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■ソーシャルデザイン界隈で「意識高い系」としてdisられる人々 ~からかわれるには理由がある


 鈴木洋一さんという人が書いたこのブログ記事を引用しつつ、「意識高い系」がなぜ揶揄されるのかについて考えてみたい。

 その記事を要約してみる。

★日本では、社会的課題を解決する活動をする人たちを「意識高いね」と評価したり、「特殊な人」として見られる
 (ボランティア活動でも「人とつながりたい」「就職」「自己の成長」が第一義的な目標として扱われてしまう)

★日本社会には確固たるコア・バリュー、哲学的思想がないからこうした事態が発生する
 (「社会正義」の概念がほとんど浸透していない)

★人々が行動して社会が変えられるという認識の不足が原因
 (成功体験として人々が社会を変えたという事柄が引き継がれていないことが大きい)



 さて、一見正しそうな上記の主張には、大いなる勘違いがある。
 1個1個、どこがおかしいのかを指摘しながら、「意識高い系」が揶揄される理由を考えてみよう。



(1) 課題解決の成果を出してない団体が多いから

 まず、日本で社会的課題を解決する活動をする人たちが「意識高い系」として揶揄されるのは、多くの活動団体が課題解決について目立った成果を出していないからだ。

 活動するだけで称賛されるなんてことは不健全なことだと、常識的な日本人は当たり前に考える。

 その活動でいったい何がどう変わったのか?
 それだけを評価の対象にするのは、とても健全な発想だろう。

 だから、解決の成果をハッキリ出してる事業活動に対しては、すでにふつうの人たちの間に多くの共感の輪が広がっているし、誰もその団体を揶揄したりはしない。

 たとえば、ホームレスの自立支援NPO法人Homedoorは、路上生活者にシェアサイクル事業などで再就職し、社会復帰するチャンスを与える活動が評価され、大阪市民の若い世代に支持を受けるだけでなく、Googleのインパクトチャレンジでグランプリを受賞し、5000万円という大金を活動資金として提供された。

 神奈川県に本社を置くAsMama(アズママ)では、子育てと仕事の両立という社会的課題に対して子育てを地域社会で助け合う解決サービスを提供し、1時間500円程度の安い「子ども預かり代」によってママたちの圧倒的な支持を集め、この1,2年の間に急速に全国に事業拡大している。

 こういう優れた課題解決の事例は、拙著『よのなかを変える技術』(河出書房新社)や『ソーシャルデザイン50の方法』(中公新書ラクレ)、『社会起業家に学べ!』(アスキー新書)などでたくさん紹介している。

 そうした優秀な団体をマスメディアが積極的に報じているかといえば、お寒い限り。
 これは、新聞社の編集主幹やテレビ局の社員プロデューサが、「べつに報じなくても自分は何も困らない」という立場にあるから。

 すぐれた解決の成果をもっていても、マスメディアに対する広報戦略をもっていない活動団体も少なからずあって、僕は日本財団で広報戦略セミナーを開催したり、オンラインサービスとして戦略を教えていたりもする。

 社会的課題解決の成果を出しているなら、それを効果的に広報しいていかないと、その解決インフラを切実に必要とする人に届かなかったり、届くのが遅くて問題をこじらせてしまうことさえある。

 ソーシャルデザインの担い手は、「意識高い系」ではない一般市民の前で、活動前と活動後の変化をわかりやすく伝えるチャンスが必要なんだ。

 だから、僕自身、「社会起業支援サミット」を3年間かけて全国27都道府県で開催したし、今年は東京と大阪で大衆的な「トークライブ居酒屋」で活動を伝えるイベントを開催する(※詳細はコチラ)。

 このように、「意識高い系」ではない一般大衆の足の運びやすい場所にNPOやソーシャルビジネスの担い手が集まるのは、まれなことだ。

 残念なことに、彼らがよく集まるのは、東京では日本財団ビル、六本木ヒルズ、東京ウィメンズプラザ、渋谷ヒカリエなどの「意識高い系」を印象づける場所だ。

  実際、ソーシャル系のイベントに足を運ぶと、見事に高学歴インテリ文化層のふきだまりで、参加者たちの誰もその属性の均質さを不気味に感じておらず、多様性の受容とはほど遠い。

 よのなかには、「低学歴ヤンキー文化」や、インテリにもヤンキーにも入れずに浮いてる中間層の浮動票のような「マージナルな文化層」、文化を享受できずにいる「底辺層」もあるが、「意識高い系」は高学歴インテリ文化層どうしで群れたがるわけだ。

 そういう偏ったところで「社会」を平気で語る公開イベントを、僕は「インテリ村の公開オナニー」と呼んでる。

 そうした場所では、「欧米には社会的課題を放置することが社会的におかしいという認識が広く共有されている」と指摘しながら、「日本にはそれが無い」かのように語られがちだ。

 家族や地域社会が崩壊して「成熟化」した現代日本では、「趣味縁」のように共通の趣味で集まったり、同じ問題に苦しむ人々どうしで課題解決に動き出す「問題縁」(※女縁もこれに相当する)という新しいコミュニティ・フレームが多様に生まれている。

 だから、ネット上で動物殺処分の残酷さを知った人は、殺処分ゼロにできる活動で目だった成果を出してるNPOを「意識高い系」などと揶揄したりはしない。

 それどころか、そのNPOに寄付したり、活動に参加したり、活動の成果をtweetすれば、RTもしてくれる。

 それが「問題縁」というコミュニティ・フレームであり、このフレームの外側に多くの「課題解決の成果を出してない団体」がたくさん横たわっているんだ。

 
(2) NPOの代表者に高学歴インテリ文化層が多いから

 文化が学歴層によって分断された今日では、社会正義は地域社会などの既存のフレームではなく、文化の違いを超えて同じ問題に苦しむ「問題縁」という新たなコミュニティ・フレームに受け継がれた。

 しかし、高学歴インテリ文化層は、そのことにあまりに鈍感だ。
 だから、低学歴ヤンキー文化層に対して「導いてやる」「支援してやる」という構えを一方的にしがちになる。

 たとえば、朝日新聞の一部の記者が持ち上げた仁藤夢乃さんのJK支援も、彼らが支援対象とする当事者のJKたちにとっては手放しは喜べないものだ。

 あるいは、不登校やひきこもりの支援団体の多くは、障がい者が通う作業所の職員がそうであるように、ひきこもりの若者がいてくれるおかげで寄付や会費を集め、飯を食えている。

 自分の活動団体の内側に若者たちや彼らの親を囲い込んで、団体の外側の社会にたくさんある面白い生き方や学歴ハンデがあっても東大卒と変わり映えしない所得が得られるユニークな稼ぎ方にひきこもり当事者を速やかにつなげることに失敗してる団体は少なくない。

 これは、無学歴・低学歴でもその当事者各自には「固有の価値」があることを、高学歴インテリ文化を自明のものとする人たちが発見できていないからなんだ。

 だから、状況分析は妥当なのに、対策が「支援」のままになり、「高学歴インテリ文化の価値観で幸せになれ」と強いてしまう活動になりがちだ。

 若者が自立できないんじゃなくて、自立させない(=当事者との共助・協働に高学歴インテリ文化層が自発的に加わる動機付けに失敗している)ということが、わかってない。

 異文化を理解しないまま、数字だけで因果関係を導くのは、頭でっかちの悪い癖だ。

 つまり、自分とは異質な文化に配慮せず、「こんなに良いことしてるのに、なぜからかうんだ?」と居直るから、いつまでも「意識高い系」とバカにされる。

 無自覚って怖いね。

 自分の信じる高学歴インテリ文化を相対化して発想できない人は、自分たちの価値観が社会全体の価値観だと盲信してる。

 その構えに自覚的になれば、自分が先行世代の作った「よのなかの仕組み」に乗って成功しただけの、狭い世界しか知らない人間だったと気づくはずだ。


(3) 日本のソーシャルデザイン教育は始まったばかりだから

 とくに若い世代において、ソーシャルデザインを学ぶ・知る・教わるチャンスは、近年ようやく高校や予備校、大学などで始まったので、社会的課題の解決事例に関心をもつのはむしろこれからだ。

 ネット上で情報を得ようにも、そもそもネット検索は自分の知ってる言葉しか調べようがないんだから、「ソーシャルビジネス」や「ソーシャルデザイン」という言葉の認知度が低い以上、怪しいもののように思われても仕方がない面がある。

 しかも、日本では、大学に進学する高校生は近年、やっと2人に1人になった程度で、社会全体でいえば、高卒以下が圧倒的に多数派だ。

 つまり、「高学歴インテリ文化層に属する人たちは、現時点では社会の中での少数派。
 一般大衆に活動の成果や正当性を伝えるには、高卒以下の人たちが十分に理解できる表現や報道が必要になる。

 それをちゃんと理解してる優秀な人たちは、すでに大衆からの信頼と人気を得ているポップ・アイコンとコラボする。

 有名な写真家と組んでLGBTカップルの写真を撮影するチャンスを作ったり、地域に根付いた企業と事業をコラボするなど、「人材の借り物競争」が上手だ。

 それは、学歴や文化に関係なく、ソーシャルデザインの実態を大衆にピンときてもらおうとする配慮ができているから。

 「高学歴インテリ文化層」以外の異文化に対する関心・配慮のない多くの日本のNPOは、自分たちの主張ばかりをしたがるから、「あいつら意識高い系」とからかわれてしまうのだ。

 解決の成果を伴わない「青年の主張」をいちいち聞いていられるほど、不況下の日本人はヒマじゃない。

 それより、東日本大震災の復興ボランティアに参加すると有名アーチストたちのライブチケットがもらえるプロジェクト「ロックコープス」を見習った方がいい。

 日本にはずっと「講」という相互扶助の文化があり、それは「祭り」のように楽しい表現をもって今日まで受け継がれてきた。
 「ロックコープス」が今年も無事に開催できるのも、それが現代版の「講」(問題縁)だからだ。

 正しいことより、面白いことに、人は心を寄せる。

 こんな当たり前のことがわからずに、「正論を吐けばみんなついてくる」なんて思うのは幻想だし、社会変革の活動家としては甘えにすぎない。

 意識を変えるべきは「意識の低い大衆」ではなく、冒頭のリンク先のブログを書いた人自身なんだよ。



表1カバー見本

 拙著新刊『よのなかを変える技術』の目次をみたい方は、コチラ
 著者・今一生に、自分の住む地元へ来てほしい方は、コチラ
 『よのなかを変える技術』の関連イベント(5~7月 東京・大阪)を知りたい方は、コチラ


(The Beatlesの名曲『Revolution』を日本語で歌ってみた。この歌詞から学ぶべきことは大いにある)


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