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■洋楽の歌詞を、和訳して聞いてみよう! ~J-POPも、自分と社会の関わりを歌えるはず


 まずは、下記の歌を聞いてみてほしい。
 『I've Never Been To Me 』(邦題:愛はかげろうのように)。



 「女が自由を求めても、孤独になるだけよ」
 「子育てや配偶者とのささやかな日常の関係にこそ幸せはあるの」
 「他の人が知らないような華やかな世界も知ったけれど、今の孤独な私には自分の望むものがわからないのよ」

 シャーリーンの唯一のヒットソングなのだが、いくつかある日本語訳では岩崎宏美さんの歌が一番、原曲のメッセージに近いだろう。
 訳詩を手がけたのは、天才作詞家・山川啓介さんだ。



 「子育ての大変さ」「夫とうまくやること」といったあふれた日常を愛そうという保守的なメッセージにも映る。

 だが、原曲の訳詩にある「女が見てはいけないものを見てしまった」というフレーズと、タイトルにある「私はもう戻れないところにいる」というフレーズが響き合って示しているのは、女性として生きることの難しさだ。

 そこで、次の曲を聴いてみよう。
 グロリア・ゲイナーの大ヒット曲『I will survive』(邦題:恋のサバイバル)だ。



 自分を愛や暴力で支配しようとしていた「ダメ男に」に対してきっぱりと決別し、別れを突きつけ、追い払う女性の歌だ。

 この2つの歌は、共に「男社会での生きずらさ」を表現している。

 『愛はかげろうのように』は、出産・子育て・結婚・男との生活をしないことで責められる女性たちの存在を浮き彫りにし、『恋のサバイバル」は、DV・共依存から脱却して「ひとりの男」に縛られなくても生きられるし、自分を愛してくれる人だっているという気づきを与える。

 この2つの歌に加え、ジャニス・イアンの『At seventeen』(邦題:17歳の頃)も「美人でないために恋人に選ばれない痛み」を歌っている。



 アメリカ人アーチストは、個人的な痛みが社会的な痛みである構図を上手に歌に込める。
 自分と社会との関係に気づき、自分と社会が「地続き」であることに敏感だ。

 日本でそうした歌作りをしているのは、中島みゆきさん、さだまさしさん、ユーミンさん、岡林信康さん、忌野清志郎さんあたりか。

 J-POPは、音の部分ではかなり洗練されてきたと思うけど、歌詞の部分ではまだまだ伸びしろがあると思う。
 しかし、音楽ディレクターが「歌詞の編集」までできるかどうかは未知数だ。

 そこで、歌詞の編集サービス(作詞支援)という新事業を始めてみた。

 その人にしか書けない歌詞はあると思うし、それをアーチストから上手に引き出してこれまでにない歌を誕生させるのが本来の編集の仕事だが、レコード会社には既にその能力を失っているのかもしれない。

 出版業界もそうだが、著作権ビジネスの資産は、出版権、著作権者との関係、社員編集者のスキルの3つしかない。

 編集者が自分のディレクションの能力を向上させなければ、新人の才能を開花させるのも難しいし、ベテランに長く活躍してもらうために時代に見合った作品制作を促すこともできなくなる。

 作品が商品として成立する際には、アーチストとディレクターの二人三脚が必要になる。
 セルフ・プロデュースのインディーズがやたら増えている昨今だからこそ、前述した3曲のように深い作品世界を作り出す編集スキルが必要になってくるように思う。


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■15歳で文化を仕分けされる日本人 ~「社会的包摂」の意味がわからないインテリさん


 僕の知る限り、かなり優れたインテリで、インテリからほど遠いヤンキーや風俗経営者、右翼などの人々を含む多様な人脈を持ち、さまざまな声を等価として社会の全体像を示している人は、宮台真司さんに代表される「ごく一部の文化人」にしかいない。

 インテリさんの多くは、「高学歴インテリ文化」から見下ろす形で「低学歴ヤンキー文化」を社会問題として観る構えを疑わない。

 だから、国連大学や東京ウィメンズプラザ、東京大学など、「高学歴インテリ文化」一色で価値基準が染まってる場所で行われるイベントやセミナーが、ものすごく偏った価値観で運営されてることに無自覚だし、似たような属性の観客もまるで先生の話をよく聞く小学生みたいにそのイベントのゲストの話を鵜呑みにしかねない。

 そういう気持ち悪さにピンと来ないまま、延々と偏った社会観を持ち続ける人たちがいることは、そのこと自体が差別と偏見を助長する仕組みになってしまう。
 これは、社会問題を自ら作り出しているのと同じ構図だ。

 彼らが「低学歴ヤンキー文化」しか得られなかった当事者たちの境遇・環境に関心を持つならば、15歳で受験偏差値によって文化を分断された人たちの痛みにも気づくはずだ。

 「かわいそう」と見下ろす相手をその境遇に置いたのは、「自分さえ勉強して高所得が実現できれば、勉強できなくて低所得になってしまう子のことまでは考えたくないし、自分には関係ない」という構えで生きてきたからじゃないか?

 そういう育てられ方をした子が、やがて親になり、自分の子にも「低学歴ヤンキー文化」に対する偏見と差別を継承して行くんじゃないか?

 やれ「風俗は危険」だの、「やくざは嫌い」だの、「勉強の努力をしない人が悪い」だの、勝手に物申すのは結構だけど、そうした構えがソーシャルインクルージョン(社会的包摂)とはまるで対極にある構えだということぐらいは学んでおいてほしい。

 風俗を危険な場所にしたり、やくざを必要としたり、勉強したくてもできない家庭を作ったのは、僕らであり、きみかもしれないのだから。

karigazo.jpg

(※本文と画像は関係ありません。ちなみに、このリンクから借用しますた)


 しかし、こういう主張を正面切ってすれば、「良識派」を気取る人たちから眉をひそめられる。
 彼らは、勉強できない人を「努力しない人」として切り捨てているからだ。

 親の所得の高さが子どもの学歴の高さと比例している今日では、貧しい家の子どもがどんなに努力しても、幼い頃から莫大な教育投資を受けられた「お金持ちの家の子」との学力格差が歴然としてあり、とても敵わない

 中流資産以上の家庭の子なら、東大や早・慶・上智あたりを平気で目指すこともできるだろう。

 だが、生活保護を受給している家庭や養護施設、シングルペアレントや下流資産層の家庭で育った子が同じような学歴を望んでも、その学力を身につけられる環境は得られず、相対的に埋められない学力格差が出てくる。

 もちろん、一部の高学歴の大学生は、途上国の貧しい子たちを救う支援活動に関心を持ったりする。

 だが、ハエのたかった子どもをかわいそうに思い、その親に仕事がなくて貧しいことが理解できても、そうした貧困の構図が日本にもあることに思い当たらないばかりか、自分自身が「自分さえ勉強して高所得が実現できれば、勉強できなくて低所得になってしまう子のことまでは考えたくない」という構えで低学歴の同世代の友人たちを蹴落としてきた現実に向き合うことがない。

 「高学歴インテリ文化」を自明のものとして生きる彼らは、「低学歴ヤンキー文化」を知らなくても何も困らないからだ。

 「勉強すれば高所得になれる」(=勉強しなければ低所得になる)という社会の仕組みは、『学問のススメ』を書いた福沢諭吉が100年前にこの国に導いたものだ。 
 しかし、インテリ家庭に育った福沢諭吉には、残念なことに、社会の裾野の広さが見えなかったのだ。

 それが、インテリの限界なんだろう。
 だから、自分たちの仕事が社会に十分に役立っているかのように錯覚して満足する。

 たとえば、ヤクザが今なお存在し続ける一つの理由は、教育と福祉の敗北にある。

 15歳の時点で勉強ができない(嫌いな)子は、高校から「低学歴ヤンキー文化」に貶められる。
 そこには、勉強ができなくても仲間に誘ってくれるコミュニティがある。

 そのコミュニティには、暴力団への入口があるし、覚せい剤のプッシャーの仕事もある。
 勉強ができないだけで居場所がない人を作り出す仕組みは、非合法組織を存続させるのだ。

 もし高校教育や児童福祉がこの国に充実していれば、犯罪に手を染める必要はなくなる。
 少なくとも、暴力団を存続させるだけの若手が育つ土壌がなくなる。

 それは、非合法組織を弱体化させる。
 すると、どうなるか。

 たとえば、ヤクザによって派遣されていた原発作業員は調達できなくなり、原発は稼働できなくなる。
 地上げも難しくなるので、都心にハイテクビルが建つ区画整理も進まず、経済は沈滞化する。

 汚い仕事を企業舎弟(暴力団)にやらせていた政治家や官僚、大手広告代理店やゼネコンなどの大企業は、ビジネスが立ち行かなくなり、既得権益は崩れてしまう。

 あえて「うがった見方」をするなら、低学歴ヤンキー文化に一定の人数を貶めることによって、暴力団は若手人材をキープし、既得権益たちはその地盤を固めているんだろう。

 だから、「低学歴ヤンキー文化」に関心を持つ作法をことさら推奨するようなことはせず、「高学歴インテリ文化」の中でぬくぬくと既得権益的発想のままで生きられる仕組みを温存しようとするのかもしれない。

 いずれにせよ、社会全体を見渡せば、15歳で学歴によって文化を分断する仕組みは、勝ち組を延々と勝ち組にする仕組みであり、同時に負け組を延々と負け組にする仕組みである。

 そこで、フィリピンの青年の話をしよう。

 エフレンは、貧しい家庭に生まれた。
 治安が悪く、ギャングやストリートチルドレンであふれていたスラムで、周りには貧困からギャングになる幼馴染や友達がたくさんいた。

 その仲間にも誘われたこともあったが、何とか学校だけは行かせてもらっていたエフレンは「いつかはこの暮らしから抜け出す」という思いで日々勉強に明け暮れていた。

 仲間にならないエフレンをギャング達は目の敵にし、殴る蹴るの暴力を執拗に振るった。
 エフレンは、「どうしてこんな思いしなきゃならないんだ」と深い悲しみと怒りに燃え、「ギャングに復讐したい。ギャングのいない世界を作ろう!」と思い立った。

 そして、16歳の時にスラムの子を貧困から救う慈善団体DTC(ダイナミックティーンカンパニー)を設立した。

 友人に声をかけ教科書やノートをかき集めボロボロの手押し車でスラムに運び、「勉強しよう! 読み書きや算数教えるよ!」と歩き回った。

 しかし、元々学校に行っていない子どもたちは、勉強への意識が低い。興味を持ってくれない。
 そこで、問題に正解した時にお菓子などをあげた。

 すると、貧しい子どもたちのアイ大で「お菓子をくれる」と評判になり、参加する子どもが増え続け、最初はお菓子目当てだった子供たちも次第に学ぶことの楽しさに気付いていった。

 現在も手押し車の授業は続けられており、エフレンを支えるスタッフは100名。
 手押し車も70台までに増えているという。

 この活動は、フィリピン国内にとどまらず、ケニア・インドネシアの貧困地域で手押し車の授業を行っている。
 授業を始めて12年目の2009年、エフレンはCNNが選出する人道的な活動家に与えられる「CNNヒーローズ」を受賞した。

 幼稚園から大学まで同じ系列の私立の通う子どもたちの多くは、「高学歴インテリ文化」の中で純粋培養される。
 エフレンのように、学ぶことによって非合法組織へ入ることを避けられる人生を作り出すような動機は生まれない。

 しかし、自分の幸せが、他の多くの負け組によって維持されていることに思いをはせるならば、そして社会悪を作り出しているのが自分自身だと気づくならば、「低学歴ヤンキー文化」も「高学歴インテリ文化」と等価であることを知る必要があるだろう。

 文化によって価値基準は異なるが、その価値の多様性を受け入れる器を社会の中に作り出していく構えがなければ、いつまでも「生き地獄」を生きる人々は存在し続け、犯罪や自殺、精神病や差別などはなくならないだろう。
 
 しかし、社会変革の動機を持つ人は、この社会に無数にいる。
 「社会の仕組みを変えなければ、生きずらい」と気づいた人から、ソーシャルイノベーションへの関心が高まるはずだ。

 学校に通っていたエフレンが、学校に通えない子らにお菓子を与えたように、この社会の仕組みは、変革を望む当事者のニーズに基づいてこそ変えられるのだ。

 この社会の生きずらさを感じ、社会の仕組みを変えたいと望む当事者たちは、既に声を上げている。

 職場環境の改善を求めるセックスワーカー、児童相談所が機能してないからこそ自ら避難したのに不良扱いされる家出人、犯罪予備軍のように語られる「住所不定・無職」のニート&ホームレスなど、さまざまなマイノリティ当事者の声に向き合ってほしい。

 彼らは、必ずしも既存の行政サービスや法制度に満足していないし、「政治次第で自分の不幸が終わる」などという悠長な夢を見ていられるほどの余裕はない。

 既存の価値基準を傘に来て発言力をもつ有名人や学者、政治家や役人など以上に、彼らには当事者固有の価値がある。

 僕はそうした当事者たちが、既得権益的な価値基準を持つ人の前で萎縮しなければならない空気をおかしいと思うし、声を上げたくても、やたらと声の大きい「高学歴インテリ文化」の人たちの機嫌をとりながら発言しなければならないことを、とてもせつなく思う。

 虐げられてきた者が、虐げた者に対して、対等に振る舞うことができない社会は、生きやすいか?

 たとえば、セックスのように普遍的な喜びを提供できるプロの技術をもったセックスワーカーが、多くの人々から賞賛されない社会は、未熟なのだ。
 社会の成熟とは、多くの人が本質を見極ることができ、社会悪を取り除いたところにある高い価値を発見することにある。

 現代人が成長するには、既得権益的な常識にとらわれず、当事者の価値を知ることだ。
 セックスワークの真実が知りたければ、セックスワーカー当事者の声に耳を傾けることだ。

 ところが、現実は違う。

 「高学歴インテリ文化」は、当事者固有の価値よりマスイメージによる常識を妄信し、当事者に発言権を認めずにいる。
 常識を疑わなくても、彼らは何も困らないからだ。
 常識が妄信に基づいたウソであっても、いつまでも常識を妄信している方が楽だからだ。

 セックスワークについての社会的なコンセンサスを得るために、セックスワーカー自身がイベントやメディアで発言する機会は増えてはいる。

 だが、長い間、ずっと虐げられてきた側が怒りや不安を封印して丁寧に説明を続けるという作法は、屈辱的かつ隷属的で、そうしなければ社会的コンセンサスにたどりつけないとしたら、とてもせつない。

 それは、たとえば性虐待した親を殺すしかなかった人が、裁判で事の次第を第三者に詳しく説明する光景に似ている。

 理解したい気持ちのない人に、理解を求めるつらさ。

 そこにある自尊心の問題の大きさに気づく時、僕はソーシャルデザインやソーシャルビジネスの語り部自体が、あるいはその担い手である社会起業家の仕事自体が、まだまだ途上段階でしかないことを思い知る。

 社会の仕組みが悪いために虐げられてきた者たちのニーズに基づかないアクションは、どんなにマスメディアで持ち上げられようとも、どんなに世間での評判が良かろうとも、僕は信じられない。

 人生、何をやっても、やらなくても、自由だ。
 でも、その人生、誰よりも自分自身に対して誇れるものなのかい?


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