 修復的司法の考えなら弁護士と共に遺族との対面を打診し、和解で執筆活動を続けられる環境を作る
E 精神科の閉鎖病棟やダルクのような治療施設などに入り、「一生出ない」ことを弁護士に発表させる
F 世間からのバッシングを覚悟し、記者会見を開いて実名と顔を発表して「作家活動を続ける」と宣言する
G 仏教などの宗教に入信・出家して俗世間から離れ、作家以外の職人仕事で賠償金のために淡々と働く


 どれもハードルが高いが、自殺や再犯に比べれば、本人と社会、遺族の感情を鎮める「救い」のあるものだ。
 ハードルが高いのは、自らがまいた種によるものなので、どれも低くはならない。
(上記の他に悲劇を避ける方法があれば、教えてほしいものだ)

 もし、あなた自身が少年時代にネコや子どものような弱い存在たちを殺して有名になり、成人して社会で暮らしていた場合、上記のどれを望むだろうか?

 そんな想像など、とてもできないかもしれない。
 でも、どこへ行こうとも世間から冷たい視線を浴びせられ、ひとりぼっちで生きていかざるを得ないことは、なんとなく理解できるだろう。

 本人は、私生活では自分を救ってくれる間柄の人が1人もおらず、今日も孤立を続けているはずだ。

 だからこそ、手記の出版で一発逆転ができるかのような勘違いをしたんだろうし、太田出版から出版前に「売れれば売れるほど著者に対して週刊誌が追いかけますよ」という覚悟を問われなかったことだって誰からも指摘されなかったのではないか?

 いずれにせよ、本人は自分の選択肢を決めることを迫られる。

 見城社長への借金400万円を返済した後、たかだか1000万円程度の収入では一生安泰などありえないのだから、物価が超安い途上国にでも逃げ込むしか、生き残る道はないかもしれない。

 その望みも、週刊誌にすっぱ抜かれれば、刑事・民事の裁判に発展して身柄を抑えられることもあるため、時間との戦いだ。

 もっとも、この状況を「本人の自業自得」と考えて思考停止してしまえば、僕らの社会は「自業自得」の人たちを孤立のままにしてしまうことになる。
 その孤立に無関心になれば、僕らの社会も安全な状況に保てない。

 「酒鬼薔薇聖斗」以外にも、罪を犯して成人した人たちは山ほどいるからだ。
 少年院の入院者だけでも、毎年3000人以上いるんだよ。

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 再犯者の実数は減ってはいるが、再犯者の率は3割強だ。
 これは、「犯罪者に占める再犯の大人や子どもが増えている」ことを示している。

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 関西学院大学ロースクール教授だった宮武嶺さんが2011年に書いた「厳罰化では少年事件の再犯は防げなかった」という記事によると、「約3割が出院後に暴力団に加入」「非行や犯罪を思いとどまる最大の要因は家族」と分析されている。

 逆に言えば、孤立の問題を自力では解決できない人が、犯罪を何度もくり返して刑務所に行くしか生存戦略がない社会になってるってことだ。

 とくに少年犯罪には、まだ幼い少年を犯行へ追い込むさまざま環境要因が背景にある。

 少年自身がその苦しみを一人の胸に抱えていても、まわりの人たちが気づかなかったり、気づいても手助けができないまま、少年が孤立を日々こじらせていき、自分でもわからないうちに精神を病んでしまった結果として、弱者にしか自分の思いの丈をぶつけられなくなり、「人殺し」と呼ばれる所業に及ぶケースは、決して珍しくない。

 子どもが自分ではどうしようもなく引き起こしてしまった結果は、成人しても、延々とつきまとう。
 誰だって、好んで殺人者と付き合おうとはしない。
 自分や家族、友人に迷惑をかけられたくないから、どうしても遠ざける。
 そして、当事者はまた孤立を余儀なくされ、それが再犯へと導きかねないのだ。

 でも、自分と仲間の内側だけの論理に居直って、「アイツは危険だ!」と遠ざけ、付き合うチャンスを放棄すれば、いつまでも安心は得られない。
 平和は、自分と同じグループ内の仲間たちの安全だけを見ていても実現されない。
 むしろ、グループの外側にいる相手との「関係」を日頃から良いものにすればこそ、実現できるもの
だからね。

 みんなが遠ざけていたホームレスたちと深く付き合うことによって、政治も行政も作れなかったホームレスの自立支援の仕組みを作り上げた大阪のNPO法人Homedoorを見習おう。

 相手のことをたいして知りもしないで遠ざけるばかりで、勝手にレッテルを張り、自分の中の恐怖や不安で相手をdisるだけなら、それって、ヘイトスピーチや差別そのものじゃん。

 これを「ヤバイ!」と思えないとしたら、今日の日本人は自分の知ってる世界しか見ようとしてないってこと。
 現実は自分に都合良くは出来ていないのに、「都合が悪いことはガマンすればいい」で思考停止してしまっていいの?

 いざ自分が、自分自身では避けようもなく犯罪や病気、事故や貧困、高齢化、いじめ、震災・原発の被災者などの当事者になって孤立を強いられても、「仕方ない」と自分個人の属性や能力の落ち度だけを責めるしかないの?

 一度、失敗してしまったら、もう「ふつうの暮らし」や「安心できる環境」には戻れず、孤立するばかりのよのなかでいいのかな?
 個人に自己責任を強いるばかりの「よのなかの仕組み」の方が間違ってると思わないか?


■きみは、どんな社会にしたいの?

 現代の日本社会には、生きづらい「よのなかの仕組み」がたくさんある。
 その最たるものは、力のある者が力のない者に対して責任を果たさないという仕組みだ。

 お金持ちになっても、自分より所得が少ない資産層へお金を還元するトリクルダウンを、お金持ちが自発的に行わないことは、もうハッキリしてるよね。

 「酒鬼薔薇聖斗が書いた本」という幻想の騒動が浮き彫りにしたのは、お金や知名度などの「力」の大きさには、それと釣り合うだけの大きな社会的責任を世間が求めるということだった。

 だから、人を殺して有名になった著者が大きな印税収入を得るという仕組みに真っ先に多くの人が違和感を覚えたし、さらに大きな収益を得た太田出版に対して一部の書店では注文を拒否したり、図書館でも貸出をしない方針を決め、明石市では条例で市内の書店や市民に配慮を求めるなど、遺族の気持ちに配慮する構えが見られた。

 ネット上でも、出版元の太田出版に対して不買を呼びかける声も上がっている。
 ただし、出版社から本を全国の書店に卸している日販とトーハンの社会的責任も重いのだ。
 詐欺に加担するのと同じなのだから、卸し問屋でも緊急に対策が講じられるのが当然だろう。

 もっとも、系列グループに出版社を持つテレビ局や新聞社は、こうした卸し会社に厳しく責任を問う事ができない。
 自社の出版物を全国に配本してくれる企業に公の場で責任を問えば、自社の出版物が売りにくくなることを恐れるからだ。

 だから一連の報道の中に、日販やトーハンの責任を問う言説は見られない。
 メディア企業の経営者は、利害関係がからむと、簡単にジャーナリズムを殺してしまうのだ。
 そうした構図をふまえて、日頃から「ジャーナリスト」の看板を掲げてる人の言動を見れば、彼らの志の程度がわかろう。

 自由のものを言う・書くには、自社や自分でリスクを背負う義務や責任が伴う。
 そのリスクを最小限化できる仕組みを作ろうとしないなら、ジャーナリズム(事実を確かめて伝えること)は理想にすぎない。

 表現の自由を拡大しようとすればこそ、その自由の大きさに見合うだけの社会的責任が問われるのは当然なのだ。
 逆に言えば、大きな責任をとる覚悟と準備が十分にできていればこそ、表現の自由は拡張できると言える。
 
 「元少年A」の身元を誰も証明できていないことをすっぱ抜いた週刊文春の記事にも、以下の一文があった。

「自らは匿名で姿を隠したままで、ノンフィクションを書くことは道義的に許されるのか」

 幻冬舎ならびに太田出版は、自社の利益しか考えず、本物の殺人者が書いた本の出版を「匿名」で試みた。
 彼らがどんなに「社会的意味」を叫ぼうとも、両社の社長・社員の家族を殺した人の手記を自社から出版するまで、誰も信じないだろう。

 自社の内部でしか通用しない屁理屈で利益最優先のビジネスをやるのは、どの企業にもある傾向だ。

 でもね、何度も強調しておくけど、自由や権利というものは、自分が果たせる責任や義務の範囲内にしか実現できなんだよ。
 今よりもっと自由にやりたいと望むなら、今よりもっと大きな責任が取れるように自分を育てなきゃ。

 自由になるために責任を取るという構えこそが、僕らの社会に平和と秩序を作るってことなんだからさ。

 出版業界は今回の騒動を機に、こぞって両者の社会的責任を問い、同時に業界内ルールとして「ノンフィクションにおける匿名の排除」をする新設する自助努力をしないと、出版界全体が国民から信用されなくなって本が売れなくなるばかりでなく、下手すると法制化によって国家から表現の自由を狭められたりしかねない。

 つまり、幻冬舎や太田出版に対して出版業界が寛容かつ冷静な指導を行わないと、僕ら読者=消費者は「不自由な表現」の本しか読めなくなる時代を作ってしまいかねないってことなんだ。

 逆に、今回の騒動から何も学ばないままなら、身元不明の著者でもノンフィクションが出版できて、しかもそれがベストセラーになってしまえば、何が事実なのかを判断できなくなるってこと。

 でも、その背景にあるのは、自由・権利を拡張したい人がそれに見合う責任・義務を果たさないという「仕組み」。
 これは、出版業界だけの問題じゃない。
 よのなか全体の問題なんだよ。

 では、どうすればいいんだろう?

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■酒鬼薔薇聖斗の果たすべき責任と、それによって得る自由

 僕に言えるのは、誰もが自分の求める自由や権利に見合うだけの責任や義務は何かと考え、実行することが必要だってこと。
 「まわりが無責任だから自分も…」という空気に流されていれば、自分も太田出版のようにダメな経営者の意のままになる。

 そこで、「難しいよねえ…」と感じた人は、素直な人だ。
 自分の職場で自分だけ社会的責任を果たそうとすれば、いつか職場から追い出されかねないと感じてる人は少なくないもの。

 もっとも、みんながそれぞれの胸のうちだけでガマンを続けているのは、つまらない。
 それぞれの胸にある絶望を、口に出してみよう。ネットに書いてみよう。
 個人の絶望を、「みんなの希望」に変えるために。

 ガマンするより、「イヤなもんはイヤだ」と言えて、それを改善できる社会の方が、生きやすいに決まってるもん。
 そして、そういうよのなかを作り出そうと動き出してる人たちは世界中で増えているんだよ。

 だから僕は、生きづらい「よのなかの仕組み」を変えるために動きだし、変革の成果を出した人たちを取材してる。
 彼らは今日、社会起業家とか、ソーシャルデザイナーとか、チェンジメーカーなどと呼ばれている。

 「動物を役所が殺処分するなんて、絶対イヤだ!」
 「ホームレスが路上で孤独死していくのを見るのは、もう耐えられない」
 「LGBTだからって生きにくい社会は間違ってる!」
 「子育てを頼り合えないよのなかは生き苦しい!」


 …など、いろんな分野に「よのなかの仕組み」を変えるために動き出した人たちがいる。

 彼らの仕事に関心をもってくれたら、このサイトを見てほしい。

 最後に、酒鬼薔薇聖斗「本人」が自由に生きるために必要な責任・義務について示しておきたい。

 他人の命を粗末にした人間の仕事は、自分の命をなげうって、他人の命を活かすことではないか?

 現代の日本では、毎年3万人が自殺している。
 自殺を思いつめて、その3万人に自分が入ってしまう恐怖と不安の日々を必死で生きている人は、さらに多い。
 彼らの話を無償で聞いてあげて、その人の抱える苦しみを少しでも取り除くために、一緒に問題解決に走る人になるのもいい。

 他にも、まだ死にたくないのに、医療費がないために、臓器を提供されても手術が受けられずに亡くなる子もいる。
 その子のために、自分の臓器や資金を提供できるようにしてもいいだろう。

 ヤクザの組にしか居場所がなく、鉄砲玉を組長から期待されて次に自分が死ぬかもしれないと恐れる日々の青年もいる。
 自分の命を差し出せるなら、彼の代わりに鉄砲玉になることもできるだろう。

 長年連れ添った夫や妻に先立たれ、身寄りも友人もなく、孤独な老後の中で「もう死んでもいいや」と毎日のように思い詰めているおばあちゃんやおじいちゃんだっている。
 そういう人に寄り添って、その人が認知症になったら、そっと介護施設を探してあげる人間がいてもいいはずだ。

 娘を殺された山下京子さんは、絵本の読み聞かせや、地域のお年寄りの食事の世話などのボランティアに取り組んでいる。

「償いは彼自身が考えるしかない。
 でも、人のために生きることでしか罪滅ぼしはできないのではないでしょうか」
朝日新聞より)

 生きている限り、他人の命を救うために、自分の命や時間、体力、手間、金をなげうつことができる。
 それが、誰かの命を奪ってきた人間に残された「生きる道」や「自己救済」では?

 前述した複数の選択肢が「高いハードル」ではなくなるとしたら、残りの人生をすべて「他人の命を活かす」生き方に捧げて、少しでも世間からのまなざしを和らげるほかに無いように思うのだ。
 自分自身でもどうしようもなく犯してしまった罪を償うには、それしか道は無いんじゃないかな?

 あとは、酒鬼薔薇聖斗くん、きみが決めること。

 このブログ記事を書いたのは、「酒鬼薔薇聖斗が書いた」と新聞・テレビが大衆に鵜呑みにさせながら、実際は著者が誰かもわからない本を放置すれば、僕らはニセモノや毒になる食品、不良品を知らないうちに買わされるはめになるからだ。

 いろんなジャンルの商品に「価値を必ず保証する」という道義的責任を求めていかないと、よのなかに買う価値のないものがあふれてしまうし、道義的責任を問わなくていい世の中は、買って困った時には訴訟しないと解決できない社会になってしまう。

 困るたびにいちいち弁護士を高い金で雇って裁判なんてさ、貧乏人には生きづらいよのなかだよね。

 だから、いたずらに正義を振り回すつもりはないけど、商品を売る会社にはせめて「価値のわからないもの」は売ってほしくないと伝えたい。

 今回の騒動に関する僕のブログ記事は、これが最後。 
 長い文章にお付き合い下さり、ありがとうございました!



 今より生きやすい「よのなかの仕組み」を作り出すソーシャルデザインについて、もっと知りたい方は、以下のイベントに足を運んでほしい。

 予約が始まっているので、お早めにチェック!

■7・7夜 大阪でソーシャルデザイン「よのなかを変える人たち」(←クリック)
7-7west.jpg
 7月7日(火) 開場 PM6:30 開演 PM7:30~PM10:30/大阪ミナミ ロフトプラスワンWEST
(※Googleに日本一に認められたホームレス支援、LGBT、動物殺処分ゼロなどの団体が集合)




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