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■「自殺対策コンテスト!」を考える ~当事者が主人公でない取り組みに未来はあるか?


 「自殺対策コンテスト!」という取り組みが、今ネット上でちょっとした話題になっている。
 ツッコミどころ満載の取り組みなのだが、一方では絶賛され、他方では懸念の声が上がっている。

 自殺と聞くとすぐ「予防」とか「防止」という発想になって、求められる前から手を差し伸べてくる構え自体が、「生きるのも死ぬも疲れたよ」と思考停止したい自殺志願者をさらに孤独へと追い詰めてしまうんじゃないか?

 そう懸念する僕には、「自殺対策コンテスト!」を公然とやってしまえる神経がわからない。

 大勢で「死なないで」と押しかけてくる構図は、とても怖いものだ。
 僕は自殺志願者ではないけれど、そう感じる。

contest-dai.jpg

 主催者は、「オルタナS」の記事で紹介されている。
 記事によると、「自殺関連用語を調べた人を相談サイトへ誘導する仕掛けだ。サイトを立ち上げて約半年間で、20代前半の若者185人から相談依頼」が来たとか。

 1日に平均1人から相談が来た計算になる。
 ということは、1日で1人の相談を解決に導いたのだろうか?
 185人という莫大な人数の問題を解決できたのだろうか?

 オルタナSの記事には、そのことがまったく触れられていないし、検証した取材もなかったようだ。
 それでも、この取り組みを無条件で持ち上げる。
 これぞ「提灯記事」。

 実は、社会貢献の取り組みを報じるニュースには、この手の提灯記事は珍しくない。
 取り組みによって社会問題がどれだけ解決できたのかまで関心を持ってない記者が圧倒的に多いからだ。

 問題解決の成果や精度を問わず、支援される当事者側の満足度よりも「この団体は社会貢献の取り組みをしてそうだから」と支援者側の活動内容を紹介するだけで番組は成立する(=当事者ではない多数派の視聴者は満足してくれる)とタカをくくっているからだ。

 つまりは、取材する側が、自殺したい人の立場に対して他人事を決め込んでいることに無自覚なのだ。

 NHKの自殺特集の番組に出るゲストの面々も、ディレクターと同様に自殺を考える当事者に対して無神経・無関心であることに無自覚なのだから、ああいう番組を観てますます死にたくなる気分になる人が出てきても不思議はない。

 自殺防止や自殺予防なんて言葉は、死にたい当事者にとって時に害毒になる。

 そういう言葉は、死にたい当事者の尊厳を傷つけるだけなく、生きる自由や自己決定の権利を奪おうとする同調圧力にさえなってしまう。

 「死なないで」という社会的な良識を味方につけた同調圧力的な物言いほど、自殺志願者というマイノリティを孤独の片隅に追いやる権力はない。

 ちなみに、僕自身、1990年代半ばから自殺関連の取材を始めていた。
 そのため、僕の書いた雑誌や書籍を読んだ自殺志願者から連絡をもらうことで付き合いが始まった。

 15年間に渡って300人以上の自殺志願の当事者から相談を受けた
 年間平均で20人、月平均で2~3人の相談でも、各自の抱える問題はそれぞれ異なっていた。

 そのため、1人1人の事情を正確に把握するだけでも時間と労力がかかった。
 年月をかけないと、相手との信頼関係は築けない。

 「はじめまして」の段階では、相談を拒否されるかもしれないという不安から相談内容を「盛っている」ことも珍しくなく、何度も会ったり、電話やメールを繰り返して信頼関係を深めるうちにようやく主訴(=当事者自身が本音で訴えたい相談内容)を打ち明けられる頃には、こちらの労働時間や体力、ひいては資産が日に日に失われる結果になった。

 「自殺したい」ほど追い詰められているといっても、その人を苦しめている原因はそれぞれ違う。

 こじらせた孤独だけが問題なら、子猫の世話を始めるだけで「この可愛い子猫ちゃんを生かすためには私は死ねない」と思って生き直せる人もいるかもしれない。

 しかし、他人や行政から精神科の受診を勧められ、精神科医に買わされた処方薬を大量服用するオーバードーズの依存症になると、大事にしたい猫の世話もおぼつかなくなる。

 あるいは、経済的に困窮している人に、知識としての自己破産や生活保護などを教えても、一人では勇気がなくて相談機関に足を運べなかったり、学力が低いために近所の相談機関を調べて自力で相談に行くことをためらう人もいる。

 そうなれば、それがわかった人が一緒に同行するしかない。

 ところが、家族や友人、職場の同僚などとの関係が悪く、「誰にも頼れない」と認知している人が自殺志願者には珍しくない。

 すると、結局、僕がその人をしかるべき場所にまで随伴せざるを得なくなる。

 ソーシャルワーカーや民生委員など福祉職や援助職のプロでも、そういうきめ細かいサービスに伴走する人はなかなかいないし、そもそも相談者と「信頼関係」を築くまでプライベートの時間や労力、自己資金を提供しようという人も、なかなかいないからだ。

 これは、自分の専門外や職域外での「仕事」を関心外にしてしまう社会の仕組みにも問題がある。
 僕は「自殺予防のプロなどいない」と考えるし、大学も出ていないので専門領域などどうでもいい。

 そもそも、「死にたい」と訴える人に「死なないで」と構えること自体が、自殺志願の当事者の気持ちを真正面から否定してかかるものだという認識があるなら、切実で深刻な相談をしたい人が声をかけてきた時だけ動けばいいはずだ。

 いずれにせよ、たった1人の相談をきっちり本人が納得できるまで解決しようと構えるだけでも大変に苦労するのだ。
 だから、本当に無料相談のままで相談者が満足できた結果を生んだかどうかを考えると、僕は決して誇れない。

 僕の知らない間に亡くなった人もいるだろうし、付き合っている途中で自殺してしまって葬式に出たこともある。
 そうした重さに直面しながらも1日1人の相談をさばけるような「凄腕」がいるなら、お目にかかりたいものだ。

 さて、こうした泥臭い相談現場の事情をふまえて、改めて「自殺対策コンテスト!」を見てみよう。

 もう、どこからツッコミを入れていいのかわからないほど、トンデモな印象を受ける。
 疑問に感じた点をランダムに書いてみよう。

●なぜ「コンテスト」にする必要があるの?

 入賞者など決めないで、豊富に出てきたアイデアと、それを必要とする人をマッチングさせれば、そのアイデアが優秀であればあるほど、両者の間に何かが生まれる効果はあるのかもしれない。

 それをしないのは、主催者団体自身が今後、取り組める範囲の内容を絞りたいからだろう。

 つまり、東尋坊からの飛び降りをそのつど止めるという「水際作戦」(対処療法)の知恵を広く集めるなら、たとえば「電車への飛び込み自殺」に特化した予防の仕組みなどは生まれるかもしれない。

 しかし、それはその時の自殺衝動を抑えただけで、本人が抱える本質的な問題が解決されたわけではない。

 「死にたい」という気持ちが本人の望むところであった場合、それを阻止する社会は敵であり、それは時に無差別殺傷事件を導く可能性すら秘めている。

 「私はこの自殺予防の活動に人生をかけることにしました」(同サイトより)という「予防」に焦点が当てられた取り組みである限り、「死にたい当事者」たちがこの取り組みに対して自発的な関心を向けることは難しいだろう。

 彼らが相談を求めるのは、本人が自覚してるかどうかはともあれ、それぞれに苦しみ続けている明確な事情があるからであり、その事情に寄り添うにも「生きるか、死ぬか」という2択を前提にした発想のままでは、当事者の尊厳を関心外にしているのと同じことである。

●なぜ賞品でアイデアを釣る必要があるの?

 何年か前にGoogleが世界を変えるアイデアを応募した際、優秀なアイデアを持つ入賞者には莫大な賞金を出した。
 本当に優秀なアイデアなら、実現すれば公益に資するし、実現するには相応のお金がかかるからだ。

 しかし、今回の賞品はiPad Air、折りたたみ自転車、ディズニーチケットなど、まるで結婚式の引き出物セレクションのようだ。

 そんな安物で、優秀なアイデアが出てきた場合に実現できるだろうか?
 しかも、自殺志願者の抱える苦しみの深刻さに比べると、なんとも安直な発想に見える。

 本気で死にたい人がこのコンテストを見たら、「世の中は結局、俺のような死にたがりを小馬鹿にするんだ」と感じ、なおさら死にたくなってしまうかもしれない。

 なのに、そういう危惧が、主催者や同サイトで紹介された「応援者」に微塵も感じられない。
 このコンテストをきっかけに、新たな自殺者が出ないことを祈るほかないようだ。

●「ちょっとした思いつき・アイデアが隣の誰かの命を守る」は本当か?

 世の中には、相手から求められてもいないのに、「助けたい」と手を差し伸べたくなる人がいる。
 相手に対する関心も薄いくせに、自分の「善意」を疑わない。
 そういう気持ち悪さを自覚しない人の言う「支援」なんて、僕は基本的に信用しない。

 そもそも、公的な相談機関だろうが、会ったこともないメル友だろうが、自分が「この人なら」と見込んだ相手には、「はじめまして」でも相談を持ちかける。
 それが、本当にニッチもサッチも行かなくなって解決を切実に求める人の姿だろう。

 つまり、新たに相談サイトなんて設けなくても、自殺志願者はそれぞれ誰かに相談するし、その解決の知恵が好評なら相談者自身が助かった喜びの声を周囲に言うだろうし、twitterなどで感謝の言葉も公に述べてくれる。

 それが、結果的に相談を受ける人の「完全解決にまでとことん付き合う覚悟」の証明になる。
 そういう覚悟の持ち主が、「ちょっとした思いつき・アイデアが隣の誰かの命を守る」なんて言うだろうか?

 かつて90年代に『完全自殺マニュアル』(鶴見済・著/太田出版)という本が発売され、瞬く間に100万部を突破した。
 この本は、結果的に読者の多くの自殺志願者たちに自殺を思いとどまらせた。



 自殺したい当事者に選ばれる人や求められる本、信頼される存在になれるかどうかが、実際の自殺抑止になる。

 それには、「死にたい」と訴える当事者を変えることではなく、「死なないで」という個人的な思いにとらわれている自分自身を変えること。

 しかし、そのように相談者にとって満足度の高い解決を提供できる人材が少ないのも事実だ。
 既にある相談機関は、人によっては「勇気を出して」連絡しなければならず、相談をあきらめる人もいる。

 世の中の多数派は、自分の生活でいっぱいいっぱいなのだ。
 知らない他人の苦しみに関心を持てるだけの余裕は、なかなか作れない。

 でも、そういう世の中を作り出している人こそ、生きてる僕ら1人1人の市民だ。
 だから、僕は人を変える前に、人を自殺にまで追い詰める社会のダメな仕組みを変えたいと思う。

 ダメな仕組みとは、法律や制度だけを意味しない。

 むしろ、僕らが日常的に「壁」と感じてたり、仕方なくガマンして従ってる暗黙の了解や常識こそが、生き苦しさを構成していることが少なくない。

 たとえば、高学歴にならないと高賃金の仕事に就きにくいままジリ貧になっていったり、一度ホームレスや犯罪者、障がい者になったら社会復帰が難しかったり、親からの虐待がひどくても避難するための家出を先生や友人に止められて虐待され続けるなど、社会にはびこるダメな仕組みは既存の「良識」によって温存されている。

 そうした「ダメな仕組み」を革新的な方法で「より良い仕組み」へと塗り変えていくことを、ソーシャル・イノベーションという。

 そして、このソーシャル・イノベーションの担い手を社会起業家と呼ぶ。

 現代の日本社会を「生きずらい」と感じている人にとって、「自殺する/しない」という命題よりも大事なのが、「ダメな仕組み」を塗り変えることによって苦しみから解放してくれる社会起業家の登場だろう。

 何度も書くが、自殺志願者にとって「生きるか、死ぬか」は必ずしも本質的な問題とはいえず、擬似問題であることも珍しくない。

 だから、自殺対策の目標が「自殺を防ぐこと」であるうちは、当事者各自を苦しませる問題の解決は進まない。

 たとえば、金がないのが苦しみである人には、その人にとって無理なく金を調達できる方法を作り出すことに伴走することが解決の道そのものになる。

 「死なないで」という視線で関わりを持とうとする人は、自殺志願者の目には「どうせ俺が自殺しないことに安心したいだけなんだろ」という具合に映っている。

 そういう支援者のエゴにウンザリさせられる経験を、過去に何度も味わってきた自殺志願者や未遂者は少なくない。
 だからこそ、当事者各自の個別の問題を解決できる仕組みを作り出すこと自体に労力をかける必要があるのだ。

●「死にたい当事者」が主人公となる取り組みになってないのはなぜ?

 僕が既存の仕組みを塗り変えているソーシャルビジネスを取材し始めたのも、優れた社会起業家たちが、自殺志願者だけでなく、僕自身にとっても、誰にとっても生きやすくなる成功事例をはっきりと見せてくれたからだ。

 自殺にまで追い詰められる(=問題がこじれて深刻化する)前に、その人の苦しみが取り除けたらベターだ。
 社会起業家は、それぞれ自殺の一歩手前にある深刻な社会問題の解決に取り組んでいる。

 ホームレスの自立、末期がんのQOL、授乳の自由、子育てと仕事の両立、シングルペアレントの相互扶助など、それぞれにソーシャルビジネスが試みられている。

 ソーシャルビジネスは、問題解決の費用を収益事業で賄うという事業性に注目が集まりやすい。

 しかし、もっとも大事なポイントは、社会問題によって苦しんでる当事者にとって満足度の高い「革新的な解決の仕組み」を新たに生み出すことだ。

 それは、自分自身が知らず知らずのうちに身につけてしまった既存の常識を疑うことから始まる。
 革新とは、社会にあるダメな常識を塗り変えることだからだ。

 ところが、「自殺対策コンテスト!」には、自殺したい当事者の視点やその価値が重視されていない。
 それどころか、「自殺志願者は支援対象である」という常識的な構えを疑おうともしてない様子だ。

 拙著『ソーシャルデザイン50の方法』(中公新書ラクレ)で紹介した事例を2つ例示しよう。

 たとえば、大阪のミライロという会社の若社長は、車イス利用者であるからこそバリアフリーでない部分を指摘することが出来る。

 実際、ミライロは、ユニバーサル・スタジオにバリアフリーのコンサルティングを提供した。
 つまり、障害を持っていることは、それを克服できる経験や知恵が、当事者に固有の価値になるのだ。

 たとえば、視覚障害者なら、目の見える人ではありえない優れて繊細な感性によって、触り心地が革新的に良いタオルを開発するのに寄与している。

 そのように、障害者の世界では既に「障害者→支援対象」という発想から離れ、「障害者→健常者にはできないスキルや経験、知恵を持っている人」という新しい見方が広まりつつある。

 こうした事例を知っているなら、自殺志願者や自殺未遂者というマイノリティをこれまでのように「福祉の支援対象」や「精神医療の消費者」「社会的弱者」などに貶めないだろう。

 むしろ、彼らの苦しんできた経験やそこで覚えた知恵や知識、生き残るために知らず知らずのうちに鍛えられた固有のスキルなどを高評価する仕組みを生み出すことが、革新的な発想につながる一つの方向性になる。

 たとえば、「自殺対策コンテスト!」に応募してきたアイデアをすべて公開し、その一つ一つに対して自殺の未遂・志願の当事者たちから「いいね」や「No!」を査定しながらコメントを匿名で書ける仕組みを作るだけでも、当事者ニーズに見合うアイデアを選別できる。

 そして、当事者たちが高評価したアイデアの中から人気の高い順にランキングし、その上位にある3つほどのアイデアを高評価した当事者たち全員に「選考者」の価値としてお金を支払ったり、精神科医の無料診察券を配布したり、時間限定の話し相手を提供するなど、当事者自身が求める対価を提供できるような仕組みを作るといい。

 もっとも、現状の応募サイトのままだと、この取り組みに対する当事者たちの期待や関心は高まらず、「自分たちの価値を主張しても意味が無い」と思われてしまうだろう。

●次のアクションへ向けての提案

 本当は事前に「自殺当事者100人委員会」を組織し、彼らの前でソーシャルワーカー、精神科医、臨床心理士、福祉を学ぶ学生、自死遺族、自殺取材が長いジャーナリスト、大学教授、官僚、政治家、NPOなどのプロに自殺対策をプレゼンさせ、当事者たちが既存のプロの支援の仕組みに対するダメ出しをし、具体的な改善を要求できるチャンスが必要なのだ。

 当然、プレゼンターになるプロたちには、彼らを「指導」する自殺当事者100人に対して、お金なり、車なり、人材なり、当事者各自の求める対価を提供するのが筋だ。

 たとえば、これまで精神科医は、患者の個人情報を独占し、儲けてきた。

 苦しんだ経験は患者自身が蓄積した固有の価値なのに、その価値を学会論文にして自分の功績にし、書籍で書いたり、講演で話しては自分の利益だけに使ってきたのだ。

 同様のことは、他のプロにもいえる。

 だからこそ、それらの冨を当事者に還元し、当事者が苦しんできた分だけ何らかの対価を得られる権利と尊厳を守れるような仕組みを作り出すのが、革新的な解決の仕組みを最大の売りにするソーシャルビジネスの一つのあり方である。

 たとえば、貧困に苦しんでいる自殺志願者がいれば、自分の主治医である精神科医が講演する機会に一緒に出演してギャラを均等に受け取れるようにしたり、匿名で体験記を書いて原稿執筆ギャラを受け取れるようにするなど、収益化のモデルはいくらでも作れるはずだ。

 そうした仕組みを当事者自身が作れない時こそ、「支援者」の出番だ。
 支援者は、当事者の求めることを実現する仕組みを作り出すの仕事なのだから。

 大企業や自衛隊などにも、自殺者や精神科の通院者がいる。
 そうした組織に「社内研修費」という名目で自殺未遂の経験談や希死念慮の体験記を売ることもできるだろう。

 あるいは、国内外の学校や病院などにも、ビデオやスカイプを使って当事者の講演を売り出すこともできる。
 当事者の価値を最大限に引き出して商品化する際には、出版業界で編集経験のある人のスキルが役立つだろう。

 一口に自殺の当事者といっても、「かつては人前では話せなかったけど、今なら話せる」という人もたくさんいるし、「友人や仲間と一緒でふだん通りでいいなら話せる」という人も少なからずいる。

 当事者の価値を売り出す際に大事なのは、あくまでも当事者にとって話しやすい仕組みを作ることなのだ。

 冨の再配分については本来、政治の役割だ。
 しかし、日本の政治家は3流なので、現実的には無理である。

 それなら、自分の苦しみの価値を奪われた人たちが、奪った「プロ」たちからその収入源の一部を分け合う仕組みを、民間で自在に作り出せばいい。

 民間で解決の仕組みを作る場合、解決の成果を出していない行政の問題点に気づく必要がある。

 たとえば、大阪府の自殺対策審議会の委員名簿を見ると、見事なまでに自殺志願の当事者が一人も入ってない
 ちなみに、内閣府の自殺対策官民連携協働会議の構成員名簿にも、当事者は1人も入っていない。

 自分の頭で考えられないバカな役人は真っ先に専門家に頼り、役人に招かれた専門家たちは成果も出せないのに既得権益化し、苦しんでる当事者しかもっていない固有の価値と尊厳を平気で奪う。
 しかも、自殺者数を劇的に減らす仕組みを彼らは生み出していないので、依然として自殺者数は高いまま。

 既存の委員たちは、自分の仕事の成果を高評価したまま自ら委員を下りず、公職にしがみついている。
 多くの国民は自殺対策に関心が無いので、彼らに「成果を出してる実務家とチェンジしろ!」の声も上げない。
 自殺が減らないわけだよね。

 そんな委員に代表されるように、自殺にまで追い詰められてる人に対して、真っ先に「生かすか、殺すか」という他人の目線で判断したい人たちがいる。

 しかし、そういう「他者目線」の前に、自殺にまで追い詰められてる人が素直にほしがっているもの、その人が強い関心を寄せていることを慎重に聞き取り、それをその人が得られるようにその人との付き合いを続けていける仕組みを作り出すことが、結果的に自殺対策になるのでは?

 現実の自殺志願者たちには、二重の孤独に追い詰められている人もいる。

 ニートやLGBTや障害者などの方々は、社会の中では少数派(マイノリティ)だ。
 しかも、その中で自殺志願者になると、「マイノリティの中のマイノリティ」という二重の孤独を味わうことになる。
 これでは、人間関係が怖くなるのも道理だ。

 なぜ、自殺志願者や未遂経験の当事者に、自殺対策を公の席で語れる権利がないの?
 民間で自殺対策に取り組むなら、誰よりも当事者たちの声を表に出せる仕組みを作るのが課題のはずだ。

 日頃から当事者の仲間を増やせるだけの付き合いをしていれば、いざ行政から自殺対策の会議に招かれる際も、当事者を同行させることを条件として提示できる。

 そして、「各委員が一人あたり1人の自殺当事者を率いて参加する」というルールを設けるだけでも、成果を出しやすい具体的な解決の仕組みに近づけるはずだ。
 当事者との信頼関係を築けていないのなら、当事者にとって有効な自殺対策など生み出せるわけもないのだから。

 解決(=苦しみからの解放)を切実に望む当事者こそが、ソーシャルビジネスにおける最大の顧客である。
 顧客ニーズに担保されない事業は、その解決市場にコミットする人たちから不信感を買う。

 これは、マーケティングの基本だ。
 しかし、「自殺対策コンテスト!」の主催者は、この基本を間違えてしまったのだ。

 当事者ニーズを前提にしない事業は、その問題解決の成果も精度もあいまいのままだ。
 それは、誰かを孤立させる社会の仕組みの悪さそのもの。

 こうして長文を書いてきたが、僕は新しい挑戦を否定したいわけじゃない。

 自殺を考える人たちがこのコンテストによって厭世観を高め、さらに孤独へ追い詰められないかを懸念し、不安を感じているだけだ。

 だからこそ、このコンテストの主催団体には、死にたい当事者から信頼されるだけの確かな関係を構築できるように努力してほしいし、当事者に選ばれる事業者になってほしい。

 優れた社会起業家たちは、その労力を惜しまないのだから。



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