既存の「よのなかの仕組み」では生き苦しい人たちの中には、生き苦しいことを自己責任だと錯覚し、「自分さえがんばればいいんだ」と不当なガマンを続けてしまって、さらに苦しくなってしまう人たちがいる。
生き苦しさが募るばかりでは、「癒し」がほしくなる。
それはたいてい、自分の考えと同調し、自分を歓迎してくれるコミュニティだ。
そうした自助グループ的なトライブ(族)はさまざまにある。
右や左の政治団体、ヤクザ、ギャングチーム、ヘイトスピーチ団体などから、ヲタクサークル、貧困支援団体、宗教団体などまで、挙げればキリが無い。
それらのトライブに入れば、そのトライブのローカルルールが心地よくなるため。トライブを囲んでいる「よのなかの仕組み」を変える発想をする必要がなくなる。
やがて、ヒゲが生えたらそるように、トライブに居心地の良さを感じる。
ヒゲがイヤでも、脱毛という発想にはなりにくい。
しかし、トライブを運営する上層部には、自分たちの組織を温存したいがために「よのなかの仕組み」を自分のトライブにとってのみ都合の良いものへ変えたい動機が生まれる。
その際に使われる「みんなのために」の「みんな」は、事実上、特定のトライブの利益しか意味しない。
彼らには、そもそも多様な社会の全体性に対する関心がないんだわ。
そういう偏狭な視点で「よのなかの仕組み」を変えてもらっては、困る人がたくさん出てくる。
だから、安易に制度変更を求めるロビイングは、とても危険なのだ。
サブカルチャーは多くのトライブを生み出してきた。
だが、1980年代の後半から、メイン/サブの境界線があいまいになった。
むしろ、両者を越境しながら学んだ先にある上位概念「オルタナティブ・カルチャー」(もう一つの選択肢)に注目し始める人が出てきた。
欧米のミュージシャンたちは、アフリカの飢餓解消のために所属レコード会社というトライブを超えて集まってはチャリティの歌やライブを発売した。
音楽を楽しむ道具としてだけでなく、苦しんでいる人を救う道具にしようというメッセージの下に多くの有名ミュージシャンたちが集まり、経済的支援の仕組みを作ったのだ。
踊るクラブも、1990年代後半になる頃には、精神病者やセクマイなど「日常的には居場所の無い社会的少数派たち」の自助グループとして機能していた。
彼らは、「よのなかの仕組み」の変更が、政治に頼むだけではなく、生活や市場といった非・制度的なシーンにおいても可能であることを知らしめた。
性的少数派一つとっても、決して軽視できる市場規模ではない。
2007年に
日経ビジネスは、ポータルサイト運営会社のパジェンタ(東京都千代田区)の発表した数字を引用し、こう紹介している。
「日本の同性愛者は約274万人、20~59歳の人口比では4.0%に相当するとの結果が出た。
さらにアンケートから消費ベースの市場規模を算出すると6兆6423億円」 このように、潜在市場が見込めれば、その市場が求める商品・サービスを開発することによって、それまで問題だったことを解決できる仕組みも作れる。
その仕事をする代表例が、ビジネスによって生き苦しい「よのなかの仕組み」を変えている社会起業家だ。
市場原理を上手に使って、既存の「よのなかの仕組み」を塗り変えていく社会起業家の仕事は、とても刺激的だ。
トライブのコミュニティ内でぬくぬくとしているだけでは生き苦しさを温存する「よのなかの仕組み」は変わらないが、社会起業家はそうした現実のダメさに早めに気付き、新たな「よのなかの仕組み」へと更新させている。
そういう大人の存在を、10代の若い子たちに早めに知らせたい。
そうすれば、いじめの問題も、いじめる側/いじめられる側という対立の構図で考えて憎悪を膨らませるばかりでなく、「よのなかの仕組み」が悪いために生じている問題だと気づくだろうし、学校教師ができることの限界にも気づくだろう。
いじめる子が、いじめたくなってしまう動機を作っているのは、「よのなかの仕組み」だ。
そういう発見ができた子は、受験・進学のために学ぶ以上に、生きていくために必要な学びを得るはずだ。
しかし、日本では
15歳で文化を仕分けされる。
より高い偏差値の大学を目指す進学校の「高学歴インテリ文化」と、中卒・高卒どまりの学歴で低所得者の人生を運命付けられる「低学歴ヤンキー文化」の格差の荒波に、高校受験の段階で放り込まれるのだ。
そして、受験偏差値的に優秀な子は、低偏差値の同世代にほとんど関心がわかないまま、自分の幸せだけに時間と労力をかける人生を始める。
だから、そうした「優秀な子」は、大人になって公共政策や社会起業を考えても、なかなか「勉強のできない子」の当事者性をふまえた問題解決モデルを生み出せない。
当事者を無視すれば、まるで見下ろすような「かわいそう」視点でしか、解決モデルを考えられないのだ。
ここで、「高学歴インテリ文化」には見えていない「低学歴ヤンキー文化」の一例を示しておく。
たとえば、10代で望まぬ妊娠をするギャル女子高生がいたとする。
昔なら仲間うちで中絶カンパをしたかもしれない。
だが、今は必ずしもそういうセーフティネットには簡単にはありつけない。
おなかが大きくなって、バレてる不安がマックスになった頃、ごく親しい友人から無神経に突っ込まれてようやく相談を始める。
しかし、既に堕胎できず、家族にも先生にも役所にも相談しないまま、出産せざるを得なかったりする。
というか、友人に話す段階でも、友人自身が周囲の大人や役所に頼ることを知らないか、避けるので、産むしかなくなるのだ。
よく知らない男の子かもしれないし、実の親の子かもしれない。
いずれにせよ、男はとっくの昔に逃げている。
だから、「だんまり」のまま出産し、施設に預ける発想もなければ、家族に面倒を見てもらう手立てもない場合もある。
赤ちゃんの「その後」を考えると問題はいっそうこじれていく。
だが、その頃には誰も彼女の味方になってくれないし、本人も相談相手がいないまま一人でその現実を背負い続ける。
NPOや社会福祉協議会、市の福祉課など既存の福祉現場のスタッフには、そこにいたる文化の切実さが見えてない。
問題に苦しむ当事者は、それらの役所や福祉サービスの存在を知らないし、たとえ知っても「そんな偉い人たちに会えば叱られる」という恐怖から、安心できる相談相手とみなさないからだ。
妊娠だけじゃない。
親にひどい虐待され続けていても、それにうすうす気づいた周囲の大人から児童相談所や警察へ通告されることはまれだ。
よのなかには、行政・民間も含めて福祉が行き届かない切実な現実がある。
それは、「高学歴インテリ文化」を生きてきた人たちの無関心によって生まれた死角にたくさんある。
切実さのより高い問題になるだけ光を当てるというアプローチを、大学で福祉を学ぶ学生に提供できないものなのだろうか?
親から虐待を受けて育った人や、低学歴のまま家出した人、重度障がいで18歳から自分で仕事を作った人など、福祉を学ぶ人に「生身の先生」として話してくれる人たちを、僕はたくさん知っている。
彼らが彼ら自身の苦しみを乗り越えてきた貴重な話をして、いくばくかの謝礼を受け取れるチャンスを増やしたい。
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