自分が何かに困った時、声をかけられたいと望む人って、本当に多いのかな?
あなたが深刻な問題を抱えた時、「誰か私に声をかけてくれよ」と望むだろうか?
どうしても自分だけでは解決できないと切羽詰っても、自分が「この人なら」と期待した人に自分の方から声をかけるのでは?
声をかけられるだけの言葉とアクションを日頃からやっている人なら、相談したい人自身から声がかかる。
それが、困ってる当事者ニーズに見合うだけの公共サービスの証拠なのだ。
ところが、行政でのイベントや、テレビ番組では、必ずしもそうした判断基準で勉強会のゲストを招いたりしない。
新聞も同様で、「本当に当事者ニーズに合うアクションなのか?」という判断基準が軽視される。
だから、こういう番組が平気で制作されるのだ。
20140901HeartnetTV Breakthrough File12 JK... 投稿者 tokukaza7 自殺も家出も売春も、「自殺しないほうがいい」「家出を避けたい」「売春をやめさせたい」という正論を疑わないところから企画が出発し、優等生的なメッセージと活動をしている若者がいると、視聴者を容易に味方につけられるため、安易な番組が作られてしまう。
僕にもさんざんこうした番組制作への出演やブレーンの打診、「取材相手を紹介してほしい」というオファーがあったけど、結局、そのほとんどを断らざるを得なかった。
なぜなら、「問題」を起こしてる人として当事者を紹介しても、優等生に反省を迫られているかわいそうな子、という範囲しか、オンエアしないからだ。
記事にしないからだ。
それは、結果的に当事者個人に自己責任をかぶせるだけで、視聴者や読者が当事者自身の望む解決のあり方を探ることに伴走することを動機付けられないし、解決の仕組みに参加できることもないし、当事者に対するコンパッションを抱かせることもない。
つまり、視聴者や読者をいつまでも「誰かの苦しみを作り続けている当事者」として突きつけるメッセージは、マスメディアでは流せないし、報道関係者も自分の報道内容がまるで暗いトンネルの奥に叫ぶように、あいまいな社会にしか向けられない。
これは、テレビ番組を作ったり、新聞記事を書く人間、編集する人間が、「自分自身の社会問題への関心のもち方自体が問題解決を望む当事者とは違う」ということに気づいていないか、そうした自問を回避しているからなのだ。
その証拠に、取材相手と長い間、付き合いを続ける人は、新聞社の社員やテレビ局の社員のような「ジャーナリスト」ではなく、その外注仕事を請け負っているフリーの記者だからだ。
実は、新聞社やテレビ局の正社員の方々は、取材を機に取材相手と長く深く付き合うことを避けるし、1度しか会わない人すらざらにいる。
彼らにとってニュース報道は日々消費するネタにすぎず、より深くより真実を掘り下げることをしなくても、固定給をもらえるからだ。
フリーだと、それでは食えない。
同じネタでも、それまでに発見されてない新事実や、新しい視点などを獲得できるまで、現実を掘り下げるには、同じ取材相手と関係を深くし、その深さによって相手が言えなかったことが言えるようになるのを辛抱強く待たない限り、驚くような真実を発見できないからだ。
大学でメディア・リテラシーを学ぶ人たちは、そういう生臭い報道の現場について知らされているんだろうか?
ともあれ、支援活動の正当性は、支援される側の切実なニーズがあってこそ成立する。
支援される側の声に担保されない支援活動は、支援したい人自身のエゴにすぎない。
支援されたい人は、自分が必要とする支援内容を十分に備えたところに自発的に足を運ぶ。
自ら声をかける支援は、支援内容がニーズから遠い証拠なんだよ。
NPOなどの非営利活動における内容は、市場原理で言えば、商品やサービスと一緒。
価値のないものには、お金も時間も足を運ぶ労力も支出しないのが、まともな消費者だよね?
NPOのアクションは、その活動成果が、それを必要としている当事者のニーズを十分以上に満たしていなけりゃ、ただの自己満足にすぎないの。
深刻に困っている当事者の声よりも、自己満足を続ける活動家の声を大事にするって、どこか変だと思わない?
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