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■1週間の入院で僕も考えた ~誰かと共に暮らすために必要な自分の価値


 2月3日まで、急性胆のう炎で1週間、入院していた。
 胆管が破裂し、膿がたまって激痛だったのだが、それを放置して仕事をしていたのだ。

 痛みに耐えきれなくなり、予約なしで診てもらうと、形成外科から即日外科を紹介された。
 外科医の判断は早く、検査の後、局部麻酔で膿を出し、皮膚の外に管を出し、膿を出し切る処置に。

 その日から1週間入院してる最中に糖尿病も発見され、インスリン注射の日々が始まった。
 で、ようやく一時退院してきた。
 3月下旬に胆のうを全摘する手術のため、5日間ほど再入院する見込みだ。
 それまでは、週1程度、外来で経過を診てもらうために通院する。

 本格的に仕事復帰できるのは4月未明として、糖尿病対策として運動を始めるのは6月頃になるだろう。
 だが、その前に4月中旬に出す新刊本『よのなかを変える技術』(河出書房新社)のゲラチェックや、今年新たに始める仕事の準備なども進めなきゃいけない。

 3月末の手術までは、自分で右横腹に埋め込まれた管にガーゼをかぶせ、毎日それを取り換え、インスリン注射や血糖値の自己検査などを続けることになる。

 「術後は投薬に切り替える」と内科医に言われていて、食事制限を帰宅後も続けているため、血糖値は優・良の数値で安定している。
 しかし、腹に穴を空けて管を入れているため、少し動くだけで皮膚を縫合した糸が引っ張られ、腹筋に力が入らない。

 高い声は出せないし、大きな声も出しにくい。
 それだけで結構、元気をそがれるものだ。

 インスリン注射は、3度の食前と寝る前に打つ。
 その前に必ず血糖値を測るために、指先にプチッと刺す採血をしては、医療廃棄物としてストックし、外来のたびに病院に使用済みの針などを運ぶことになる。

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 さて、食事の前に毎度血糖値を図るのも、インスリン注射を打つのも、1日の食事の摂取カロリーを1800キロカロリー以内に制限するのも、僕個人の場合は、一人で暮らす方が気分的にしやすい。

 約2年前に一人暮らしから実家に戻った。
 実家には70代後半の両親がいて、母親は要介護のつかない段階の認知症を歩み出している。

 専業主婦の長かった母親は、台所の支配者だ。
 自分が食べさせたいものを「せっかく作ったんだから」「おいしいから」と食べさせようとする。
 拒否すれば、鬱々とするか、不満げに文句を言い続ける。

 介護のケアマネをやっている妹から「お兄ちゃん、先に実家に入って面倒見てよ」というので実家に戻ってきたのだが、1人暮らしの時は自己管理で食事をしていたのが、いきなり味の濃い食事や、下手すると週に3度も餃子やマグロ寿司が食卓に並んでしまう高カロリー地獄になった。

 なるだけ量を減らし、母親が寝静まった後で仕事をしながらセロリをかじる日々だった。
 母親は、自分の知らないところで息子が食事をしているのを知るのも嫌なのだ。
 そのくせ、冷蔵庫にある生鮮食品は、下手すると数か月前に買い置きしたシャケだったり、賞味期限もわからない肉だったりする。
 母親は、冷蔵庫に入れておけば、焼いただけで永遠に食えると盲信してるのだった。

 こんなカロリーバランスが悪い食生活を続けていれば、当然、病気にもなる。
 昨年春に胆石を疑って地元の病院で診てもらうと、やはり胆石を発見され、小さいので薬でちらすことにした。

 その際も糖尿病を指摘されたのだが、栄養指導を受けても、毎度の食事が変わらないわけを栄養士の先生や主治医に訴えても、「なんとか努力できませんか」の一点張りだった。
 医療と福祉がつながってないので、家庭の事情は医療では「専門外」で一蹴されてしまうのだ。

 しかし、地元の病院から紹介された大学病院では、外科医の判断は早かったし、糖尿病を担当した女医さんが「私も介護で大変だったからわかります」と気持ちに寄り添ってくれた。
 ダメ元だが、次回の大学病院での栄養指導に母親を連れてくることを提案してくれた。
 栄養指導で母親は「良い人顔」をするんだろうが、指導の中身を記憶することは期待できない。

 いずれにせよ、自宅に戻ってきた以上、食事の改善はマストだ。
 だからといって僕が自分で食事を作れば、母親の孤独が増して認知症が進んでしまうのは必至だ。
 そこで、今日から3食のメニューを具体的に指示し、明日から低カロリーの食材を買ってその日に食べることに父親も協力してくれることになった。

 こうした一連の面倒を思う時、僕が考えたのは、結婚だ。
 ある種の親は、子どもが自分の愚かさのために病気になって苦しんでることを認めない。
 それどころか、「こんなにお前のために尽くしているのに」という思いを捨てることができない。
 そうした子どもに対する甘えに居直ってしまうのが、老いた親の傾向の一つかもしれない。

 そうしたデメリットを防ぐためにも、親から離れて暮らすことは一つの解決のあり方になるし、そこに結婚あるいは結婚と同等の信頼関係を築ける共同生活が必要になるのだろう。

 僕は長らく、男に経済力を期待する人が好きになれなかった。
 経済力に見合う何らかの魅力がなければ、その両者の関係は途端に支配関係になりかねないからだ。
 しかし、人情としては、わかる。
 自分が経済的に弱ければ、強い人にすがりたくもなるだろう。
 自分が健康的に弱ければ、強い人にすがりたくなるように。

 僕は今年9月で50歳になる。
 独身で、経済的に安定を保証できない自営業を続け、体まで弱体化していった時、僕は何を魅力や価値として打ち出すことで結婚あるいはそれと同等のコミュニティや関係性にコミットできるのだろうか?

 しかし、このことを不安という感情で書いているほど、僕は自分の未来に絶望してるわけじゃない。

 むしろ、力も金もないというだけで不安におびえてる人がこの社会にたくさんいることに思い当たる時、僕が取材してきたソーシャルデザイン事例を活かした解決のあり方を作り出せることに希望を感じるし、そうしたことをふまえた仕事をしていきたいとも思う。

 結婚あるいはそれと同等のコミュニティや関係性にコミットできる仕組みを作り出すことは、社会のセーフティネットを民間で作る試みとして急務の課題だろう。

 そして、そこでは力や金ではないべつの価値、各自の魅力を、関係性を獲得するために交換できる仕組みが必ず問われることになるはずだ。

 その問いかけを当事者として考える時、僕は僕の価値を発見してくれる誰かとの出会いや関係性について、これまで以上に切実に考えざるを得なくなっていることに思い当たる。

 これまで何度かそうしてきたように、僕は再び僕と共に暮らす人を探す時期に来ているんだろう。
 そして、それはラストチャンスなのかもしれない。

 こうした話題に関心のある方には、過去の簿kの電子書籍が参考になるかもしれない。
 既に廃刊した建築雑誌『home』に連載したものだが、全国各地のさまざまな共同生活のありようを伝えている。

■〈脱・血縁〉の共同生活スタイル(※digbook PDF版)
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