一つ前のブログで予告したとおり、民間で自殺対策を無理なく進めるための具体的な方法論を提案したい。
でも、方法論を語る前に、自殺対策の目的を明らかにする必要がある。
内閣府では、「誰も自殺に追い込まれることのない社会の実現」を目指して
自殺総合対策大綱(平成24年8月28日閣議決定)を
発表している。

お題目は立派だが、
「平成28年までに自殺死亡率を17年と比べて20%以上減少させる」という数値目標の実現は無理だ。
理由は、
以前のブログ記事を参照されたい。
年間で1人の自殺者を減らすのに、内閣府は400万円以上もの血税を使っている。
しかも、対策と成果の因果関係も明らかにされていない。
あまりにも費用対効果の悪く、成果が曖昧な対策を続ける以上、自殺総合対策大綱の正当性などありえない。
国は、「自殺対策」という誰も否定できないような言葉を掲げ、国民に歓迎されやすい大風呂敷を広げている。
でも、よく観てみよう。
自殺総合対策大綱のポイントは、
「国民を生かすも殺すも、どれだけ生かすかも、国が決める」という上から目線だ(あれ? いま、戦争中だっけ?)。
それは、国民から判断の主体性と尊厳を奪う姿勢そのものである。
それが理解できるなら、死にたい人に向けて
「だれかとはなすと安心する」と自己責任を押し付けるのではなく、その「だれか」に誰もがなりやすい仕組みを作る方針に転換する必要性にも気づくだろう。
この政策には、「自殺に追い込まれたら死んでもいい」という自由や権利は認められていない。
国民自身が生きたいのか(死にたいのか)、誰かを生かしたいのか(見殺しにしたいのか)という議論は不問にされている。
つまり、自殺者数の目標値を達成させる有効な対策さえ立てれば、それで実質的に「誰も自殺に追い込まれることのない社会」を実現したことにしようってわけ。
もっとも、それすらも達成できる見込みがほとんどない現状では、お題目も絵に描いた餅である。
こうした国の自殺対策の目的と、僕自身の自殺対策の目的は最初から異なっている。
その違いから書いていこう。
★死にたい人を「腫れ物扱い」せず、ふつうに付き合ってみた 僕は、1990年代半ば頃から15年以上に渡って自殺未遂をくり返す人たちと付き合うようになった。
取材がきっかけだったが、話を1回聞くだけでは疑問がわいてくるばかりだった。
「なぜ、自殺未遂を何度もくり返してしまい、やめられないのか?」
「なぜ、専門家を称する精神科医や福祉職、NPOなどのプロがいるのに、セーフティネットにならないのか?」
「なぜ、辛気臭い『支援』の発想ばかりで、生き苦しい人と一緒に楽しく生きていける仕組みを作れないのか?」
そのような疑問を、僕はさまざまな自殺未遂経験の持ち主たちの出会いの中でたくさん抱えることになった。
気がつけば、300人以上の自殺経験者と出会い、交流を重ねることになった。
当時、僕が主催していた
イベントや
本、
NHKへの寄稿などは、青い表示のリンクを参照されたい。
「よくそこまで死にたがる人たちに付き合えますね」と、いろんな方から言われた。
その問いかけには、「面倒くさい付き合いに応じるなんて酔狂ね」という意味が入っていた。
でも、誤解を恐れずに言えば、僕は自殺未遂をくり返す人たちと付き合うのが面白かったのだ。
「面白い」とは、関心が高いという意味だ。
そこに、自分の知りたい固有の価値があると感じられるということだ。
僕は、何の不満も不安もない極めて「フツーの人生」を歩んできた。
小さい頃にはそれなりにいじめられた経験もあったけど、ケンカして自分の居場所を守る程度には勇気を発揮できたし、小学5年生までは劣等性だったのに中学の頃には学年1位になって勉強もできたし、親の仕事先も安定した大企業だった。
そういう人間にとって、自殺するほど追い詰められることはない。
しかし、大学を辞め、いろんなバイトをした後で広告代理店を経て、コピーライターからフリーの雑誌記者になったあたりから、自分と社会との関係を考えざるを得なくなった。
「記事の執筆は金にはなる。しかし、誰でも書けるようなことを発注されても仕事がむなしい」という虚無感が鬱積し、依存症になって散財することになったのだ。
(※何の依存症かは、
『生きちゃってるし、死なないし』という本を参照)
それが1990年前半の頃の話だが、当時、取材のつもりで依存症の研究者を取材したり、自助グループに参加したりするうちに、親から支配的な関係を強いられてきた「受け身」の自分のあり方を見直す必要を強く感じた。
そして、雑誌に書きたい企画を自分で作って、書きたい記事を書くスタイルに改めることによって、毎日の仕事を面白くしようと努めた。
自分自身の疑問に基づいて仕事をすることで、なんとか自分の人生をつかもうとしたのだ。
それは、とても充実感があり、楽しいものだった。
自分らしく仕事ができるスタイルを作ることは、自分にとって無理がなく、元気いっぱいになる。
そうした「リア充」そのものの僕にとって、自殺未遂をくり返す人たちはまるで文化の異なる人たちであり、同時に(僕自身が依存症になったように)誰もがきっかけ一つで背負ってしまう不幸の持ち主だった。
だから、「暗い話を聞くと引きずられないか」と心配されても、「なんでそうなるの?」とポカンとしてた。
おそらく転移や憑依をされるような人は、両足ごと相手にもっていかれるのかもしれない。
僕はそんな安い同情をすることもなければ、自殺未遂をくり返す人たちをどうこうしたいとも思っていなかった。
生きるも死ぬも、その人自身に選択できる権利であるのであって、その
自由と尊厳の前には、適切な間合いが必要だと感じていた。
人間のやることなのだから、間違いや失敗はつきものだ。
僕も相手も、神様じゃない。
だから、好き嫌いや相性、くだらない理由でケンカもすれば、仲直りもできるし、本当にイヤなら別れることもできる。
だからこそ両者は対等だと感じていたし、相手が「救われたい」と望んでも、自分のできる範囲でしか応じられないのは当たり前なので、僕が解決できない問題は解決できるべつの人に任せ、その人もできないなら、さらにべつの人を探して協力してもらった。
1人1人は小さな力でも、みんなで力を合わせれば、たいていのことはなんとかなる。
だから、だんだん「自分一人で気負う必要はない」と思えるようになったし、それは今も同じだ。
自殺にまで追い詰められている人と向き合うのは、最初は確かに大変かもしれない。
たった一人で当事者に真正面から向き合えば、相手も泣くけど、こっちだって何度も泣くことになるし、無力感にも襲われるし、体力や金、時間も失ってしまう。
実際、自殺にまで追い詰められている境遇の方とたくさん付き合えば、その相手と関わる人間関係とも関わることになるので、いろいろとトラブルも起こる。
殴られ妻を暴力夫から救出させたら、自宅のドアに「殺す」と脅迫状を貼られたし、ひどい虐待を受けてる子の家出を手伝えば、その親が2ちゃんねるに僕に関する根も葉もない噂を書き続けた事もあった。
誰かが手にする幸福は、他の誰かを不幸にしてしまうことがあるのだ。
でも、付き合いの積み重ねによってそうした戸惑いやトラブルにも慣れていき、やがて
「対等な関係で一緒に問題を解決する」という発想に至れば、むしろワクワクできるようになる。
僕は、僕個人の勝手なお願いとして、彼らと一緒にバカな話で盛り上がったり、カラオケや飲み会で共に遊んだりする「ふつうの付き合い」を楽しもうとしていた。
そうした付き合いの中では、彼らは「精神科の患者」や「生保の受給者」などではなく、「ふつうの友人」だ。
差別や偏見などによって、腫れ物に触るように自殺未遂者たちを見る人がいる。
だが、そういう「ふつうの友だち」として付き合いを続けてみれば、自分の知らないことをたくさん教えてくれる。
生活保護の実際の暮らしぶりや、精神科のでたらめな処方の仕方、手首の切り方から救急医療の実態などまで、ふだん自分が知りたいことだけを調べてる人には学べない「社会の現実」を、彼らは時に楽しく時に悲しげに教えてくれた。
そうした付き合いそのものが、僕には知恵を学べる学校であり、教科書が教えてくれない生きた授業だった。
学術研究や市場調査では、会ったこともない初対面の人に聞きたいことだけを尋ね、そのアンケートを統計にするが、回答する側にしてみれば、「なんでお前らに俺の深いところまでさらさなければならないの?」という不信感が潜在的にあるはずだ。
とくに、自殺に関して未遂経験を持つ当事者は、初対面の限られた時間の中では自分が本質的に伝えたいことを存分に伝えることはできないし、それを聞く側も話された内容を検証できないままだ。
あなたは、今日会ったばかりの人に、自分のつらい話をどこまで話せる?
たとえ3万人の自殺者数が1人だけに減ったとしても、その1人があなたの大事な人間だったら、調査にだけ基づいた最大公約数的な方法で救えると信じられるか?
自殺対策の調査・ヒアリング・統計で何かがわかったかのように語るのは、ばかげているのだ。
そうしたデータを持ち出して講演する人の話を鵜呑みにする人たちも、自分が自殺対策に参加している当事者性を欠いている。
自殺対策は、方法論以上に、
「無理なく一緒に生きられるために」(=生きるか死ぬかではなく、共に人生を楽しむために)という目的で進められない限り、成果を出せるわけがないのだ。
★死にたい人の尊厳を肯定する痛みを分かち合おう 何度も会って付き合いを深める中で、「この人ならここまで話してもドン引きされない」と間合いを計りながら、言える範囲のことを少しずつ伝えられるようになる。
それが、ふつうの付き合いだし、そうした付き合いの積み重ねによってしか本当のことは見えてこない。
では、自殺未遂をくり返す人たちや自殺しかねい人たちから僕が教わった「本当のこと」とは何か?
それは、
「何が不幸かは私に決めさせて」ということだ。
精神科で買わされた処方薬をオーバードーズ(過剰摂取)するのも、手首を切るのも、ひきこもるのも、客が取れなくても風俗の仕事や援助交際(売春)をするのも、他人から見れば「不幸」や「問題」かもしれない。
しかし、本人は必ずしもそれらの行為を「不幸」や「問題」とは認知していない。
これは、親から虐待を受けている子どもが、虐待の現実を認めたくない気持ちにも似ているかもしれない。
そして、究極的には、
「生きるも死ぬも私に決めさせて」と彼らは望むかもしれない。
その気持ちを真正面から否定してかかるのは、彼らの尊厳を大事にしないことと一緒だ。
自分の尊厳を大事にしてくれない人の話を、あなたは進んで聞きたいだろうか?
僕なら、答えは「NO!」だ。
彼らが自分の生き死について「私」だけで決めるのではなく、「誰か」と一緒に決めたいと思い直すことがあるなら、それは彼ら自身の自己責任ではなく、むしろ彼らの周囲の人間が彼らの望む付き合いのあり方を示した時だろう。
高層マンションのベランダから今まさに飛び降りようとしてる時、ポケットのケータイ電話が鳴って、それが自分の信頼できる長年の友人で、「近所まで来てるんだけど飲まないか?」と誘われれば、1日ぐらいは自殺を延期する程度のことはできるかもしれないし、自分の抱えていた苦しみをあっさりと解決できる知恵や方法を飲みながら知ることもできるかもしれない。
しかし、その電話がたいして深い付き合いもしてこなかった誰かなら、着信の名前を見て切るだけだろう。
いや、たとえ長年一緒にいて信頼し合っているはずの親子であっても、朝起きてみたらわが子が精神科の買わせた薬を大量に飲んで死んでいたというケースだって珍しくない。
家族や親友などの身近な人だけでは、当事者を苦しみから救い出したくても、限界があるのだ。
僕らがもし自殺対策を考えるなら、死にたい人に選ばれるだけの付き合いを「ふつうの人」が無理なくできるようになることが避けられない。
内閣府のように「生かすか殺すか」という一方的な支配的な構えで言い寄られても、死にたい人にとって「私とは関係のない他者」からの圧力だと認知されるなら、ますます死にたくなることはあっても、生き直すための伴走にはなりえないのだ。
自殺が誰かに「追い込まれる」ものなら、「追い込んでいるのは自分自身ではないのか」という自問から対策を考えようとしない限り、孤立した人は自分の生死をいつまでも「私」だけが決めるものと信じて疑わないだろう。
自殺対策とは本来、死にたい人に「この人となら話してみたい」と思ってもらえる人材として選ばれることであり、そういう人材を育てることなのだ。
それは、「死にたい」と本気で言う人に「そりゃあ死にたくなるよね」と悲しみを込めて共感する痛みを請け負うこと。
その人に背負いきれない重荷を課してきた社会の現実の重みと、自分の能力不足の重み。
その2つの重みの圧力に耐える痛みを引き受ける覚悟ができるなら、死へと追いやる深刻な問題を「死にたい人」と一緒に解決する労力など小さいものだろう。
しかし、その覚悟や解決の労力を1人で背負うのは、
大変だ。
だからこそ、死にたい人に寄り添う人を支えるために、社会はある。
「ふつうの人」の力を容易に借りられる仕組みを作り出す必要があるのだ。
★「ふつうの人」が毎日の仕事を通じて人を救える仕組みを作り出そう こうして死にたい人の立場から自殺対策を見直してみれば、精神科医療や福祉職などの既存のプロや専門家を増やせば自殺者を減らせるということが、どれほど愚かな発想なのかも理解できるだろう。
プロや専門家は既にいるが、それでは足りない。
有資格者を増やせばいいわけでもない。
死にたい人の身近にいる家族や友人だけでも足りないのだ。
ということは、「ふつうの人」が今よりもっと生きやすくなる仕組みに無理なく参加できる仕組みが必要なのだ。
どんな職種も、実は人を救う仕事に進化できる。
自分の仕事の価値を向上させれば、売上UPにもつながるし、やりがいもワクワク感も増えるし、転職による所得減も防げるし、地域経済の活性ひいては国内経済の安定にもつながる。
その具体的な提案は次回のブログ記事に書くが、その前に今後の日本全体の経済動向もふまえておきたい。
日本経済は今後、
アベノミクスの失策によって
「とんでもない凋落へのカウントダウン」の懸念が強まりつつある。
ただでさえ、1億2000万人という現在の人口が、
2060年には人口が8,674万人になると推計されているのだ。
今より3分の1も人口が減れば、店をやってる人は少なくとも売上が3分の2以下に減るってこと。
これをふまえれば、人口の減少で国内市場の縮小するばかり。
日本は高齢化が進んでいるので、彼らの投票が力のある選挙では、しばらく借金(国債)と増税で増える歳出を賄うという無策の自民党政権が続くことになる。
それでは、歳出を大幅カットする大英断のできる政治家が出てこない。
子育て支援や移民の受け入れなどに大型投資をして人口減を食い止めることができないのだから、市場の縮小はじわじわと国民の首を締め上げていくだろう。
市場が縮小すれば、売れるものも売れなくなるのだから、店が商品・サービスの販売のチャンスを全国や海外などへ広げていく努力をしなければ、国内の景気は少しずつ確実に悪くなる。
こうした状況下で、現在20代の若者が50代までなんとか生き抜くのも大変だ。
60歳の定年後を考える頃には、国内の市場は3分の2しかないのだから。
当然、商品の単価も上げざるを得なくなる。
そこで、中流資産層の下流化(=貧困化)を救おうとすれば、税金や年金、健康保険料なども、これからどんどん国民負担として重くのしかかるのは必至だ。
ということは、20代の自殺に絞って考えてみても、
成果をあげてない自殺対策の関連予算を増やすようなバカをするより、民間で今よりもっと生きやすくなる仕事のあり方を採用する方が、人口減に備える売上UPの方法としても理に適っている。
政府の急務は、これ以上、国内の市場=人口を減らさず、むしろ増やせる政策に予算を投じることだ。
同時に、エネルギーや資源、食糧の自給率の低さ(=海外依存度の高さ)を克服するのにも、50基以上もある原発の廃炉作業などにも、気の遠くなるような莫大な予算がかかる。
すべて自民党の失策のツケを国民が払う結果だが、このまま自民党の政権が続く可能性が高い以上、最悪の場合、失策を重ねた挙句に戦争をおこしかねない。
戦争は外国人への憎悪から始まるのではなく、外交と経済の失策によって起こるからだ。
逆に言えば、戦争は、外交と経済の2つのセーフティネットが破綻しない限り、おこりえない。
では、外交の天才的な官僚は、中国・韓国・アメリカ・ロシアに良い条件を突きつけて上手いことやってるか?
経済の天才的な官僚がいて、借金と増税に頼らずに経済を活性化させているか?
どちらも、プロ中のプロを育てた成果は見えないはずだ。
それに加えて、大地震の起こる可能性は年々高まっているし、安倍総理が諸外国に売り込んでる原発が爆発すれば、それによって発生する
莫大な費用はすべて日本国民の税金から支払うことになる。
はっきり言ってしまうと、日本に10年も20年も住み続けられるのか、僕自身、とても不安なのだ。
神風が吹いて大地震が来なかったとしても、原発事故によって損害を受けた国はきっちり日本に賠償を請求してくるだろうし、日本の人口減が進むのは必至なので国内市場は縮小し、商品が高くなって生きずらさは増すばかり。
「せめて戦争だけは起こしてくれるな」と願いたいところだが、自民党の動きを見ると、不安ばかりが増す。
日本は戦後も、
重要な意志決定を政治家がしてこなかった。
天才学者・小室直樹さんが
『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』で指摘したように、戦前と同じように「責任の真空地帯」を温存したままだ。
そんなキナ臭い時代に、平和で安心の暮らしを続けたいなら、税金は1円もムダにはできない。
それなのに、税金の費用対効果について国民の関心が高いとはいえない。
関心を高めるチャンスを作るためには、自殺対策の関係予算をバッサリ切るか、自殺対策の官民連携の推進会議のメンバーを総入れ替えし、投入する税金に見合った成果を出せるよう、費用対効果の良い活動をしてる事業者を支援する関係予算に特化すべきだろう。
それには、現在の自殺対策の大綱を根本的に見直すことが必要だが、現実的には期待できない。、
それなら、民間でこれまでの自殺対策とは真逆の発想で取り組んで成果を出し、税金を支出する必要性をなくすことが重要になる。
「真逆」なら、民間主導の自殺対策の方針は、以下のようにはっきりと見えてくる。
●ココロを治すのではなく、カラダを気持ち良くする
●自殺未遂を経験した当事者の固有の価値を(専門家と対等なものとして)尊重し、収益化する
●専門家ではなく、「ふつうの人」ができる方法を生み出す
●重苦しい発想だけの歴史的作法から、ワクワク楽しい地理的作法へ
次回のブログ(後編)では、上記の方針に基づいた自殺対策の具体例を豊かに示していこう。
なお、上記の記事の感想は、
僕のtwitterアカウントをフォローした上でお気軽にお寄せください。
よろしかったら、他の自殺対策の関連の記事もどうぞ。★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★■本の商業出版を考えている個人・法人の方は、こちらへ■「歌詞の編集」を通じて、作詞力をUPしたい方は、こちら 共感していただけましたら、
「ツィート」や
「いいね!」をポチッと押していただければ…
- 関連記事
-
スポンサーサイト