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■「男女の制服を入れ替え」の記事の原文を公開 ~当たり前を疑えば、きみが救われる


 「男女の制服を入れ替え」という、高校生の制服交換の試みについて、オルタナのオンライン記事に書き、それがYahoo!ニュースに転載されると、トップ画面のトピックにランクインした。

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 ただ、僕が書いた原稿は、オルタナ編集部で「編集」されてしまった。
 そのため、読者には勘違いする人もいたので、元の原文を公開しておこう(下記)。

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高校で男女の制服を入れ替えるSexchange Day

 高校生の視点で社会や暮らしのなかから問題・課題を見つけ、その解決方法をわかりやすく提案する全国高等学校デザイン選手権大会(デザセン)。
 昨年、その大会で優勝したのが、制服を男女で入れ替える日を作る「Sexchange Day」だ。

 提案したのは、山梨県立富士北稜高等学校の3年生(当時)だった渡邉紀子さん。彼女は今春にデザセンを主催する東北芸術工科大学のコミュニティデザイン学科に入学したが、志を受け継いだ後輩が今年11月11日に「Sexchange Day」を実施した。

 渡邉さんは、デザセンでこんなプレゼンをしていた。

「成績を上げるためだけの勉強、核廃棄物の行き場がない原発など、『あたりまえ』の延長線上には明るい未来は見えません。
 『あたりまえ』から離れてみることに問題解決に向けた希望があるのです。
 身近な常識である『男らしさ』『女らしさ』から離れてみることで、『あたりまえ』が消えてあるがままの社会と自分が浮かび上がり、多様性を持った寛容な社会が生まれるのではないでしょうか」

 富士北稜高等学校には、774人の生徒がいる(同校の公式サイトより)。毎日新聞の記事によると「賛同した299人がチャレンジ」したそうだから、約39%の生徒を巻き込んだことになる。

 渡邉さんは昨年、デザセンの提案をする際に実施しようと試みた
 だが、教頭先生から「制服は身体の一部なので異性に貸し出すことに抵抗を感じる」と言われ、できなかった。
 生徒にもアンケートをとり、ためらう理由を聞くと、衛生面やサイズの問題が指摘された。

 そこで今年は、後輩がお互いに知ってる生徒どうしの中から「やってみてもいい」という人を探して声をかけたという。

「後輩は今年の初めから1学年ごとに集会を開き、毎回アンケートを集計し続けていました。
 実施の様子を見てみると、授業中の風景がいつもとまったく違います。
 黒板の前に出て答えを書く際に、他の生徒から『意外と似合うじゃん』と声がかかって会話が盛り上がるなど、先生からも『寝ている生徒が少なかった』と聞きました」(渡邉さん)

 制服交換をした生徒たちは、twitterの「#sexchangeday」のハッシュタグですごく楽しそうな画像を多数アップした。
 渡邉さんは、「他の高校でも実施してほしい」と言う。

「高校時代には、『ふつうの生き方をしたい』と思いがちです。
 でも、Sexchange Dayを企画してから『自分らしい人生がいい』と感じ始めました。
 私自身、山梨からは誰も行かない東北の大学へ、しかも新設されたばかりのコミュニティデザイン学科の一期生になることを自分で選んで、当たり前から抜け出しました。
 当たり前で無い人生を生きたい。
 地元にも貢献したい気持ちもあるし、人と接することも好きなので、今後とも人と関わっていきたい」
(文・今一生

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 さて、「男女で制服交換」という日本の県立高校生の試みは、英文ニュース(※こんな記事や、こんな記事も)や、中国語のニュースにもなり、世界に広がっている。

 田舎の高校生の取り組みでも、世界の多くの市民を刺激できる。
 それが、新聞とインターネットが連動した今日の社会だ。

 もちろん、高校生には、マスメディアを上手に巻き込む広報戦略はない。
 それは今後、学んでいけばいい。

 これまで「よのなかの仕組み」を変えて生きやすくするソーシャルデザインの担い手は、メディアから取材されることを偶然だと勘違いしていたり、取材されてもメディアの人間を社会変革の仲間として戦略的に付き合うことも乏しかった。

 そのように、自分たちのプロジェクト内に閉じた発想では、人を生きずらくする「よのなかの仕組み」はいつまでも変えられない。

 自分の達成したいミッションのためには、すべての人を味方にし、共に考え、一緒に動く仲間として心を開いていくことが必要だし、そういう構えが乏しかったから先行世代の大人たちは、ことごとく社会変革に失敗してきた。

 現実の社会的課題は、学校や会社、特定の組織内で起こっているのではなく、むしろその外側に広がる大きな社会の枠組みの中で起こっている。

 昨今、ソーシャルデザインに関心のある大学生でも、たとえば中卒や高卒の同世代にまったく関心をもたなかったり、貧困層や精神病者がそばにいても自分とは関係と感じたり、少数派をからかうことにためらいがなかったりする。

 しかし、無関心こそが憎悪よりひどい敵対の構えであり、そのこと自体が社会的課題を作ることなのだ。

 ものごころがつく頃にはネットに親しんでいたという若い世代は、誰も敵にしない作法を学ぼう。
 それが、ソーシャルデザインに大きな成果をもたらすのだから。


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 ■「助けてあげるよ」と言い寄ってこられたら、あなたは?
 ■自殺防止の番組で、自殺したくなくなった?
 ■15歳で文化を仕分けされる日本人



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■敵対する両者に共通するニーズを満たせば、平和と安心が得られる ~Peaceworks


 アメリカの社会起業家として有名なPeaceWorksの事業は、あえて原材料をパレスチナから仕入れ、イスラエルで加工することで、両地域を経済的に結びつけ、相互理解を促進する。

 そして、その製品をアメリカなど先進国で販売し、収益をあげるという流れである。

 紛争地域の経済の活性化に貢献できるだけでなく、高品質な商品であることから、高い市場競争力を持って事業を順調に拡大。現在では食品だけでなく衣料品も扱う。

 収益金の一部は、紛争地域で住民の対立感情を緩和するために活動しているコミュニティ団体への寄付金となっている。
 …と、ここまでは下記サイトでの説明。
http://www.etic.or.jp/social/case/sv01.html

 Peaceworksのすごさは、国としては国境線の内外で敵対しているはずの両国の民を経済的な相互依存関係の仕組みに組み込んだことだ。

 国どうしはいつまでもドンパチをやってるが、市民レベルがほしいのは仕事であり、安心であり、平和だ。
 それは、両国の市民に共通したニーズである。
 敵対する双方が納得できる仕組みを探す発想は、きわめてアジア的な発想だろう。

 Peaceworksを創立したダニエル・ルベツキーが中東の現地で語る動画がある。
 英語だけど、現場の様子が伝わってくるので、さらっと見てほしい。



 パレスチナの農家をイスラエルが攻撃すれば、イスラエルの工場に原材料が届かなくなる。
 だから、イスラエルはパレスチナの農家を攻撃できなくなる。

 逆に、イスラエルの工場をパレスチナが攻撃すれば、パレスチナの農民は原材料を売れなくなり、自分たちが困る。
 だから、パレスチナの農家とイスラエルの工場労働者は、自国の戦士や政府に「あそこだけは見逃して」と懇願することになる。
 
 このビジネスが拡大すれば、農家や工場が増え、それは同時に非戦闘エリアを拡大することにつながる。
 戦争をしないエリアが圧倒的に広がれば、自分たちだけ命がけで戦闘してる戦士たちはバカらしくなるだろう。

 国を変えることは難しいが、それに比べれば、市民を変えることは難しくないのかもしれない。

 もちろん、両政府もこうした動きを目の上のたんこぶと思ってるふしがあり、原材料と工場生産品をトレードする国境線は常に緊張状態になり、ドンパチが絶えず、Peaceworksは事業の撤退を思いつめたこともあった。

 しかし、なんと両国の市民(農家と工場労働者)が「2回に1回ドンパチで商売が成立できなかったら私たちは2倍働くから撤退しないでくれ」とPeaceworksに懇願したそうだ。

 敵対する両者に共通する強いニーズを発見し、そのニーズに応えるものを提供する。
 これは、社会を変えるために必要な発想の基本だ。

 敵対する関係には、関心と無関心、右派と左派、政治家と有権者、支援・被支援、経営者と労働者、男と女、大人と子ども、日本人と外国人など、いろいろあるだろう。

 僕らがより生きやすい社会を作りたいなら、敵対する両者に共通する強いニーズを発見し、それに応えられるものを開発することが、対処療法に陥らない発想だと肝に銘じる必要があるだろう。

 自分にとっての正論を叫んでデモをやって憂さを晴らすのもいいが、ひとりよがりの正論ほど敵対する相手には響かない。

 それより、一緒に美味しい飯を食ったり、かわいいアイドルを見て喜んだり、一緒に楽しんだり、汗を流して喜べる作業を無理なくできる仕組みを作り出す方が、長い目で見れば、対立を超えた新しいパラダイムを社会に根付かせていくことになる。

 それは、セックスの作法に似ている。
 子どもを作るだけでなく、関係や思い出を作るという意味において。

 よのなかの仕組みを変えるってことは、それぐらい泥臭い作業なんだと思う。


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■「助けてあげるよ」と言い寄ってこられたら、あなたは? ~正論より当事者の声を聞け


 今日の朝日新聞のオピニオンに、仁藤夢乃さんがでかでか掲載された。
 その誌面の大きさにびっくりした。
 この記事を書いた記者は、とんでもない勘違いをしているように見えたからだ。

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 たとえば、これが企業への取材なら、実際に商品・サービスがどれほど売れたのかとか、CSRでどれほどの社会的課題を解決できるのかを問う。
 それを検証することなしに、価値ある記事として成立しないからだ。

 しかし、オピニオンにおける社会的弱者の支援活動は、その成果を数値ではなく、支援者の自己申告を「」付きで紹介するにとどまる。

 NPOに対しては、めちゃくちゃ甘いのだ。
 NPOの仕事の成果とは、支援される側の満足度で決まるのに。

 仁藤さんがどんな立派なことを言おうと、彼女が解決したという事例の主人公であるJK自身が何人いて、どんな解決ストーリーがその支援から導き出されたか(あるいは失敗したか)が描かれなければ、企業が広告でするような自己申告だけが記事になる。
 これは、事実を検証するマスメディアとしてありえない報道の構えだ。

「援交おじさんは女の子たちから『ウザい』『キモい』『汗臭い』と言われても、めげずにアプローチを続ける。
 私たち大人は、それぐらい本気で彼女たちとかかわっていかないと支援できません」
(朝日新聞より)

 仁藤さんの〆の言葉だ。

 一見正論に見えるが、「助けてあげるよ」と近づいてくるだけで十分、JKはウザいと思うはず。
 ウザいとは、当事者ニーズから遠いってこと。

 当事者は自分が求める場所へ自発的に足を運ぶのであって、求めてもいないところへは行かない。
 しかし、その点を朝日新聞の大久保記者は理解できていないようだ。

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 JK産業に足を向けるJK当事者の声が無視され、支援者の声がでかでかと幅を利かせる世の中を、僕は怖いと思う。

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 これを書いた大久保真紀・記者には、自分事として考えてみてほしい。

 家庭や学校に居場所が無く、まちをさまよいたい気分の時に、「あなたの孤独を救います」と言い寄ってくるのが、おじさんでなくても、若い女性であったとしても、ホイホイ着いていきますか?

 そんな娘に育てたいですか?

「傷つこうが、大変なことになろうが、それはそれでべつにかまわない。
 ここでなければ、どこでもいいけど、今は漂っていたい」

 そういう人にとって「助けてあげるよ」と言い寄ってくる存在は必ずしも気持ち良くは映らない。
 支援者がどんなに品行方正の聖人であろうとも。
(むしろ、そういうえらいことを言う人ほど、うざく映ったり、まぶしすぎて近寄れないだろう)

 この点を抜きにした支援は、空回りし続ける。
 当事者自身の気持ちを客観的に見つめる視点を持たないと、問題設定を間違えてしまうのだ。

 ひきこもり問題についても、ひきこもりを問題だと親が思うなら、親の方が子どもだけを残して引っ越してしまえばいいだけだ。
 しかし、親は自分のわが子への関係の内実には問題が無く、わが子の個人的属性に問題があると思いがちだ。

「うちの子は引っ込み思案だから、よその人とはうまくやれず、私がいなきゃ何もできないのよ」

 …なんてことをまじまじと話す親も実際にいる。 
 不登校新聞やひきこもり親の会でも、そういう親を見ることが珍しくない。

 子どもに早く自立してほしいと望むなら、親自身が家の外に行き、自立に奮闘してみせればいい。

 それがどれほど難しいかがわかれば、わが子のつらさも理解できることだろうし、ひきこもり支援をするなら、ひきこもる子どもだけを家に残して親をしばらくべつのところ1週間ほど隔離するような試みをやるといいんだよ。

 1週間、ひきこもってる人は、自分でメシを作り、自分で不意の来客に対応し、メル友や恋人候補を家に招くチャンスだと気づいたり、トイレットペーパーだって買いに行かなきゃ補填されないことを知るだろう。

 そのように、ひきこもり当事者が自分自身が生き残るために必要なことを実につけることに目覚めるチャンスを作らない限り、年老いた親の介護に疲れて鬱々としながら、親の死を待ち望む日々がやがて訪れるだろうし、両親がいなくなれば、なんとか生活保護を受給できても、孤独の中で認知症になっていくだけだ。

 このように、当事者が自分の境遇と将来に向き合うチャンスを作れず、支援する側が生ぬるくつるんでいるだけだと、一番困るのは当事者なのだ。

 同様のことは仁藤夢乃さんの活動にも言えるが、僕はひきこもり支援団体や仁藤さんを批判したいわけじゃない。

 「その活動内容は本当に当事者の満足するものになっているの?」と問いかけることで、当事者に主権のある活動内容へ成長してほしいだけ(※僕と仁藤さんとの公開対談を企画する人がいたならいつでも応じるし)。

 成長してくれないと困るのは、団体や仁藤さんではなく、当事者の方だ。
(※成長しなくても、団体や仁藤さんは何も困らないという点に着目しよう)

 救われるはずの人が救われず、救われないまま、支援者だけが英雄のように語られてしまっては、本当に弱者を救っている本物の社会起業家だって浮かばれない。、

 どんなソーシャルデザインも、社会的課題の解決を望む当事者と、その活動に共感できるかどうかを注視する一般市民のどちらに対しても満足度の高い解決の仕組みを作り出さない限り、解決の成果は上げにくいし、成功モデルをスケールアウトすることも難しくなる。

 社会は、「よのなかの仕組み」によって苦しむ当事者と、苦しまずに済む「よのなかの仕組み」を作り出したいソーシャルデザインの担い手と、両者を取り巻く一般市民の3者で構成される。社会的課題を解決するには、どれだけ当事者と一般市民から強い共感を得られる解決の仕組みを作り出せるかがキー。

 苦しんでる人の気持ちを受け止めてあげることは大事だが、その人にとって自分よりもっと信頼できる相手や相談先が多様にあることに気づくことはとても大事。

 「私だけは大丈夫。信頼して」という構えは、共依存を招く。
 共依存は互いに相手から自尊心を奪い、自助努力を忘れさせ、問題解決を遅らせる。

 家族や友人の知らない男の家に転がり込んで「救われるよりここにいたい」と望んでる子もいる。
 誰からも「女子高生」「娘」「女性」などの役割を期待されない時間をしばらく生きていたいと願う子たちだ。

 彼女らにとって何が「助け」になるかを深く考えてみてほしい。
 1泊2日の宿に泊めて、本当に満足するかどうかを。

 JKを買いたい男なんて社会の少数派なんだから、仁藤夢乃さんは、JKとまともに向き合う大人たちを面接して100人ぐらいスタッフになってもらえれば、彼女自身がもっと成長できるのに残念。

 もちろん、安心してすぐに入居できるシェアハウスや、その家賃や生活費を払えるだけの仕事(売春以上の高収入になる職種)とその仕事ができるようになる訓練のチャンス、信頼できて何でも気軽に相談できるスタッフの3点を提供できる居場所を作れば、喜んでその支援を受け入れるかもしれない。

 しかし、現実はそんなにすんなりとはいかない。
  「大人の男が悪い」と公言する仁藤夢乃さんの活動には、共依存の危うさがあるからだ。

 そして、現代の青春とは、「誰でもない私」という人生の空白の中で傷つきながら学び直すことが避けられない「よのなかの仕組み」の下に築かれているからだ。

 そこで、「売春はいけない」などと良識を振りかざしても、当事者には響かない。
 事情を知らない優等生たちや、良識を疑わなくても高給取りになれた一部の世間知らずのエリートが、持ち上げてくれるだけだ。

 自分が教師や親などの大人たちから教わってきた良識が、間違っているのではないかと疑問を持つのが怖い向きはいる。

 だから、適応能力の高い人ほど、時代にそぐわない社会的制約に過剰適応し、うつ病になったり、コミュニケーションの作法がわからなくなってしまったり、外国に避難しなければならないほど日本人が怖くなってしまったりする。

 先行世代から「良識」として刷り込まれた社会的制約とは、進学や就職、結婚や恋愛、正社員や介護などだ。
 しかし、現代はいろんな意味で次の時代への過渡期にあたり、パラダイムシフトが急激に起こっている。

 かつての「良識」は、同調圧力によってただのストレスでしかなくなった。
 その変化についていけないと、優等生ほど苦しくなる。

 勉強という「制度」から降りる方が楽だと学習してしまった低学歴層の人たちは、低賃金でもそれに見合う暮らしで満足できる方法を探すし、知恵を絞ることを若い頃から習熟しているからだ。

 そして、こうした現代特有の生きにくさは、ほとんど90年代に露呈していたことなんだけど、既に時代はこの20年間で様変わりした。
 だから、無差別殺傷事件は何度も起こるし、ドラッグによる事件も頻発するし、精神病患者で病院のベッドは満床になり、自殺者数は減らない。

 それは、自分だけが良識から外れてしまったという認知のゆがみによって「孤独の底割れ」が起きてしまったからだと思う。
 個人的な苦しみは、「よのなかの仕組み」によって温存され、拡大しているのに。

 メディア関係者はもちろん、ふつうの市民のみなさんにも、そこをきっちり理解してほしいと思う。

 今日の朝日新聞で仁藤さんについて書いた大久保記者が、JK産業に足を向けるJKたちと気持ちを分かち合える付き合いを重ね、深い取材さえしていれば、このリンクにあるような提灯記事にはならなかっただろう。

 何を問題ととらえるかは、当事者自身に決めさせて。


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