「引きこもりの人は、怒りの矛先が他人に向くわけないんですよね。
人目が怖くて、目立つことを嫌うのに」
このリンク記事は、そう当事者の弁を紹介する。
しかし、あまりにそれは都合よすぎる。
この記事を書いた記者がもっとたくさんのヒッキーと出会っていれば、こんな好都合な内面吐露だけを「犯罪予備軍」のイメージ回避のために紹介したりはしないだろう。
ヒッキーだからって「良い子」とは限らないし、性善説だけでひとくくりにして語るのも変だよね。
ヒッキーだって、さまざまなんだ。
内面に向けられていた攻撃性は鬱や自殺を招くだけでなく、突然に外側へ向けられ、暴力や反抗的な態度にもなる。
そして、それは「普遍的な人間の特徴」であって、ヒッキーだからそうなるわけではない。
医者だって、政治家だって、教師だって、誰だって「犯罪予備軍」なんだから。
それをふまえていえば、「黒子のバスケ」事件の男が
公判でこう発言したことは意義深い。
「私は10代、20代をひきこもりで過ごし、何もやらなかった。
その有り余ったエネルギーを黒子のバスケの作者に勝つことに注ぎ込んだ。
私はその責任を取るつもりは無い。ここを出たら、首をくくるつもりだ」
攻撃性は、自分の内面に向かってうつになったり、外に向かって表現や性欲になったりする。
そして、それをセルフ・コントロールすることに疲れたら、何もかも、もうどうでもよくなる時もあるだろう。
それは、ひきこもりの特性ではなく、人間として誰もが陥りかねない特性だ。
ヒッキーだけが「怒りの矛先が他人に向くわけない」と断じるのは、むしろヒッキーに対する差別や偏見になってしまう。
だから、リンク先の記事が、「当事者の気持ちを自説の裏づけにだけ使いたい」という文脈誘導に見えて仕方が無い。
ヒッキーに対して「支援」したがる方々は、こぞって団体を立ち上げる。
だけど、当事者であるヒッキーのニーズはさまざまで、それゆえに自らそうした団体に近づくのは、ヒッキー全体の中では少数派だ。
団体主催のイベントに足を運ぶヒッキーより、むしろ、「アイドルに会いに行くヒッキー」や、「外出せず団体へメールも送らないヒッキ-」の方が圧倒的多数派だろう。
支援団体のような「よくわからん人たち」の中に自分が入っていくことに意味を感じないヒッキーは、決して少なくない。
それでも彼らは、自分が関心をもてる相手であれば、メールのひとつぐらいは自ら送ったり、twitterで突然、関心あるアカウントの相手に質問したりする。
僕のところには、そうした「団体嫌い」のヒッキー当事者からの連絡が後を絶たない。
たぶん、それは彼らそれぞれの幸せ・不幸せや「問題」をこちらで設定しないからだ。
日頃から、当事者各自が切実に求めるものに関心を持ち、彼らの尊厳を大事にする言動をネット上でしていれば、当事者のほうから連絡をもらえる。
そもそも、ヒッキー生活の「何が問題か」は、本人が自覚し、解決したいと切実に望んだ時に明らかになること。
「なんとなくメシが食えている」というあいまいな生活環境の下では、自分が何をどうすればいいかわからないまま暮らしてる人が珍しくないのだ。
自分の解決すべき問題すらわからない、あるいは問題を見ない振りして生きていたい(その方がつらい現実をやり過ごせるから)という当事者の声をふまえないまま、いきなり「支援」の旗を掲げることほど、怖い存在はない。
自分が何に悩んでいるかもわからないのに、この人たちは何を解決できるのか、さっぱりわからないからだ。
せめて団体さんは、「解決実績」を見せてほしい。
それが本物なら、ヒッキー当事者の満足度を当事者自身が判断し、語るもののはずだ。
そうできるようになるには、まず「支援」活動をする人自身が、さまざまなヒッキーから思わず関心を持ってもらえて「選ばれる」だけの関係作法を学ぶ必要があるだろう。
それは、ひきこもること自体を問題視する世間を敵に回しても、ヒッキー当事者を守る覚悟を必要とする。
しかも、「怒りの矛先が他人に向く」ヒッキーが目の前にいても、その人のその欲望を認め、敵視しない作法が、その人自身から求められる。
そうした覚悟は、避けるほうが楽だ。
だから、「怒りの矛先」が自分に向けられることを嫌がり、ヒッキーだけを良い人のイメージに押し込めてしまう。
それは、ヒッキー当事者自身の口を封じるのと同じだ。
親や教師に「良い子仮面」を当事者にかぶせられ、救いを求めた先の支援団体に「きみは怒りの矛先を私にぶつける人ではないよね」という視線を浴びせられたら、ヒッキーはその人に文句や不満を言いだすことができなくなるからだ。
これは、当事者の内面に不満を募らせるのと同じ。
そういう「支援」の構えこそが、当事者の「怒りの矛先」をある日突然、本人ですらコントロールできないまま外へ向けさせる圧力になるのではないか?
そうした「支援団体の同調圧力」が、頻発する無差別殺傷事件の引き金になっているんじゃないか?
そういう自問なしにヒッキー当事者の前に立っても、ヒッキーは何も言わないだろう。
だからって、「何も思ってない」ということではないんだよ。
思ってても言えない空気が団体や「支援」という構えによって作られているから、本当は怒りや不満が高じて言いたいことが山ほどあるのに、言えなくなってるのかもしれないんだ。
だから、「怒りの矛先を内面にしか向けられないヒッキーのきみも、その怒りを受け止める覚悟が足りない俺も、大して変わらない。どっちもクズだよなぁ」という気持ちを分かち合わない限り、両者の間に確かな信頼関係が始まることはないだろう。
ヒッキーから信頼されないままの活動なんて、団体でやればやるほど当事者にとってはうさんくさく見えてしまう。
その冷徹な現実を受け入れ、ヒッキーに信頼されるような人材に成長してほしいもんだ。
ひきこもりについて「支援」したい人よりくわしく知っているのは、毎日ひきこもりの生活を続けてきたヒッキー当事者なんだから、さ。
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