風俗嬢やAV女優の「語り」としてメディアや本で見るものの多くは、演技だったり、取材する側の文脈誘導に乗ってあげただけのものが珍しくない。
当事者自身が自発的に望んではいない「語り」には、読者に情報のリテラシーを問うコンテンツが珍しくないのだ。
最近話題の本
『AV女優の社会学』(鈴木涼美・著/青土社)も、それをふまえている。
AVや風俗を扱った本はたくさん出ているので、読み比べてみるのも面白いかもしれない。
当事者自身の自発的な語りでないものを文脈誘導する報じ方は、障がい者の性や児童虐待など深刻な事情を抱えてきた人へ取材したテレビ番組や新聞記事でも同様だ。
社会的マイノリティに属する分野では、取材前から取材する人があらかじめ持っている「良識的な社会」のバイアスで「何が問題か」を先に決め、そのストーリーにとって都合の良い取材対象が選ばれ、取材される側の言葉の中から、ストーリーに見合う言葉をセリフのようにすくい取って取材終了と考える向きは、少なくない。
テレビ・新聞・雑誌では、むしろそれが王道的な取材として日常的に習慣化されている。
その分野における新たな真実の掘り起しという目的ではなく、ネタ的に新しい切り口や現象にこそ商品価値があるかのように信じられているからだ。
しかし、冷静に考えれば、そうした取材姿勢には無理があると気づくだろう。
たった1回の取材だけで、自分がとんでもなく苦しかった家庭の事情や、うかつに人に話せない深刻なトラウマ体験をホイホイ語る人などいない。
いつもはニコニコして「お金になるから風俗やってるー」と明るく答える女性でも、何年も会って取材してるうちに「実は…」と風俗に入る前の経緯を明かしてくれる人もいる。
もちろん、風俗嬢のみんながみんな深刻な事情を持っているとは限らないが、真実を知るために信頼関係を築くにはそれ相応の年月がかかることは、メディアでの報道内容を判断する際に必要な認識だろう。
大切なことなので繰り返すが、取材する側との信頼関係を築けるだけの年月が真実の掘り起しには必要だ。
それは、取材をする側にとっては、お金も労力もかかることだ。
だから、局から制作会社に外注され、製作費を抑えられた多くのテレビ番組では取材期間が短く、取材される側はアレコレ説明するのも面倒なので、取材する側の報じたい文脈にとりあえず「乗ってやる」だけになる。
そうした取材現場のありようをふまえずに、未成年の家出や売春を語る際に、「何が問題か」を先回りして報道する側が決め、当事者責任をいきなり問うのはフェアじゃないし、児童福祉の点でもおかなしなことだ。
しかし、「そんな不良行為はやめてね」という優等生的な切り口で終わるテレビ番組は少なくない。
こういう報道関係者に付き合うのは面倒なので、子どもたちもその場の空気を読んで「はい」で済ませる。
先日も、小中学生の女子による売春を扱ったテレビ番組で、彼女たちが「安易にお小遣い稼ぎをしている」というナレーションで文脈誘導があった。
しかも、ゴールデンタイムで、だ。
番組予算をかけられる時間枠で、この雑な取材は非常に罪深い。
家出もそうだが、なぜそこに至る経緯に踏み込まず、優等生的な社会観だけで当事者責任を子どもに問うのか。
異文化に対して一方的な判断基準で「かわいそう」とか「大変ね」で思考停止してしまっては、その文化を尊重したことにはならない。
たとえば、資本主義より原始共産主義の社会で暮らしたい人もいる。
どっちがいいという話ではない。
幸せの判断基準は当事者に決めさせてくれってこと。
自己決定権を奪う環境つくりは、きわめて怖い。
こういう「当事者無視」の構えは、いま日本のメディアだけでなく、ふだんの暮らしの中でも当たり前になっている。
仕事や恋愛、子育てなどまで、いたるところに見受けられる。
たとえば、戦前まで、日本の男は、恋愛の努力を必要としなかった。
結婚は家・国のために奨励され、女性は自由に働くことを制限されていたため、結婚が生存戦略だったから。
だから女は事実上「産む機械」扱いされ、家父長制の下では夫からのどんな命令にも従わざるを得なかった。
ちなみに、戦前は未成年の子どもにいたっては人権なんてありえなかったし、児童に対する人権意識の低さは、国連の児童憲章を守らない日本では、いまだに低いままだ。
だから、今でも中学生を含めて参加する公式行事に「ちびっ子~大会」というタイトルがたくさんあって、大人たちは誰もこの表現を疑わない。
天皇制と同時に家父長制も終わった戦後では、男は自発的に「女とは何か」「子どもとは何か」を学ぶ必要性が高まった。
だが、今なおメディア業界における報道関係者の多くは男であり、その疑問を自分自身につきつけなくても社会へ何かを伝えられると勘違いしてる向きが少なくない。
男社会では納得できても、女性や未成年にとっては「?」という報道を続けていては、より若い世代に生き苦しさを残すことになりはしないか?
当事者の声を真摯に聞くには、それ相応の年月をかけた付き合いと、それに基づく信頼関係が必要不可欠だ。
そういう面倒なんかしたくないよという構えに居直れば、自尊心を大事にされず、承認欲求を持て余し、「誰でもいいから大事にされたい」という脆弱な自意識にまま、震えながら社会の片隅でちぢこまってしまう若い世代が増えるだろう。
実際、「誰でもよかった」という決め台詞で無差別殺傷事件をやらかす若者のような脆弱な自意識で日常生活を送ってる子は、いまどき珍しくない。
社会経験が乏しく、承認欲求に飢えていることも自覚できず、世の中の仕組みもわからず、善悪の判断が偏っている小さな子どものような人は、丁寧に知識を教えられても言い負かされたかのような孤独しか覚えない。
わずかな部分でもなるだけ肯定してあげないと、子どもは話を聞かないものなんだ。
童貞に居直って女性蔑視を繰り返したり、障がい者に居直って健常者というだけで敵視したり、大人に居直って若者をガキ扱いするような愚かしさは、社会への不安の裏返しかもしれない。
そうした不安を個人の属性ゆえのものだと誤解すれば、彼らに正論を吐けば済むかのように対処しがちになる。
だが、そうした正論を、彼らも、そして僕らも求めてはいないはずだ。
彼らのニーズはあくまでも、自分の自尊心を満たしてほしいってことなんだろう。
それに気づくことが、僕らの時代に「弱者」から要請されている余裕なのかもしれない。
若者を脆弱な自意識に追い詰めてきたのは、大人たちだ。
僕自身もその点で同罪だと思いつつ、仕事をしたい。
それが僕ら自身の余裕のなさを浮き彫りにすると同時に、そうした余裕のなさを温存する「社会の仕組み」のダメさに気づくために必要な構えだと思う。
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