売春という稼ぎ方を「望む」か「望まないか」という線引きを安易にすると、その文脈に誘導してしまうことになる。
性の自己決定以前に、「私には売春しかない」と思い込んだままウリを始める子もいるのに、
「望まない売春」を減らすことはできるか?という問いかけをする人たちがいるんだよねぇ。
自己評価が低かったり、社会経験が乏しかったり、常識が無かったり、学歴不問の職種の豊かさを知らなかったり、多額の借金の返済に迫られているなど、個別の事情によっては、選ぶのではなく「これしかない」と勘違いしてウリを始める子もいる。
それは、個別の事情に対して社会が解決インフラを十分に用意していないことを浮き彫りにしているのであって、ウリでしのぐ当事者個人のモラルの問題ではない。
むしろ、問題なのは、「ウリしかない」と当事者に思わせ、選択できるほどの豊かさを持ちえない社会が「支援の貧困」を温存していることなのだ。
よのなかで上手くやっていくことが難しかったり、会社に雇われにくい人は、現実に少なからずいる。
児童養護施設の出身で、18歳で自立するはずだった若者にも、そういう子はいる。
(今日も、NHK Eテレの
「ハートネットTV」で紹介されていた)
親からの虐待やDVなどによって精神疾患をもったまま、卒業後の進路が立ち行かなくなっている人もいる。
精神障害がなくても、家族の介護や看護に時間をとられるため、経済が疲弊している地方の実家の近辺にしか自分の働ける場所を選べない人もいる。
他にもいろいろ個別の事情があるが、そうした問題にこの社会はまだ適切な解決サービスを提供できていないのだ。
だからこそ僕は、いざ会社で働けなくなっても、自分で自営業者として稼ぐ力を身につけておくことこそがセーフティネットだと考えるし、その力を学べるチャンスが社会インフラとして豊かにあることが望ましいと思う。
そういう社会になってからでないと、「望まぬ売春」「望んでやってる売春」をはっきりと線引きできる選択の時代とはいえないだろう。
セックスワークが社会インフラとして位置づけられ、セックスワーカーが誇りある仕事として認められるようになってほしいからこそ、「望まぬ売春」と安易に見る人たちが貧困を語るのを、僕はしらじらしく観ている。
ウリをするにしても、しないにしても、日本人は平均的に自己評価が低く、「自分らしく働く」ことによって「自分は生きてていい人なんだ」と思えるまでには、相応の年月がかかる。
それは、
精神病患者が書いたこの人気のブログ記事を読んでもらえれば、うなずいてもらえるだろう。
その記事の最後に、こんな文章がある。
「わたしが生きていると、喜ぶ人がいることがわかりました。
そういう人がいて、良かったと思いました。
自分らしく生きることには、自分を心地よくして、居心地よくして、死にたいと考えなくても済む時間を増やして、わたしを大切に思っている人が、わたしを心配せずに生きる時間を増やす効果がありました。
だから、わたしは自分らしく生きることに意味を感じるようになりました」 実は、風俗やウリ(ワリキリ・援助交際)で客がとれた人には、それによって「選ばれた」と認知したり、金銭という対価によって承認されたかのように感じ、自己評価を下げ止めることができたと証言する人が少なからずいる。
それを裏返せば、彼らを彼らのままで受け入れる人がいっぱいいるほど、現実の社会は寛容ではないってこと。
せめて若い頃に自己評価を上げられる仕組みが、日本社会には切実に必要なんだ。
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