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■警察とメディアがズブズブだと、僕らの自由は? ~住めなくなる国へのカウントダウン


 今日(10月5日)、テレビを見ていてビックリした。

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 テレビ東京で放送された『世界の警察密着24時』では、イギリスで590万台もある監視カメラを設置して犯人を現行犯で検挙していく事実を無邪気に賛同していたのだ。

 警察への取材協力を依頼すれば、警察に協力的な文脈でしか報道できないってこともないのに、なぜ監視カメラを無邪気に正当化できるの?

 24時間ずっと市民は監視されている。
 罪を犯さなくても、モニター室にいる警察に見られているのだ。

 これは、日本でも同じ。
 いつどこの通りで誰と会い、何をしているか、全部、警察に見られている。

 モニター室では、通行人の唇を見るだけで会話の内容がわかるし、聴覚障碍者は手話で会話が筒抜けだし、秘密のデートやキスも誰かに見られている不安の中でやる必要があるし、ビジネスや特許の話もダダ漏れと同じだし、盗聴器など仕込まなくても、まちを歩いているだけで何の罪もない多くの市民のプライバシーは守られないことになってるのね。

 つまり、「見られない自由」や「合法的なことでも隠したい権利」は、犯罪者逮捕のために認められないわけ。
 それは、とてもとても不気味なことだという恐れが、この番組にはなかった。

 警察が絶対的な善であるかのようなメッセージで、「良い話」に終始させていた。
 容疑者を逮捕して治安を守ることだけが、唯一の正義であるかのような印象を与えていた。

 近代国家では、暴力は個人からは奪われ、国家にだけ独占されている。
 そして、この暴力を権力の下で実際に行使できるのは、警察と自衛隊である。

 彼らも人間だから、間違うこともある。
 実際、警察の不祥事は、昨年NHKの番組『時論公論』でも憂慮されていた。

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 もっとも、組織ぐるみ、あるいは構造的な問題から、警察自体が社会悪になっているケースを知るチャンスは、きわめて少ない。

 この警察の根本的な「悪」について、なんと約30年間も暴き出しているジャーナリストがいる。
 それが、寺澤有さんだ(以下の画像)。

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 寺澤さんの仕事については、彼の公式サイトで最新情報をチェックしてほしいが、とりあえず下記の本を読んでみてほしい。



 先週、久しぶりに寺澤さんと新宿で飲んだのだが、その後、彼は「出版業界はいい仕事がしにくい環境になっていますが、お互い頑張りましょう」とtweetしてくれた。

 まぁ、それだけ警察の闇や、僕が取材をしている児童虐待・家出・自殺・社会起業などは、書けるメディアが失われつつあるのだ。

 もっとも、僕よりはるかに寺澤さんの仕事は優れていて、彼は世界のジャーナリストたちに認められ、『世界のヒーロー100人』(国境なき記者団)に選ばれ、日本外国特派員協会で記者会見した。



 日本の警察がどれほど悪い側面を持っているかは、日本人より世界の諸外国の人の方が知ることになった。
 それぐらい、日本では「自由より治安が大事だ」という原理主義がはびこっているのだが、ふだんはまったくそれに気づくチャンスが無いはずだ。



 とかく映画やドラマなどのファンタジーでしか警察への不審点を描けない今日の日本のニュースメディアは、バランスの良いジャーナリズムになっているとはとても言えない。

 警察官個人の不祥事だけでなく、警察自体の構造的な社会悪まで掘り下げて取材し、報道することがないのなら、マスメディアという権力は、国家権力と張り合うだけの信頼を国民から寄せられることが無くなるだろう。

 メディアが市民の知りたい本当のことを報じられなようになっていけば、政府はいくらでも国民に負担を強いる政策を実行できる。

 そんな日本に、あなたは住みたい?
 僕はイヤだ。

 だから、僕自身の身内に警察官がいても、警察内部の構造的な社会悪に対する関心をもっておきたいと思う。
 それは必ずしも警察の手柄を帳消しにすることではないし、「警察は絶対的に悪だ」という原理主義でもない。

 自由にものを言い、自由にものを書き、自由にのびやかに暮らしたいというシンプルな思いだ。
 自由を犠牲にしないで済む方法や仕組みは、いくらでも作れる。

 それを警察ができないなら、民間で作り出す必要があるだろうし、民間でそういう仕組みを作って警察の仕事を減らすような公共サービスを担えるソーシャルデザインこそ、僕らが自由を守りながら権力の暴走を止める唯一の方法かもしれない。

 民間でそれが実現不可能なら、日本は生き苦しい国として、とんでもない進路をとることになるだろう。
 そういう悲劇が起こってしまう前に、民間人がどこまでやれるか、それとも国を捨てるか。
 それを選択できる余裕が日に日に失われていくような焦りを覚える、今日この頃だ。


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■深刻な社会問題ほど、当事者の声がメディアに反映されない理由


 風俗嬢やAV女優の「語り」としてメディアや本で見るものの多くは、演技だったり、取材する側の文脈誘導に乗ってあげただけのものが珍しくない。

 当事者自身が自発的に望んではいない「語り」には、読者に情報のリテラシーを問うコンテンツが珍しくないのだ。

 最近話題の本『AV女優の社会学』(鈴木涼美・著/青土社)も、それをふまえている。
 AVや風俗を扱った本はたくさん出ているので、読み比べてみるのも面白いかもしれない。




 当事者自身の自発的な語りでないものを文脈誘導する報じ方は、障がい者の性や児童虐待など深刻な事情を抱えてきた人へ取材したテレビ番組や新聞記事でも同様だ。

 社会的マイノリティに属する分野では、取材前から取材する人があらかじめ持っている「良識的な社会」のバイアスで「何が問題か」を先に決め、そのストーリーにとって都合の良い取材対象が選ばれ、取材される側の言葉の中から、ストーリーに見合う言葉をセリフのようにすくい取って取材終了と考える向きは、少なくない。

 テレビ・新聞・雑誌では、むしろそれが王道的な取材として日常的に習慣化されている。
 その分野における新たな真実の掘り起しという目的ではなく、ネタ的に新しい切り口や現象にこそ商品価値があるかのように信じられているからだ。

 しかし、冷静に考えれば、そうした取材姿勢には無理があると気づくだろう。

 たった1回の取材だけで、自分がとんでもなく苦しかった家庭の事情や、うかつに人に話せない深刻なトラウマ体験をホイホイ語る人などいない。

 いつもはニコニコして「お金になるから風俗やってるー」と明るく答える女性でも、何年も会って取材してるうちに「実は…」と風俗に入る前の経緯を明かしてくれる人もいる。

 もちろん、風俗嬢のみんながみんな深刻な事情を持っているとは限らないが、真実を知るために信頼関係を築くにはそれ相応の年月がかかることは、メディアでの報道内容を判断する際に必要な認識だろう。

 大切なことなので繰り返すが、取材する側との信頼関係を築けるだけの年月が真実の掘り起しには必要だ。
 それは、取材をする側にとっては、お金も労力もかかることだ。

 だから、局から制作会社に外注され、製作費を抑えられた多くのテレビ番組では取材期間が短く、取材される側はアレコレ説明するのも面倒なので、取材する側の報じたい文脈にとりあえず「乗ってやる」だけになる。

 そうした取材現場のありようをふまえずに、未成年の家出や売春を語る際に、「何が問題か」を先回りして報道する側が決め、当事者責任をいきなり問うのはフェアじゃないし、児童福祉の点でもおかなしなことだ。

 しかし、「そんな不良行為はやめてね」という優等生的な切り口で終わるテレビ番組は少なくない。
 こういう報道関係者に付き合うのは面倒なので、子どもたちもその場の空気を読んで「はい」で済ませる。

 先日も、小中学生の女子による売春を扱ったテレビ番組で、彼女たちが「安易にお小遣い稼ぎをしている」というナレーションで文脈誘導があった。

 しかも、ゴールデンタイムで、だ。
 番組予算をかけられる時間枠で、この雑な取材は非常に罪深い。

 家出もそうだが、なぜそこに至る経緯に踏み込まず、優等生的な社会観だけで当事者責任を子どもに問うのか。

 異文化に対して一方的な判断基準で「かわいそう」とか「大変ね」で思考停止してしまっては、その文化を尊重したことにはならない。

 たとえば、資本主義より原始共産主義の社会で暮らしたい人もいる。
 どっちがいいという話ではない。
 幸せの判断基準は当事者に決めさせてくれってこと。
 自己決定権を奪う環境つくりは、きわめて怖い。

 こういう「当事者無視」の構えは、いま日本のメディアだけでなく、ふだんの暮らしの中でも当たり前になっている。
 仕事や恋愛、子育てなどまで、いたるところに見受けられる。

 たとえば、戦前まで、日本の男は、恋愛の努力を必要としなかった。
 結婚は家・国のために奨励され、女性は自由に働くことを制限されていたため、結婚が生存戦略だったから。

 だから女は事実上「産む機械」扱いされ、家父長制の下では夫からのどんな命令にも従わざるを得なかった。

 ちなみに、戦前は未成年の子どもにいたっては人権なんてありえなかったし、児童に対する人権意識の低さは、国連の児童憲章を守らない日本では、いまだに低いままだ。

 だから、今でも中学生を含めて参加する公式行事に「ちびっ子~大会」というタイトルがたくさんあって、大人たちは誰もこの表現を疑わない。

 天皇制と同時に家父長制も終わった戦後では、男は自発的に「女とは何か」「子どもとは何か」を学ぶ必要性が高まった。
 だが、今なおメディア業界における報道関係者の多くは男であり、その疑問を自分自身につきつけなくても社会へ何かを伝えられると勘違いしてる向きが少なくない。

 男社会では納得できても、女性や未成年にとっては「?」という報道を続けていては、より若い世代に生き苦しさを残すことになりはしないか?

 当事者の声を真摯に聞くには、それ相応の年月をかけた付き合いと、それに基づく信頼関係が必要不可欠だ。

 そういう面倒なんかしたくないよという構えに居直れば、自尊心を大事にされず、承認欲求を持て余し、「誰でもいいから大事にされたい」という脆弱な自意識にまま、震えながら社会の片隅でちぢこまってしまう若い世代が増えるだろう。

 実際、「誰でもよかった」という決め台詞で無差別殺傷事件をやらかす若者のような脆弱な自意識で日常生活を送ってる子は、いまどき珍しくない。

 社会経験が乏しく、承認欲求に飢えていることも自覚できず、世の中の仕組みもわからず、善悪の判断が偏っている小さな子どものような人は、丁寧に知識を教えられても言い負かされたかのような孤独しか覚えない。

 わずかな部分でもなるだけ肯定してあげないと、子どもは話を聞かないものなんだ。

 童貞に居直って女性蔑視を繰り返したり、障がい者に居直って健常者というだけで敵視したり、大人に居直って若者をガキ扱いするような愚かしさは、社会への不安の裏返しかもしれない。

 そうした不安を個人の属性ゆえのものだと誤解すれば、彼らに正論を吐けば済むかのように対処しがちになる。
 だが、そうした正論を、彼らも、そして僕らも求めてはいないはずだ。

 彼らのニーズはあくまでも、自分の自尊心を満たしてほしいってことなんだろう。
 それに気づくことが、僕らの時代に「弱者」から要請されている余裕なのかもしれない。

 若者を脆弱な自意識に追い詰めてきたのは、大人たちだ。
 僕自身もその点で同罪だと思いつつ、仕事をしたい。

 それが僕ら自身の余裕のなさを浮き彫りにすると同時に、そうした余裕のなさを温存する「社会の仕組み」のダメさに気づくために必要な構えだと思う。


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■1人で性器を作品化すれば犯罪者だが、100人で担げば英雄? ~日本の伝統の性から

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 この画像は、Facebookで世界中の人々1万2000人以上の人が「いいね」をつけ、約4万7000人の人にシェアされてる(※2014年10月5日時点)。
 どうやら、元記事はコレらしい。

 日本人なら、この画像が川崎市の金山神社の「かなまら祭」と気づく人もいるだろう。

 外国人たちが驚いたのは、日本の性に対するおおらかさだと思われる。
 世界には、性のタブーの強い国は多いからね。

 しかし、日本人なら、これがニッポンの伝統的なお祭りであることに異論はないだろう。

 堂々と性器を人前に出し、みんなでそれを喜んで大勢で担ぐ。
 お祭りの場合、逮捕なんかされない。
 でっかいペニスを祭りの日までにせっせと制作する人がいても、誰もとがめない。

 性器が、姓の別なく、収穫を祝い、コミュニティの持続可能性を象徴するものであると、長い歴史の中で多くの人に了解されているからだ。

 それが日本の伝統的な性のあり方なのだが、この大型にデフォルメされた性器は、特定個人の型どりをモデルにして制作されるからこそ、これだけリアルに「性器」として認識できるデザインになっていることを忘れてはならないだろう。
 
 画像が示す通り、このペニス型の神輿は、裏筋やカリ、そり具合などの細部に至るまでリアル性器を忠実に再現しようという製作者の意図がはっきり出ている。

 職人の技術継承が行われなければ、何十年も経たないうちに3Dプリンターで作られる時代も来るだろう。
 そして、こうした性器の神輿の製作者(職人)たちは、今もモチロン日本全国にいる。

 そこで思い出してほしいのが、ろくでなし子さんの逮捕だ。

 彼女は、3Dプリンターで出力できる自分の女性器のデータのダウンロード用URLをメールに記して送った。
 性器そのものではなく、データであり、それは作品のプロセス上にあるものだ。
 3Dプリンターを使える環境がない限り、データはその意味をなさないものでもある。

 すると、「わいせつ物頒布等の疑い」で、今年7月に警視庁に逮捕されたのだ。
 逮捕後、すぐに釈放されたが、検察が起訴するかどうかが世界中の関心事になっている。

 この1件で、世界中の多くの人が驚いたはずだ。

 めちゃくちゃリアルな性器をみんなで担ぎ上げて楽しく奉じる祭りをしておきながら、個人特定のできる性器のデータだけを警察が取り締まり対象にするなんて、日本の伝統文化の整合性にまったく欠け、理解不能だからだ。

 この一件は、「1人で作品化すれば犯罪者だが、100人で担げば英雄?」という問いを多くの人に投げかけた。

 実際、ろくでなし子さんと同じ作品つくりを世界中の100人のアーチストが同時に試みるアート・プロジェクトだったら、そして、それを世界へ発信するメディア回路をあらかじめもっていたら、警察はその100人を逮捕しただろうか?

 事実、ろくでなし子さんの一件については、世界中の外国人ジャーナリストも強い関心をもっていて、7月­24日に日本外国特派員協会で記者会見が行われた。



 日本の検察は、こうした経緯をふまえて起訴には慎重にならざるを得ないだろうし、不起訴処分も十分に考えられる。

 女性器をかたどった石膏(せっこう)型を販売したとして、警視庁保安課がわいせつ物頒布容疑で、静岡市清水区の介護施設職員の男(50)を書類送検した過去もあるので、別件でのあやをつけて立件・起訴したがる人も、警察・検察にいるかもしれない。

 だが、裁判が長引けば、警察・検察の意地汚さの方が世界のメディアで喧伝されることは必至だ。
 世界の恥になるような司法判断を、日本の裁判所が下すわけがないのだから。

 ろくでなし子さんの一件は、表現目的を問うものではなく、表現されたものの内実を問う裁判になりかねないので、そうなると伝統文化における性器の制作物(※性器の神輿を含む伝統的な性器アート作品)を刑罰の対象外にすることが難しくなる。

 祭りとアートは始原的に一体のものだが、これをまるで別物として認知しやすい文脈を提供したのが近代国家の仕組みなんだろう。

 でも、そもそも内面的に一体である祭り=アートのもつ高揚感や変性意識の産物としての造形物を、合法/非合法で分別するところに無理がある。
 そんな仕分けは多くの人が望んでいない。

 だから、そんな誰も得をしない裁判沙汰にするよりも、刑罰とは別のもっと大きな文化や伝統をふまえた視点を、多くの人にもってほしいと願う。

 実際、祭りで性器を「わっしょい! わっしょい!」と楽しく担いでいる日本人の一般庶民の笑顔と、外国人記者に向けて答えるろくでなし子さんの笑顔との間に、刑罰的な線引きのできる違いがあるだろうか?

 ちなみに、神社は性器の神輿を作る製作費をまかなうのに、信者からお金を集める。
 ろくでなし子さんも、クラウドファンディングで作品制作に共感した人からお金を集めた。
 そこにも違いはない。

 世間知らずの人は、警察に逮捕されただけで、逮捕された人に悪い印象を持ちかねない。
 しかし、そうした早まった認識は、警察の言い分を鵜呑みにする愚かな構えだ。

 どんな事実に対しても、自分の頭で考え、考えるための資料をあたり、判断を留保しながら真実を確かめていく構えがなければ、マスメディアも含めて、「誰かの言いなり」の人生を送ることになるだろう。

 それが、原発事故や戦争や貧困化などを支えてしまうことになる。
 そういうダメな社会に対して不満や不安があるなら、警察やマスメディアの言葉を鵜呑みにしないでほしい。


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