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■からかう芸風のブロガーがたどる「想定内の末路」 ~塩村議員に対するヤジ問題から


 こんなブログ記事を書くと、僕が怖い人のように誤解されるかもしれない。
 けど、ネット利用の注意点を若い人に知ってほしいと思うので、書いておこう。

 世間は、自分が思っているよりはるかに広い。
 理屈や議論には相手をせず、「表へ出ろよ、コラ」と導く人もいる。

 世の中は、必ずしも「話し合えば正解」というわけにはいかない。
 ケンカを正当化するつもりは無いが、人は理屈だけで生きてるわけではなく、情念としても生きているからだ。

 それが現実だとわからん奴には、誰かをからかったツケを払う日がいつかやって来る。

  先日、東京都議会で塩村あやか議員へ自民党都議たちによる「ヤジ問題」があった。

tokyo3.jpg
(※東京新聞の記事より)

 そこで、塩村議員の過去を引き合いにしたブログ記事を書いて、炎上演出でPVを稼ごうっていうバカがいた。
 こういうノイズを賢さと誤解するようなバカになってはいけない。
 むしろ、そのバカな行為が何を導きかねないかを想像することが大事だ。

 塩村議員にどんな過去があろうと、現在は代議士として立派に仕事をしている。

 この事実の重みをふまえず、過去をほじくり返してからかうブログ記事を書けば、社会復帰したくても受け入れてくれる会社を見つけるのが難しく、生き苦しさを持て余してる前科者たちを刺激するかもしれない。

 あるいは、とにかくムシャクシャして攻撃性をどこかにぶつけたい人が読めば、勝手に「塩村議員の敵をとるという名目をでっち上げて、ブロガーを狙った犯行に目覚めるかもしれない。

 社会的弱者に関心が無いブロガーは、そのように自分の知らないところで恨みを買い集めるのだ。
 その危険を想像すらできず、ネット上で人をからかうのを趣味にしてる連中には、ろくなヤツがいない。

 からかうってことは、相手が自分より弱いと認知してるってこと。
 自分が誰を敵に回しているか、からかいを芸風にしている書き手は気づかない。

 彼らは想定外の恨みを買ってるから、いつかチンピラに刺されたり、絵を描かれて仕事ができなくなるんだろう。
 だが、それは自業自得だ。
 誰もそのブロガーを助けられない。

 あなたの家族や友人、知人にそういうバカをやらかしかねない人がいたら、あるいはバカなブロガーのファンがいたら、教えてあげよう。

 ネット上でものを書くとは、自分の求める歓迎的なリアクションだけが得られるのではなく、むしろ想定外のリアクションを現実に引き起こす可能性があることを。
 そして、自分の周囲にはいないタイプの人たちは、常に自分の想定を超える行動をとるということを。

 ホントは、こういうことを高校の「情報」の授業でやった方がいいんだよなぁ。

 ネット上には、誰かをからかって貶めるような記事が増えるよりも、弱者を救える有益な情報が増えていったほうが誰にとっても安全利用できるんだから。

 そして、自由とは、自分が取れる責任の範囲にしか拡張できないことも、大人はきっちり若い世代に伝えていこう!


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■社会の仕組みにいじめられる側が、より弱い人を… ~本当に必要ないじめ対策とは?


 NPO法人ストップいじめ!ナビ、という団体が法人認証されて本格的に立ち上がるらしい。

stop.jpg

 団体名は勇ましいけど、活動目的の正当性や活動内容がよくわからない。

 「自殺対策コンテスト」「児童虐待STOP!アクション」のような”当事者無視”の匂いも漂ってくる。

 この団体に関わっている明智カイトさんによると、「ストップいじめ!ナビ(のスタッフ)は私のようなLGBTや、不登校児などのどちらかというといじめらる側」とか。

 この団体には、低偏差値の高校に通った元ヤンキーや、傷害事件での少年院帰りの青年、過去のイジメを悔いている元いじめっ子などを、団体立ち上げの当初からスタッフとして歓迎して公募する動きは無さそうだ。

 そこで、いろんな疑問がわく。

 いじめは、いじめられる側の「いじめて!」という望みからはなかなか始まらない。たいていは、いじめたい側が始める。
 だとしたら、いじめる側の気持ちや境遇、動機形成の要因がわかるのは、いじめたことのある当事者ではないか?

 それに、いじめをとめるのと、いじめをなくすことは、同義だろうか?

 いじめられても仲間の末端にいる子にとって、いじめ顕在化で仲間を失っても、本当に幸せだろうか?

 いじめる/いじめられる関係が今よりもっと水面下のものになったら、どう問題解決できるのか?

 いじめの経験がゼロになって喜ぶのは、本当にいじめる当事者/いじめられる当事者だろうか?

 たとえば、いじめる側にはいじめるだけの理由があるわけだけど、それが当事者の周囲にいる親からの虐待や貧困、先輩からの命令、担任教師による偏見だったら、そうした「周囲の大人」に対してどんな解決アクションが具体的に行われるのか?

 たとえば、いじめる側には、学力が低いと勉強が面白くないなどの「よのなかの仕組み」によって孤独や嫉妬、うらやみなどを持つ思春期の子がいると思うけど、そうした場合、当事者を苦しめる「よのなかの仕組み」をより生きやすいものへ変更できるだけの具体的な方法やスタッフは調達できるんだろうか?

 「いじめる側/いじめられる側」で分断したり、両者の間に対立構造を持ち込んでどちらかの立場に立つこと自体が、いじめという行為に追いやる「社会の仕組み」のまずさを見えなくさせる。

 だから、いじめられる側に同情しただけの一方的ないじめ防止活動は、これまでほとんど「いじめ撲滅」にとって効果が無かった。

 これは児童虐待でもさんざん指摘されてきたことだが、虐待されたあとで子どもを保護するだけでは、児童虐待はなくならない。

 わが子なのに虐待を辞められずにエスカレートさせてしまう親を、虐待という行為に追い詰めているさまざまな要因(=よのなかの仕組みを含む)を取り除き、親自身をいやさなければ、虐待はいつまでも繰り返され、子どもの虐待死までエスカレートしかねないのだ。

 最近ネットで拡散されている「母親による幼児虐待」の動画についても、毒親として社会からの憎悪を向けるだけでは何も解決しないことを指摘する人も出てきた。

 いじめる側は、「社会(よのなかの仕組み)にいじめられている人」だ。
 いじめる側も、見方を変えれば、「いじめられる側」として痛みを分かち合える仲間なのだ。

 修復的司法について少々かじったことがある人なら、いじめが「いじめられた側」に偏った立場からしか語られない場合のデメリットも知っているのかもしれない。
 だが、このNPOのスタッフたちは、きっと知らないのだろう。

 そのまま「いじめられた側」の当事者に偏った活動を始めれば、今まさにいじめられている子のリアルな痛みと向き合うのも難しいと気づかないだろうし、明日も明後日も続くいじめを止めることなど夢のまた夢だ。

 つまり、「いじめられた側」のスタッフだけで活動を始めようとすれば、今まさにいじめられている子にとっての利益にはならないのだ。
 なんて残酷で自己満足な「ストップいじめ!」だろう。

 「いじめる側」の生きてきた文化に対する無関心ゆえに文化的差異を乗り越えず、「いじめられた側」からの憎悪を正当化するという構えだけでは、いじめ問題はいつまでもモグラ叩きゲームだ。

 虐待された子が自分を虐待した親を呪うことで自尊心を保とうとするのは大事だが、そうした呪詛のコミュニティの中で安心していられる自助グループのままでは、生きずらさは変わらないし、児童虐待も終わらない。

 だから僕は1997年に『日本一醜い親への手紙』という被虐待当事者の本を作った後、1999年に『完全家出マニュアル』を作って虐待する家からの避難を正当化した。

 かつてのいじめ不登校問題を、フリースクールを作ることで「学校に通わなくていい」という仕組みを作ったのと同じ発想だ。
 いじめや学校からの避難は、既に社会的に容認された。
 次は、家出も容認されるべきだろう。
 学校や家庭にある「よのなかの仕組み」を変えない限り、家出や学校中退はいつまでも勇気を伴うものになる。

 つまり、社会の仕組みのまずさを解消しないまま、目の前のいじめだけを終わらせようとする対処療法的なアプローチだけでは、らちがあかないのだ。

 なのに、NPO法人ストップいじめ!ナビは「さまざまな分野の専門家」を集積させるという。
 そうした「偉い人」がいじめる側にとってどう映るか、わかっているんだろうか?

 実は、自殺や児童虐待、いじめなどのように、その現場が泥臭くて情念が生々しいために深刻な問題ほど、なぜか抽象的で安っぽい活動を始める人が出てきやすい。
 既にそういう団体はたくさんあって、団体の規模は大きくなり、歴史も積み重ねられている。

 なのに、それらへ相談した人たちの中には「らちがあかない」と失望し、「はじめまして」のメールを僕に送ってくるケースが後を絶たない。
 そうでなくても、「NPOが何をやってるかわからないから相談しにくい」という理由で、僕のブログ記事を読んだ方から相談を受けるケースもある。

 要するに、団体に相談するには、その団体が相談者から思わず相談したいと思ってもらえるだけの信頼に足る仕事や言動をふだんから見せる必要があるってことなんだ。
 少なくとも、「この人に相談しても怖くない」という構えを見せる必要がある。

 そうやって、相談に来られた方と一緒に問題解決に汗を流し、付き合いを深めていけば、「よのなかの仕組み」のまずさに気づき、新しい「よのなかの仕組み」を作り出さないと、モグラ叩きのような仕事をいつまでも続けることになると気づく。

 そのように、困ってる人との個人的な付き合いを積み重ねていくことが、団体を作ると意外に試みられないことは、自殺や児童虐待、いじめなどのように深刻な社会問題の活動団体では珍しくない。
 
 こうした過去の失敗における間違いに気づかない団体には、問題解決モデルにイノベーションを興す発想も動機も無い。

 それは、「ノド元過ぎれば熱さ忘れる」という具合に、今まさに苦しんでいる当事者に対するコンパッションをふまえてないからだろう。

 「いじめられていた頃の自分なら満足できる活動だろうか?」という自問が乏しければ、目に見える活動の成果など期待できないのだ。

 こういうNPOが、自殺対策を標榜しても自殺者数を減らせないライフリンクのように政府の委託事業で僕らの血税から支出される公金で活動を運営することがないことを祈りたい。

 分断と対立を前提にし、自分が差別をしていることにまったく無自覚な活動団体が国家によって認められてしまえば、「社会からいじめられている人」はさらに立場をなくし、近くにいる誰かをさらにいじめなければならなくなる。

 そこで、いじめの現場はさらに団体に期待し、団体が動けば、さらにいじめは深く広く強くなる傾向を強めていくだろう。

 それはまさに「いじめ」を拡大させるマッチポンプそのものだし、いじめる側が「社会によっていじめられている側」であることを見えなくするのと同じだ。

 「先生、●●君がいじめてます。なんとかしてー!」といきなり専門家に頼る構えは、とても特権的で、パワーゲーマーのように感じる。

 自己満足による安易な正義は、社会問題を彼らの関心外のところでこじらせ、弱者を深刻な被害へ導きかねない。
 正義を気取る人たちが集まって団体を作ることほど、怖いものはないんだよ。


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■ウリ(売春)は「選択」の結果か? ~本人の認知をゆがませる社会の側の問題


 売春という稼ぎ方を「望む」か「望まないか」という線引きを安易にすると、その文脈に誘導してしまうことになる。

 性の自己決定以前に、「私には売春しかない」と思い込んだままウリを始める子もいるのに、「望まない売春」を減らすことはできるか?という問いかけをする人たちがいるんだよねぇ。

 自己評価が低かったり、社会経験が乏しかったり、常識が無かったり、学歴不問の職種の豊かさを知らなかったり、多額の借金の返済に迫られているなど、個別の事情によっては、選ぶのではなく「これしかない」と勘違いしてウリを始める子もいる。

 それは、個別の事情に対して社会が解決インフラを十分に用意していないことを浮き彫りにしているのであって、ウリでしのぐ当事者個人のモラルの問題ではない。

 むしろ、問題なのは、「ウリしかない」と当事者に思わせ、選択できるほどの豊かさを持ちえない社会が「支援の貧困」を温存していることなのだ。

 よのなかで上手くやっていくことが難しかったり、会社に雇われにくい人は、現実に少なからずいる。

 児童養護施設の出身で、18歳で自立するはずだった若者にも、そういう子はいる。
(今日も、NHK Eテレの「ハートネットTV」で紹介されていた)

 親からの虐待やDVなどによって精神疾患をもったまま、卒業後の進路が立ち行かなくなっている人もいる。

 精神障害がなくても、家族の介護や看護に時間をとられるため、経済が疲弊している地方の実家の近辺にしか自分の働ける場所を選べない人もいる。
 
 他にもいろいろ個別の事情があるが、そうした問題にこの社会はまだ適切な解決サービスを提供できていないのだ。

 だからこそ僕は、いざ会社で働けなくなっても、自分で自営業者として稼ぐ力を身につけておくことこそがセーフティネットだと考えるし、その力を学べるチャンスが社会インフラとして豊かにあることが望ましいと思う。

 そういう社会になってからでないと、「望まぬ売春」「望んでやってる売春」をはっきりと線引きできる選択の時代とはいえないだろう。

 セックスワークが社会インフラとして位置づけられ、セックスワーカーが誇りある仕事として認められるようになってほしいからこそ、「望まぬ売春」と安易に見る人たちが貧困を語るのを、僕はしらじらしく観ている。

 ウリをするにしても、しないにしても、日本人は平均的に自己評価が低く、「自分らしく働く」ことによって「自分は生きてていい人なんだ」と思えるまでには、相応の年月がかかる。

 それは、精神病患者が書いたこの人気のブログ記事を読んでもらえれば、うなずいてもらえるだろう。

 その記事の最後に、こんな文章がある。

「わたしが生きていると、喜ぶ人がいることがわかりました。
 そういう人がいて、良かったと思いました。
 自分らしく生きることには、自分を心地よくして、居心地よくして、死にたいと考えなくても済む時間を増やして、わたしを大切に思っている人が、わたしを心配せずに生きる時間を増やす効果がありました。
 だから、わたしは自分らしく生きることに意味を感じるようになりました」


 実は、風俗やウリ(ワリキリ・援助交際)で客がとれた人には、それによって「選ばれた」と認知したり、金銭という対価によって承認されたかのように感じ、自己評価を下げ止めることができたと証言する人が少なからずいる。

 それを裏返せば、彼らを彼らのままで受け入れる人がいっぱいいるほど、現実の社会は寛容ではないってこと。
 せめて若い頃に自己評価を上げられる仕組みが、日本社会には切実に必要なんだ。


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■脳をいじるクスリに脱法も合法もない ~脱法ハーブ事件から精神科医療を思う


 東京の池袋駅前で車を暴走させ、歩行者をはねて殺傷した事件で、「脱法ハーブ」の問題がメディアでクローズアップされている。

asahi2.jpg
(※朝日新聞の記事より)

 自分の頭で考える習慣のついてる人なら、この報道の切り口が「市民のためというより警察寄り」であることにピンとくるだろう。

 まず、薬物が違法か合法かの前に、どんな薬物も処方を間違えれば、自分の言動についてコントロールなどできなくなる。
 警察は「脱法」(違法)の薬物を取り締まりたいので、メディアもそれに乗っかって「脱法ドラッグは危険」という報道をする。

 しかし、合法なら危険じゃないのかといえば、そんなことはない。
 精神科で処方される薬も、処方を間違えれば、同じような事件はおこるからだ。

 では、「正しい処方」なんてものは、あるだろうか?

 ギリシャ時代のように「賢者」と「愚者」が明確に分かれ、愚者が賢者を完全に信じる時代なら、医者は賢者として振る舞い(※当時は哲学者と医者は同義)、愚者は医者の出す薬をありがたがって処方を守っただろう。

 しかし、現代の医療では、患者は医者を賢者だと信じていない。
 患者も自分を愚者だとは思っていない。
 そうなれば、医者が言う通りの処方を守る根拠は失われる。

 もちろん、薬以外の療法によって絶大なる信頼を既に患者との関係において築いている医者もまれにいて、そういう医者が「どうしてもという場合は処方を守って」と念押しの上で薬を出したなら、その処方は守れるかもしれない。

 しかし、現実には、そういう医者はそう多くは無い。
 だから、厚労省は精神科の多剤処方を厳しく指導する通達を出したし、精神科で薬を処方されているのに車を運転し、京都で事故をおこしたてんかん患者もいた。

 脳をいじる薬は、それが合法であろうが、非合法であろうが、脳にとっては関係なく作用するのだ。
 これは警察の管轄ではなく、製薬会社の企業倫理や精神科医療の問題を多分に含んでいる。

 しかし、なぜか新聞・テレビ・雑誌では「脱法」の部分に目を引かせる報道が目立つ。
 なぜ、製薬会社や医療の倫理がマスメディアで真剣に問われないのか?

 日本医師会、製薬会社は、マスメディアにとって自社に広告収益をもたらす大口のスポンサーだから。

 マンガ『ブラックジャック』に「日本医師連盟」という架空の団体が出てきて、「連盟は総理より偉いんだ」というセリフが有る。
 こういう構図を手塚治虫さんは「無免許医」という設定で浮き彫りにした。

 僕らは、一つの情報を一定の方向にだけ読まれるように誘導されていることに敏感になる必要があるし、それがメディア・リテラシーの初歩として若い頃から学ぶ必要があるだろう。

 あなたや、あなたの大事な人間が、何の罪もなく突然「事故」に巻き込まれたとしても、それは「不運」なのではない。
 みんなの知らないところで誰かが自分の利益を守ろうとし、他の誰かの脳内をおかしなことにしている結果なのだ。


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■「ひきこもり=良い子」説は当事者の口を封じる差別 ~「みんなクズ」から始めよう! 


「引きこもりの人は、怒りの矛先が他人に向くわけないんですよね。
 人目が怖くて、目立つことを嫌うのに」


hikki.jpg

 このリンク記事は、そう当事者の弁を紹介する。
 しかし、あまりにそれは都合よすぎる。

 この記事を書いた記者がもっとたくさんのヒッキーと出会っていれば、こんな好都合な内面吐露だけを「犯罪予備軍」のイメージ回避のために紹介したりはしないだろう。

 ヒッキーだからって「良い子」とは限らないし、性善説だけでひとくくりにして語るのも変だよね。
 ヒッキーだって、さまざまなんだ。
 内面に向けられていた攻撃性は鬱や自殺を招くだけでなく、突然に外側へ向けられ、暴力や反抗的な態度にもなる。

 そして、それは「普遍的な人間の特徴」であって、ヒッキーだからそうなるわけではない。
 医者だって、政治家だって、教師だって、誰だって「犯罪予備軍」なんだから。

 それをふまえていえば、「黒子のバスケ」事件の男が公判でこう発言したことは意義深い。

「私は10代、20代をひきこもりで過ごし、何もやらなかった。
 その有り余ったエネルギーを黒子のバスケの作者に勝つことに注ぎ込んだ。
 私はその責任を取るつもりは無い。ここを出たら、首をくくるつもりだ」

 攻撃性は、自分の内面に向かってうつになったり、外に向かって表現や性欲になったりする。
 そして、それをセルフ・コントロールすることに疲れたら、何もかも、もうどうでもよくなる時もあるだろう。
 それは、ひきこもりの特性ではなく、人間として誰もが陥りかねない特性だ。

 ヒッキーだけが「怒りの矛先が他人に向くわけない」と断じるのは、むしろヒッキーに対する差別や偏見になってしまう。
 だから、リンク先の記事が、「当事者の気持ちを自説の裏づけにだけ使いたい」という文脈誘導に見えて仕方が無い。

 ヒッキーに対して「支援」したがる方々は、こぞって団体を立ち上げる。
 だけど、当事者であるヒッキーのニーズはさまざまで、それゆえに自らそうした団体に近づくのは、ヒッキー全体の中では少数派だ。

 団体主催のイベントに足を運ぶヒッキーより、むしろ、「アイドルに会いに行くヒッキー」や、「外出せず団体へメールも送らないヒッキ-」の方が圧倒的多数派だろう。

 支援団体のような「よくわからん人たち」の中に自分が入っていくことに意味を感じないヒッキーは、決して少なくない。

 それでも彼らは、自分が関心をもてる相手であれば、メールのひとつぐらいは自ら送ったり、twitterで突然、関心あるアカウントの相手に質問したりする。
 僕のところには、そうした「団体嫌い」のヒッキー当事者からの連絡が後を絶たない。

 たぶん、それは彼らそれぞれの幸せ・不幸せや「問題」をこちらで設定しないからだ。
 日頃から、当事者各自が切実に求めるものに関心を持ち、彼らの尊厳を大事にする言動をネット上でしていれば、当事者のほうから連絡をもらえる。

 そもそも、ヒッキー生活の「何が問題か」は、本人が自覚し、解決したいと切実に望んだ時に明らかになること。
 「なんとなくメシが食えている」というあいまいな生活環境の下では、自分が何をどうすればいいかわからないまま暮らしてる人が珍しくないのだ。

 自分の解決すべき問題すらわからない、あるいは問題を見ない振りして生きていたい(その方がつらい現実をやり過ごせるから)という当事者の声をふまえないまま、いきなり「支援」の旗を掲げることほど、怖い存在はない。

 自分が何に悩んでいるかもわからないのに、この人たちは何を解決できるのか、さっぱりわからないからだ。

 せめて団体さんは、「解決実績」を見せてほしい。
 それが本物なら、ヒッキー当事者の満足度を当事者自身が判断し、語るもののはずだ。

 そうできるようになるには、まず「支援」活動をする人自身が、さまざまなヒッキーから思わず関心を持ってもらえて「選ばれる」だけの関係作法を学ぶ必要があるだろう。

 それは、ひきこもること自体を問題視する世間を敵に回しても、ヒッキー当事者を守る覚悟を必要とする。

 しかも、「怒りの矛先が他人に向く」ヒッキーが目の前にいても、その人のその欲望を認め、敵視しない作法が、その人自身から求められる。

 そうした覚悟は、避けるほうが楽だ。
 だから、「怒りの矛先」が自分に向けられることを嫌がり、ヒッキーだけを良い人のイメージに押し込めてしまう。
 それは、ヒッキー当事者自身の口を封じるのと同じだ。

 親や教師に「良い子仮面」を当事者にかぶせられ、救いを求めた先の支援団体に「きみは怒りの矛先を私にぶつける人ではないよね」という視線を浴びせられたら、ヒッキーはその人に文句や不満を言いだすことができなくなるからだ。

 これは、当事者の内面に不満を募らせるのと同じ。
 そういう「支援」の構えこそが、当事者の「怒りの矛先」をある日突然、本人ですらコントロールできないまま外へ向けさせる圧力になるのではないか?

 そうした「支援団体の同調圧力」が、頻発する無差別殺傷事件の引き金になっているんじゃないか?

 そういう自問なしにヒッキー当事者の前に立っても、ヒッキーは何も言わないだろう。
 だからって、「何も思ってない」ということではないんだよ。

 思ってても言えない空気が団体や「支援」という構えによって作られているから、本当は怒りや不満が高じて言いたいことが山ほどあるのに、言えなくなってるのかもしれないんだ。

 だから、「怒りの矛先を内面にしか向けられないヒッキーのきみも、その怒りを受け止める覚悟が足りない俺も、大して変わらない。どっちもクズだよなぁ」という気持ちを分かち合わない限り、両者の間に確かな信頼関係が始まることはないだろう。

 ヒッキーから信頼されないままの活動なんて、団体でやればやるほど当事者にとってはうさんくさく見えてしまう。
 その冷徹な現実を受け入れ、ヒッキーに信頼されるような人材に成長してほしいもんだ。

 ひきこもりについて「支援」したい人よりくわしく知っているのは、毎日ひきこもりの生活を続けてきたヒッキー当事者なんだから、さ。


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