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■社会の仕組みにいじめられる側が、より弱い人を… ~本当に必要ないじめ対策とは?


 NPO法人ストップいじめ!ナビ、という団体が法人認証されて本格的に立ち上がるらしい。

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 団体名は勇ましいけど、活動目的の正当性や活動内容がよくわからない。

 「自殺対策コンテスト」「児童虐待STOP!アクション」のような”当事者無視”の匂いも漂ってくる。

 この団体に関わっている明智カイトさんによると、「ストップいじめ!ナビ(のスタッフ)は私のようなLGBTや、不登校児などのどちらかというといじめらる側」とか。

 この団体には、低偏差値の高校に通った元ヤンキーや、傷害事件での少年院帰りの青年、過去のイジメを悔いている元いじめっ子などを、団体立ち上げの当初からスタッフとして歓迎して公募する動きは無さそうだ。

 そこで、いろんな疑問がわく。

 いじめは、いじめられる側の「いじめて!」という望みからはなかなか始まらない。たいていは、いじめたい側が始める。
 だとしたら、いじめる側の気持ちや境遇、動機形成の要因がわかるのは、いじめたことのある当事者ではないか?

 それに、いじめをとめるのと、いじめをなくすことは、同義だろうか?

 いじめられても仲間の末端にいる子にとって、いじめ顕在化で仲間を失っても、本当に幸せだろうか?

 いじめる/いじめられる関係が今よりもっと水面下のものになったら、どう問題解決できるのか?

 いじめの経験がゼロになって喜ぶのは、本当にいじめる当事者/いじめられる当事者だろうか?

 たとえば、いじめる側にはいじめるだけの理由があるわけだけど、それが当事者の周囲にいる親からの虐待や貧困、先輩からの命令、担任教師による偏見だったら、そうした「周囲の大人」に対してどんな解決アクションが具体的に行われるのか?

 たとえば、いじめる側には、学力が低いと勉強が面白くないなどの「よのなかの仕組み」によって孤独や嫉妬、うらやみなどを持つ思春期の子がいると思うけど、そうした場合、当事者を苦しめる「よのなかの仕組み」をより生きやすいものへ変更できるだけの具体的な方法やスタッフは調達できるんだろうか?

 「いじめる側/いじめられる側」で分断したり、両者の間に対立構造を持ち込んでどちらかの立場に立つこと自体が、いじめという行為に追いやる「社会の仕組み」のまずさを見えなくさせる。

 だから、いじめられる側に同情しただけの一方的ないじめ防止活動は、これまでほとんど「いじめ撲滅」にとって効果が無かった。

 これは児童虐待でもさんざん指摘されてきたことだが、虐待されたあとで子どもを保護するだけでは、児童虐待はなくならない。

 わが子なのに虐待を辞められずにエスカレートさせてしまう親を、虐待という行為に追い詰めているさまざまな要因(=よのなかの仕組みを含む)を取り除き、親自身をいやさなければ、虐待はいつまでも繰り返され、子どもの虐待死までエスカレートしかねないのだ。

 最近ネットで拡散されている「母親による幼児虐待」の動画についても、毒親として社会からの憎悪を向けるだけでは何も解決しないことを指摘する人も出てきた。

 いじめる側は、「社会(よのなかの仕組み)にいじめられている人」だ。
 いじめる側も、見方を変えれば、「いじめられる側」として痛みを分かち合える仲間なのだ。

 修復的司法について少々かじったことがある人なら、いじめが「いじめられた側」に偏った立場からしか語られない場合のデメリットも知っているのかもしれない。
 だが、このNPOのスタッフたちは、きっと知らないのだろう。

 そのまま「いじめられた側」の当事者に偏った活動を始めれば、今まさにいじめられている子のリアルな痛みと向き合うのも難しいと気づかないだろうし、明日も明後日も続くいじめを止めることなど夢のまた夢だ。

 つまり、「いじめられた側」のスタッフだけで活動を始めようとすれば、今まさにいじめられている子にとっての利益にはならないのだ。
 なんて残酷で自己満足な「ストップいじめ!」だろう。

 「いじめる側」の生きてきた文化に対する無関心ゆえに文化的差異を乗り越えず、「いじめられた側」からの憎悪を正当化するという構えだけでは、いじめ問題はいつまでもモグラ叩きゲームだ。

 虐待された子が自分を虐待した親を呪うことで自尊心を保とうとするのは大事だが、そうした呪詛のコミュニティの中で安心していられる自助グループのままでは、生きずらさは変わらないし、児童虐待も終わらない。

 だから僕は1997年に『日本一醜い親への手紙』という被虐待当事者の本を作った後、1999年に『完全家出マニュアル』を作って虐待する家からの避難を正当化した。

 かつてのいじめ不登校問題を、フリースクールを作ることで「学校に通わなくていい」という仕組みを作ったのと同じ発想だ。
 いじめや学校からの避難は、既に社会的に容認された。
 次は、家出も容認されるべきだろう。
 学校や家庭にある「よのなかの仕組み」を変えない限り、家出や学校中退はいつまでも勇気を伴うものになる。

 つまり、社会の仕組みのまずさを解消しないまま、目の前のいじめだけを終わらせようとする対処療法的なアプローチだけでは、らちがあかないのだ。

 なのに、NPO法人ストップいじめ!ナビは「さまざまな分野の専門家」を集積させるという。
 そうした「偉い人」がいじめる側にとってどう映るか、わかっているんだろうか?

 実は、自殺や児童虐待、いじめなどのように、その現場が泥臭くて情念が生々しいために深刻な問題ほど、なぜか抽象的で安っぽい活動を始める人が出てきやすい。
 既にそういう団体はたくさんあって、団体の規模は大きくなり、歴史も積み重ねられている。

 なのに、それらへ相談した人たちの中には「らちがあかない」と失望し、「はじめまして」のメールを僕に送ってくるケースが後を絶たない。
 そうでなくても、「NPOが何をやってるかわからないから相談しにくい」という理由で、僕のブログ記事を読んだ方から相談を受けるケースもある。

 要するに、団体に相談するには、その団体が相談者から思わず相談したいと思ってもらえるだけの信頼に足る仕事や言動をふだんから見せる必要があるってことなんだ。
 少なくとも、「この人に相談しても怖くない」という構えを見せる必要がある。

 そうやって、相談に来られた方と一緒に問題解決に汗を流し、付き合いを深めていけば、「よのなかの仕組み」のまずさに気づき、新しい「よのなかの仕組み」を作り出さないと、モグラ叩きのような仕事をいつまでも続けることになると気づく。

 そのように、困ってる人との個人的な付き合いを積み重ねていくことが、団体を作ると意外に試みられないことは、自殺や児童虐待、いじめなどのように深刻な社会問題の活動団体では珍しくない。
 
 こうした過去の失敗における間違いに気づかない団体には、問題解決モデルにイノベーションを興す発想も動機も無い。

 それは、「ノド元過ぎれば熱さ忘れる」という具合に、今まさに苦しんでいる当事者に対するコンパッションをふまえてないからだろう。

 「いじめられていた頃の自分なら満足できる活動だろうか?」という自問が乏しければ、目に見える活動の成果など期待できないのだ。

 こういうNPOが、自殺対策を標榜しても自殺者数を減らせないライフリンクのように政府の委託事業で僕らの血税から支出される公金で活動を運営することがないことを祈りたい。

 分断と対立を前提にし、自分が差別をしていることにまったく無自覚な活動団体が国家によって認められてしまえば、「社会からいじめられている人」はさらに立場をなくし、近くにいる誰かをさらにいじめなければならなくなる。

 そこで、いじめの現場はさらに団体に期待し、団体が動けば、さらにいじめは深く広く強くなる傾向を強めていくだろう。

 それはまさに「いじめ」を拡大させるマッチポンプそのものだし、いじめる側が「社会によっていじめられている側」であることを見えなくするのと同じだ。

 「先生、●●君がいじめてます。なんとかしてー!」といきなり専門家に頼る構えは、とても特権的で、パワーゲーマーのように感じる。

 自己満足による安易な正義は、社会問題を彼らの関心外のところでこじらせ、弱者を深刻な被害へ導きかねない。
 正義を気取る人たちが集まって団体を作ることほど、怖いものはないんだよ。


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