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■正しい人は怖い ~児童虐待防止CM&文月メイさんの『ママ』への恐怖


 今月(11月)は、児童虐待防止推進月間だ。
 厚労省でも、「児童虐待は社会全体で解決すべき問題」とポスターで訴えている。

 この言葉がポスターにあるのは、親がわが子を虐待してしまう背景には、一人で子育てをしている疲れが蓄積したり、子育ての悩みを相談できる人がいなければ、精神的に余裕を失って、したくもない虐待をしてしまいがちになる親が少なからずいるからだ。

 だから、子育てを一人だけで背負わせて責任を個人に帰属させるのではなく、他の人の力を借りて「みんなで子育て」できる仕組みを作ろうというのが、「社会全体で解決」の意味である。

 実際、妻に子育てを押し付けるばかりで育児参加しない男は、今なお圧倒的に多い。
 それどころか、妻に仕事や火事、育児のすべてを押し付けて自分は無職で遊びまくっている父親も実在する。

 だからこそ、そうした夫婦に対して、祖父母や親族、地域社会の隣人たちなどが「おせっかい」であっても子育ての苦労を分担し合うことが求められている。

 助け合いがないと、最悪の場合、日常的な虐待の先に子どもが殺される「虐待死」を招いてしまうからだ。

 そうした深刻な事態に至らないよう、児童虐待かもしれない現実を発見した際には、児童相談所などへの通告が国民には義務付けられている

 そこで、児童相談所への通告を知ってほしいという思いから、広報PRビデオが民間でも作られている。
 しかし、その意図は必要な親には届かず、逆にデメリットがこれを見た親から指摘されている



 この動画は、NPO法人児童虐待防止ネットワーク オレンジリボン事務局の「児童虐待防止キャンペーンCM」だ。
 仰向けで笑う赤ちゃんを映した映像に、こんなナレーションがついている。

あやしてくれて、ありがとう。
ミルクをくれて、ありがとう。
おしめを変えてくれて、ありがとう。

「子育てに自信がない」「イヤになる」などは、育児放棄の危険信号です。

 私はあなたを必要としています。



 あなたは、赤ちゃんの世話をして、その赤ちゃんから「ありがとう」というメッセージを受け取りたい?

 僕はこの動画に、優等生の学級委員長が勉強のできない同級生をなじるような、気持ちの悪い違和感や恐怖を感じている。

 「虐待はいけない」なんて当たり前だ。
 しかし、その正しさをまっとうしたくてもできない事情を抱えているのが、わが子を虐待してしまっている当事者たちではないだろうか?

 赤ちゃんや幼児は、一人ではご飯を食べることも、安心の環境を自力で作ることも出来ない。
 放置すれば、最悪の場合、死んでしまう弱い存在だ。

 だから、赤ちゃんを生かすために行うことは、すべて当たり前のこと。
 なのに、なぜ「ありがとう」という言葉が「児童虐待防止」につながるのだろう?

 僕には、この動画が児童虐待を防止するどころか、助長させる論理になるように見えて怖いのだ。

 「赤ちゃんもあなたの世話に感謝してるよ」というメッセージは、「ありがとう」という見返りを求めたい親を満足させるかもしれない。

 しかし、そのように自分の頑張りに対する見返りを赤ちゃんに求めること自体が、児童虐待を招くのでは?
 そして、「赤ちゃんに見返りを求めてよい」と思わせること自体が、虐待促進そのものではないだろうか?

 この動画の最後にある「私はあなたを必要としています」とは、どういう意味なのだろう。

 これが、赤ちゃんから親に向けられた言葉なら、虐待まではしない育児不安の親には「赤ちゃんは誰かの世話を必要としない生きられない存在なんだよね。だから、自分が疲れて虐待しそうになったら誰かに相談しよう」と思うかもしれない。

 でも、他方では、既にわが子を虐待してる親、あるいは他人から見れば明らかに虐待をしているのに認めたくない親にとっては、「私を必要としてくれるのはこの子だけ。この子を離したくない」という思いを強める結果になりかねない。

 つまり、自ら児童相談所へ相談する必要が無い親にとっては虐待予防にはなるかもしれない一方で、既に虐待してしまっている親をさらに深刻な虐待へ導きかねない恐ろしいメッセージに見えるのだ。

 これは、有線放送やラジオなどで放送が自粛された文月メイさんの『ママ』という歌にも言える。

 その歌では、わが子を虐待した後でゴミと一緒に捨て死なせた母親に、殺された子どもが「ぼくには、たった一人のママ 嫌いになったりしないよ」と言う部分などが、親から虐待された経験のある当事者たちから続々と不快感を示されている。

 中には、「この歌で泣いた」という反響を見たために、虐待に対する世間の無関心ぶりに絶望感を覚えて自傷行為に及んだり、気分障がいを起こしたり、虐待されたトラウマの記憶に不意に襲われたというリスナーもいた。

 こうなると、もはや公害だ。
 「児童虐待への気づきになれば」という趣旨を宣伝文句にするなら、いま流行の「偽装表示」もの。

 解釈自由の歌という商品だからこそ、発売元のユニバーサルミュージックジャパンの社長が謝罪会見をしなくて済んでいる。
(※児童虐待防止月間の1ヶ月前に発売してるんだから、その商売っ気で謝罪会見を開いて宣伝すればいいのに)

 「虐待死」で殺された子どもをファンタジー上の「天使」(非実在)として描こうとも、その歌を耳に入れるのは生身の人間だ。

 親から虐待されて深刻なトラウマに苦しんでいる人たちや、わが子を「虐待死」させて殺人者としての人生を送っている人たちの生きている現実を前にして、歌の作り手が「そういう人を想定して書いてない」と言っても、それは表現者としての未熟さを言い訳したにすぎない。

 『ママ』についてはこのブログに書いたので、この歌に「素直に泣いた」という人は冷静に歌詞を読んでみるといい。

 音楽の持つ呪術力から覚めて「あの感動はなんだったんだ」と、自分の浅はかさを思い知るはずだ。

 わが子を虐待してる自覚の無い親、親に虐待されてることに自覚の無い子にとっては、『ママ』は泣けるのかもしれない。

 虐待というものは、それをしてる親も、されてる子も、その現実を認めたくないものだし。
 現実の残酷さに気づくことによって、それまで日常的に保ってきた幻想の平和が崩れてしまうのは怖いから。

 そこで、児童虐待について歌ったスザンヌ・ヴェガの『LUKA』を聞いてみてほしい(※以下の動画には日本語の訳詩がついている)。



 『LUKA』(ルカ)では、日常的に両親のケンカを見たり、親から殴られても「自分のせいだ」と思ってしまう子どもが、家の外の大人に心配されても「何も聞かないで」と強くお願いする。

 心配してる大人たちからの関心を、ルカは拒否する。
 なぜだろう?

 誰かが「あの家では児童虐待があるようだ」と近所の人にうわさ話をしたり、役所に通告することによって自分の身に何が起こるか、それを考えると怖いからだろう、と思う。

 これは、いじめの問題の解決が難しいのと似てる。

 「●●ちゃんがいじめられてる」と先生に告げ口する子がいると、いじめられっ子は、先生に叱られたいじめっ子から報復のいじめを食うことになる。
 それが以前よりひどく残酷な仕打ちになることを、いじめられっ子は恐れる。

 だから、虐待されてる当事者だからといって、自分から家の外に現実をうち明けることは難しいのだ。
(※こういう現実を放置することは、やがて大人になって働きだした頃、勤務先の会社が不正や社会悪を社員に強いる際にも内部告発を難しくさせる)

 既にルカは、自分が「まちの噂」になっていることにうすうす気づいており、それを聞きつけた自分の親が機嫌をそこねて自分をひどく殴った過去があるから、周囲の人たちの心配を拒否しているのかもしれない。

 この歌のように、強い大人に虐待されている弱い存在の痛みに真っ先に関心を持つ人は、今この時もどこかで虐待されている子どもを緊急に救い出す必要性を切実に感じることだろう。

 虐待している親の子育ての大変さを、虐待されている子どもの苦しみより優先して考える人は、圧倒的に弱い存在に対する関心や共感がそもそも薄いのだ。

 だから、「虐待してしまう親の大変さも大事でしょ。それを歌って何が悪いの? 私は間違ったことは何もしてない。私は正しい」と考えても、それ以上のことは考えなくなる。

 わが子を虐待してしまう親も、「虐待しようなんていう意図はない」のだろう。
 だから、「それでも、してしまうんだ」という自分の愚かしさやどうしようもないダメさをなかなか認めたがらない。

 それと同じように、良かれと思って作った児童虐待防止のCMについて「誰かを傷つける意図はない」と説明すれば十分と考える人は、自分が傷つけた相手に「ごめんなさい」が言えないのだ。

 「正しい」と思っているうちは、自分の間違いを謙虚に受け止めたり、反省することなどできない。

 そして、親に虐待死された子どもや、虐待から必死の思いで生き延びた人などの弱い存在の気持ちには、強い関心を持たなくなる。

 だから、「正しい人」は、怖いのだ。

 日本でも、家の外では「立派な紳士」として通っているのに、家の中では「しつけ」という正義を振りかざしては、妻をぶん殴り、子どもを怒鳴りつけて従わせる支配的な振る舞いを平然として反省など絶対にしない父親が少なからずいる。

 そういう家庭では、母親は子どもを守れない。
 守ろうとすれば、さらにひどい暴力や罵声が夫から仕掛けられてしまうからだ。

 もっとも、そのように明らかな身体的虐待なら、周囲の気づきもあるかもしれない。
 見えにくい心理的虐待は、虐待する親も、虐待される子どもも、自覚するのが難しい。

 日常的に理不尽なことを強いてくる親との戦いは、子どもにとって疲れるばかり。
 だから、戦いをやめる子どもは少なくない。
 親には口答えせず、黙って従っておいたほうが楽だから。

 そして、親の理不尽さを責めることを次第にあきらめていった子どもは、「どうせ自分は間違ってるんだ」という倒錯的無力感を内面に蓄積していき、「親の言うとおりになれない自分が悪い」という行動原理を刷り込まれてゆく。

 すると、大人になっても、それが心理的虐待そのものだとは気づかないまま、自分自身の人生を自分の責任(=権利)だけで決めて進めることができなくなる。

 常に親の顔色をうかがって自分の行動なのに許しを求めたり、勤務先の会社が不正行為を強いてきても「雇われている身分だから断れない」と自分の無力さに居直ることを正しい選択だと信じ込んでしまう。

 だから、そうなる前に、危険な親元から家の外へ安心して避難できるように、僕は1999年に『完全家出マニュアル』という本を書いた(※今後、最新情報を詰め込んだ21世紀版をkindleから出版予定)。

 どういう育てられ方をしたかは、どういう社会にしたいのかというイメージを形作る。

 問題を前にした時に解決の主体になろうと思えるのは、冷静に自分の親子関係を見据えられるだけの勇気を獲得してきた限られた一部の人たちであり、「どうせお前なんかには出来ない」と言われて育つ子は珍しくない。

 僕は1990年代前半から児童虐待について地道な取材を重ねてきたが、取材対象の中心は「親から虐待された当事者」だった。

 彼らの声をいくつか紹介しよう。

「新興宗教にはまっている両親は、1日1個だけのカップめんを渡した。
 その1個を3人兄弟で毎日分け合って食べてた。
 中学生になってネットで調べたら、自分の親がしていることはネグレクト(育児放棄)だと知った。
 だから、児童相談所に駆け込んだけど、職員は『大人を連れてきて』と門前払いされた。
 中学には、入学式しか行ってない。小6の頃にみんなから『お前の家は狂ってる』といじめられたから」

「姉と二人暮らしなのに、18歳で妊娠した。男は逃げた。
 今、妊娠6ヶ月。もう降ろせない。
 誰に相談したらいいか、わからない。
 毎晩キャバクラで働いてるけど、おなかが出てきてもう限界かも。
 仕事で酒を飲んでいるけど、どんな子が生まれてくるかなんて、考えたくない」

「子どもの頃に、親から性的虐待を受けてました。
 それを言い訳にはしたくないのですが、自分が育てた子どもが思春期からひきこもり出しました。
 そして、30歳になる頃から暴れ出して、私にだけ暴力を振るうようになりました。
 ある日、取っ組み合っているうちに息子を突き飛ばしたら、息子は死んでしまいました。
 私のような人間は、子どもを生んではいけなかったのでしょうか」


 このような、子ども自身にとって「どうしようもできない現実」は、彼らの親にとっても「どうしようもできない現実」であるという深刻さを、虐待とは無縁の人たちこそ知る必要がある。

 彼らの苦しみは、彼ら当事者だけでは解決することが難しいものなのだから。

 児童虐待の真実を知ってほしいと考えた僕は、かつて当事者の声を集めて本を出したことがある。
 それが、『日本一醜い親への手紙』である。

 その本の内容の一部は、下記の動画に紹介してある。
(※有料ダウンロードは終了。1997年に初刊行され、現在はノンカフェブックスから復刊している)



 この動画をご覧になれば、虐待された子どもの人生がどうなってしまうか、よくわかるはずだ。
 親にだけ育児の責任を押し付けることが虐待につながることも察せられるはず。

 そして、冒頭に書いた「児童虐待防止キャンペーンCM」が時代と逆行しているメッセージを放っていることにも気づけるだろう。

 自分を虐待した親に対して、子どもが全面的に許容するなんて悪夢だ。

 イヤなことをされたら、相手が親でも、夫でも、先生でも、医者でも、学者でも「イヤだ!」「あなたのほうが悪い」「私は悪くない」と言っていい。

 それは、決して悪いことじゃない。
 相手から奪われた自尊心を回復するために必要な権利だ。

 この正当な権利をみんなが守ろうとしないと、虐待はこの国からなくなるはずがない。

 「みんな」とは、あなたのこと。
 「イヤだ!」「つらい」と感じてる人は、いつも、あなたのそばにいる。

 切実に他人の力(=あなたの力)を借りたいのは、既に深刻な虐待に及んでわが子を「虐待死」させてしまう不安を日々抱えている親たちであり、その親と暮らして不安と恐怖の毎日を送っている子どもたちであり、既に大人になっているのに虐待された記憶に苦しめられているかつての「被虐待児」だ。

 彼らに届く言葉を発しないのなら、「自分の友だちしか見ない」と思って悪ふざけ画像を誰もが見られるネット上に公開してウケを狙っては世間から不快感を示される「バカッター」の若者たちと何も変わらない。

 虐待の不安にゆれる親たちの中には、虐待している自分がひどく叱られてしまうことを恐れて児童相談所に相談するのをためらったり、わが子を一時保護されてしまうさみしさに耐えられないため1本の電話さえかけることができない人も珍しくない。

 そういう人たちが相談窓口に対して安心や救いを感じられるようなキャンペーン動画を作れないとしたら、従来の虐待防止の活動が「当事者ニーズ」を最重要だと考えられていないまま進められてきたことを反省せざるを得ないだろう。

 赤ちゃんにまで「ありがとう」や「親を嫌ったりしない」と言わせる表現に違和感を覚えない人は、育児を親の専売特許だと思い込んでいるのかも。

 しかし、子どもの笑顔や「ママ、大ちゅき」を額面どおりに受け取る親は、子どもにとって気持ち悪い存在だ。

 子どもに必要なのは、親ではない。
 安心できる関係だ。
 安心できる人の前では、笑顔も言葉もいらない。

 自力ではメシも食えず、生きられない幼児の自己防衛の手段を見て、「この子は私を愛してくれている」などと勘違いする親は怖い。

 「自分を必要としてくれるから世話をする」という理屈は、「自分のことを理解してくれないなら世話なんかしたくない」という気持ちの裏返しだからだ。

 「児童虐待防止キャンペーンCM」として表現すべきだったのは、虐待を知った一般市民が第3者として防止のために具体的に動けることが豊かにあることを示すことだったのではないだろうか?

 万が一、責めるべき相手がいるとしても、それは既に十分苦しんでる親でも子でもないはずだ。

 彼らを孤立させ、虐待の深刻な現実についてはもちろん、良い意味での「おせっかい」として子育ての現場に無理なく手を貸せる方法にすら関心を持たない一般市民ではなかったか?

 これまで児童虐待防止キャンペーンは、広報に莫大な金を費やしてきた。
 それは、児童相談所への相談件数を上げることに寄与したかもしれない。

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 だが、苦しんでる親子に手を貸せるはずの一般市民の心を揺り動かすだけの表現にまでキャンペーンCMが練られていない以上、虐待防止の点では費用対効果の良い投資とはいえない。

 日本の児童虐待は戦前からで、国民的に親から心理的虐待を受けてきた構図もある。

 天皇が人間宣言をしてから60年以上が経った今日でも「親は親であるだけで尊敬すべし」という家父長制の亡霊は日本社会の隅々に生きている。

 それゆえに、虐待の世代間連鎖が重なり続け、親に対する諦めが、政府に対する諦めに通底し、児童福祉予算を低いままにしているのかもしれない。

 児童福祉の国家予算が現状に見合う程度にまで割かれないために、児童相談所の機能が十分に果たされていない現実をふまえるなら、民間で虐待問題の解決に動き出すしかない。

 それは、市民それぞれが自分の働く現場でできることを考え、実行すること。
 つまり、児童虐待を解決する当事者として主体的な意識を持って働くことだ。

 「誰かがやってくれれば」と祈っているだけでは、らちがあかない。
 、3~4日に1人の速度で子どもが「虐待死」しているのだから、現実は「待ったなし」なのだ。

 僕は出版業界で働いているので、『子どもを愛せない親からの手紙』『パパとママからのラブレター』という本も作ってきた(※Amazonで買えなくても図書館にある)。

 後者の本は、生まれたばかりのわが子に、生まれるまでの夫婦の出会いから出産までのストーリーを聞かせるという形式の手紙を一般市民から集めて作った。

 生まれる前にわが子に対して「無事に生まれれてくれれば、他に何も望まない」と無償の愛を感じていた親自身に、その思いを作文にして記録し、記憶してもらうためのものだ。

 この本で、子育ての最中にわが子に対して多くを求めすぎていることに自覚的になってほしかった。
 いわば、児童虐待を未然の防ぐための「自戒本」なのだ。
(※売り切れ寸前なので、関心のある方は、お早めにご購入されたい)

 もっとも、こうした虐待へのピンポイントのアプローチより、もっと先進的な取り組みがある。
 それは、つくば市で活動しているNPO法人「子連れスタイル推進協会(通称らくふぁむ)」の活動だ。

 同団体では、母親が子連れで参加できるデトックスツアーなど、親子で楽しめる楽しいイベントを続々と開催している。
 それらは、表向きは「虐待防止」を掲げていないが、参加すれば、隣の母親の育児のあり方が見える。

 そこで母親たちは、多くの気づきを得る。

「自分の育児は、あまりにも完璧を求めすぎてた。もっと大らかに扱っても子どもは大丈夫」
「わが子を他人に預けてもいいんだ。そういう信頼関係を誰かと築くことが親の自分には必要なんだ」
「母親どうしの見栄の張り合いのために、わが子をどうこうするなんてナンセンスだ」
 …などなど。

 相談のためだけに、足を運ばせるようなことはない。
 だから、あえて「子育て相談窓口サロン」にしてはいないんだそうだ。

 同団体は、出産・育児の苦労を経験した母親たち自身によって運営されている。
 「私は支援する側/あなたは支援される側」という上下関係ではなく、対等なヨコのつながりだ。

 「当事者性の高い活動」であり、どんな問題の解決も、苦しみを知っている当事者の声からしか始められないことを教えてくれる。
 この「当事者性の高さ」こそ、社会の仕組みを変えるソーシャルデザインの発想に必要な条件の一つだ。

 僕は思う。

 自立とは、親を他人にすること。
 子育てとは、自分がいなくてもわが子が一人で生きていけるようにすること。
 「無償の愛」とは、自分のがんばりの対価を相手に求めないこと。

 ご意見のある方は、twitter@conisshowまでお気軽に。

 最後に、11月18日には久しぶりに上京し、午後3時から新宿でお茶しているので、合流したい方はこのブログをご覧あれ。
 文月メイさんのファンも、もちろん大歓迎だ。



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