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■会社に雇われない「自営業」を始めたい方からの相談を受け付けます!


 今日では、「会社に就職する以外の働き方をしたい」と望む人が増えてきた。
 しかし、そこには勘違いも少なくない。

  「独立・起業=会社を作ること」だと思い込んでる人もいれば、「起業=アフィリエイト」というとんでもない誤解をしている人もいる。

 会社に雇われず、自分で商品・サービスを作り出して収益を得ている人は「自営業者」という。
 「自由業」と呼ばれることもあるが、これは人類史と同時に始まったぐらい歴史の長い働き方だ。

 たとえば、地元に昔からある本屋さんや魚屋さんなどは自営業者だし、フリーのデザイナーやイラストレーター、小説家などは自営業者だ。

 自営業の職種は無数にあって、農家や漁師、紙芝居師、お笑い芸人、大道芸人、ダンサー、空手家、スポーツ出張講師、webデザイナー、手作り石鹸屋、陶芸家など、例を挙げればきりが無い。

 そうした既存の職種だけでなく、自分の履歴を活かして新たに職種を作れるのも、自営業の面白さだ。

 自営業はメインの職種以外にさまざまにやりたい仕事・職種を増やせるので、稼ごうと思えば、コツさえわかればいくらでも稼げるし、休みたい日はいつでも休める。

 もちろん、自営業者で儲かりすぎて事業規模を大きくしたい場合は、会社の法人登記を済ませて人を雇って組織化する場合もあるが、自営業でどうしても食えない人のための選択肢として会社勤務はある。

 しかし、自営業者として人並みに食えるなら、仕事をするのに会社に雇われる必要はない。
 シンプルに考えれば、商品・サービスを売って稼いだら、あとは確定申告して納税すればいいだけだ。

 会社勤務でも自営業でも、仕事は他人様に価値を提供する対価として収益を得るのであって、収益さえ得られれば価値のないものを売っていいという理屈など世間では通らない。

 会社に雇われず働くためには、「自営業とは何か」「商品・サービスにおける価値とは何か」を知る必要がある。
 しかし、自営業について教わるチャンスは、なかなか無い。

 そこで、僕(今一生)の体験から、自営業の基礎から応用、発展的展開まで、ざっと説明しておこう。

 ここでいう自営業とは、会社などの組織に属さず、自分のできることを活かして商品・サービスを作り、その価値を求める人に提供する対価として収益を得る働き方だ。

 この自営業を1人でやることは、会社が組織として分業で行っている経営に関する以下の8つの仕事を、基本的には自分で全部やることを意味する。

■商品・サービスの新規開発(コスト計算・値付け・市場調査・企画書作成など)
■商品・サービスに関する収益マネジメント(収益目標・〆切りの設定・スケジュール管理)
■商品・サービスの営業(売り込み・市場の開拓など)
■商品・サービスの制作・納品(商品化・作業効率やビジネスモデルの改善など)
■商品・サービスの広報・宣伝(webサイト作成・メディア対策・ブランディングなど)
■経理事務(請求書の送付や決済、伝票整理、領収書の管理など)
■公共料金の支払い(通信費・光熱費・年金・国民健康保険料など)
■納税(確定申告)


 もちろん、上記の中で自分が苦手な作業を放置しても、ふだんは誰からも怒られない。

 しかし、忙しさにかまけて手を抜いていれば、通常の保険証が使えなくなったり、赤字申告で納めすぎた所得税の還付金が戻ってこないなどの損をする。

 だから、最初は面倒でも、覚えて、慣れていかなければならないことはあるし、自分がどうしてもできなければ、できる人を探してお願いすればいい。

 それは家族や友人でもいいが、当然、自分の仕事を代行してくれる相手にお金を出すことになる。
 そのため、それを払っても余りある収益を作り出すことを前提に働く必要が出てくる。

 もっとも、ふだんの仕事は、自分にしかできない商品・サービスを売り込んで、受注してから制作・納品するという作業をくりかえすことになる。

 売上目標は自分が自由に設定できるし、納品の〆切りさえ守れば、いつ寝てもいい。
 マイペースで稼いでおけば、休みたくなったらいつでも休暇をとれるし、突然の旅にも出られる。

 逆に言えば、そうした自由気ままな働き方ができるだけのスケジュール管理とセルフ・マネジメントが問われるのは言うまでもない。

 それも慣れてくれば問題なくなるが、自営業の初期は「食えるかどうかもわからない不安」を原動力として、初期段階でとにかく売り込みを徹底しておくと、あとで楽になる。

 僕(今一生)は25歳でそれまでとは無縁の出版業界に転職してフリーライターになった。
 さまざまな雑誌編集部に売り込みに行き、未経験から仕事を通じて記事の執筆の仕方や売り込みの作法を学んできた。

 年収は初年度から600万円を超えていたので、要領がさっぱりわからなかった初めての確定申告も、時間をかけて理解し、自分1人でやることができた(※べつに難しくはない)。

 フリーは会社に属していないのだから、雑誌記者という職種だけで収入を得なくてもいい。

 なので、分野の異なる複数の雑誌に文章を書く仕事を増やす一方、自分で書籍の企画書を書いて出版社に持ち込み、本を執筆したり、編集する仕事も増やしてきた。

 30歳を過ぎる頃には、自分が関心のあるテーマの取材に仕事を絞ることで、他のライターがまだあまり書いていなかった分野(依存症・児童虐待・家出・シェアハウス・自殺・少年犯罪など)を自分の視点で取材して書くことに留意したり、そのテーマに関する当事者を集めて話を聞くイベントの開催も手がけていた。

 すると、「その当事者を取材したい」と全国紙の新聞記者や全国放送のテレビ・ディレクターなどが近づいてきたのを機に、新聞やテレビでコメントを求められたり、テレビやラジオに出演したり、それまで仕事をしていなかった雑誌からも名指しで執筆依頼が増えるようになった。

 他の人が追いかけていない分野を自分の視点でいち早く取材していたので、僕には競合する相手がいなかった。

 他人と同じようなテーマを追いかけたり、誰かの二番煎じをやろうとしたら、たくさんのライバルと競争して売り込みに疲れる仕事になっただろうが、僕はそうしたムダな労力をかけなければいけない仕事のあり方がイヤだったので免れた。

 また、本業で取材したテーマに沿って、雑誌記事を書く以外の仕事も増やしていった。

 自傷癖や依存症に関するテレビのドキュメンタリー番組を映像制作プロダクションと協働して制作したり、家出やシェアハウスなどに関する講演を依頼される形で全国を飛び回っていたこともある。

 しかも、雑誌記者の前にやっていた広告業界の手法を活かして、ライブハウスにスポンサーになってもらって地方テレビ局で音楽番組を制作するプロデューサの仕事をやってみたり、ここ数年では本を出したい人向けに安価な出版コンサル業を始めたり、オンラインニュースの記事も書いている。

 さらに、新聞・テレビ・ラジオ・雑誌・イベント・インターネットのすべてで仕事をしてきた経験から「マスメディアに取材される技術」広報戦略セミナーで教える仕事も日本財団で行ったり、全国から優秀なソーシャルビジネスの担い手を20名以上も講師に招いた「社会起業家・養成ゼミTOKYO」という私塾も展開した。

 このように、自分でやりたい仕事を自由に次々と開発していけるのが、自営業という働き方の面白さだ。
 楽しく自営業を続けていくには、少なくとも以下の3つのコツがある。

(1) 自分のやりたいことと、自分にしかできないことをはっきりさせ、両者を結びつけて仕事を作り出す
(2) 自分だけではできないことは、できる人にプランを話して「一緒にやろう」と声をかける
(3) どんな人たちを顧客にするかをはっきりさせ、彼らが求める価値を正確につかんで、それを提供する


 もっとも、最初から上記の3つを完全にできることなど難しいだろう。

 それでも、仕事を積み重ねていけば、なかなか商品・サービスが売れなかったり、取引先との関係が長続きしないなど、そのつど起きる失敗から学んでいけば、少しずつわかってくる。

 僕自身、フリーライターとして独立した当初は、ほぼ毎日のようにいろんな雑誌編集部にアポをとっては足を運んだが、やっと最初の仕事にありつけたのは4ヶ月後だった!

 それ以前の会社は倒産し、失業手当が切れるギリギリのところで、やっと最初の雑誌記事の取材・執筆による収入が入ってきたのだ。

 なにしろ未経験の仕事だったので、売り込みだけでも数をこなそうと、短期間に労力を集中してかけたことが最初の仕事につながり、それを起点に売り込んだ先から続々と電話が来て、毎月のレギュラーとしてできる仕事が決まり、すぐに食えるようになった。

 これまで会社に雇われて仕事をしてきた人が自営業を始めれば、会社では許されなかった自分のやり方で商品開発ができるかもしれない。

 あるいは、まだ一度もまともに働いたことが無い人でも、自分の趣味や履歴を活かして、それまでになかった職種を生み出せるかもしれない。
 元手0円で始められるビジネスは山ほどあるし、無資格でやれる仕事も少なくない。

 冒頭の「8つの仕事」の全部ができなくても構わないので、とりあえず、自分が誰に言われなくても思わず夢中になって時間やお金、労力を払ってきたものをはっきりさせてみてほしい。

 自分の部屋を見渡せば、それは一目瞭然のはずだ。
 小さい頃から7どんなものに金を使ってきたのか、どんなものに時間を忘れて取り組んできたのか。

 それは僕にとっては音楽と文章執筆だったので、まず文章執筆を仕事にした。
 それが仕事になる前は、ただの趣味でしかなかった。

 どんな人にも、金や時間、労力をかけてきたものがあるはず。
 それを決して自分の過去を過小評価しないでほしい。
 それが、ひきこもり体験や、精神科通院歴であったとしても。

 むしろ、そうしたデメリットに見える履歴を、自分にしかできない能力・価値として育ててくれるのが、自営業なんだ。
 自分の履歴が他の誰かにとって価値を持つことがわかれば、自分にしかできない仕事は誰でも作れる。

 …というわけで、自営業に関心をもっている以下のような方向けに、自営業支援サービスを始めることにした。

●自営業者としてほぼ毎日1人で働きたい人(職種やビジネスモデルを知りたい人)
●会社に雇われることが難しく、自分の履歴を活かした仕事を作り出したい人
●すでに自営業を始めたものの、なかなか食えず、行き詰まりを打開して食えるようになりたい人
●障がいなどのハンデがあってもできる仕事を作り出したいNPOや社会福祉法人など


 上記の方を対象に、「自営業を始めたい方へ ~会社に雇われない働き方の相談に応じます!」というオンライン・サービスを始める。

 これは、期間限定のサービス。予告なく終了する場合も。
 関心のある方は、今すぐリンク先(青色表示)へ。
(※8月末日まで10%割引アリ)


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■洋楽の歌詞を、和訳して聞いてみよう! ~J-POPも、自分と社会の関わりを歌えるはず


 まずは、下記の歌を聞いてみてほしい。
 『I've Never Been To Me 』(邦題:愛はかげろうのように)。



 「女が自由を求めても、孤独になるだけよ」
 「子育てや配偶者とのささやかな日常の関係にこそ幸せはあるの」
 「他の人が知らないような華やかな世界も知ったけれど、今の孤独な私には自分の望むものがわからないのよ」

 シャーリーンの唯一のヒットソングなのだが、いくつかある日本語訳では岩崎宏美さんの歌が一番、原曲のメッセージに近いだろう。
 訳詩を手がけたのは、天才作詞家・山川啓介さんだ。



 「子育ての大変さ」「夫とうまくやること」といったあふれた日常を愛そうという保守的なメッセージにも映る。

 だが、原曲の訳詩にある「女が見てはいけないものを見てしまった」というフレーズと、タイトルにある「私はもう戻れないところにいる」というフレーズが響き合って示しているのは、女性として生きることの難しさだ。

 そこで、次の曲を聴いてみよう。
 グロリア・ゲイナーの大ヒット曲『I will survive』(邦題:恋のサバイバル)だ。



 自分を愛や暴力で支配しようとしていた「ダメ男に」に対してきっぱりと決別し、別れを突きつけ、追い払う女性の歌だ。

 この2つの歌は、共に「男社会での生きずらさ」を表現している。

 『愛はかげろうのように』は、出産・子育て・結婚・男との生活をしないことで責められる女性たちの存在を浮き彫りにし、『恋のサバイバル」は、DV・共依存から脱却して「ひとりの男」に縛られなくても生きられるし、自分を愛してくれる人だっているという気づきを与える。

 この2つの歌に加え、ジャニス・イアンの『At seventeen』(邦題:17歳の頃)も「美人でないために恋人に選ばれない痛み」を歌っている。



 アメリカ人アーチストは、個人的な痛みが社会的な痛みである構図を上手に歌に込める。
 自分と社会との関係に気づき、自分と社会が「地続き」であることに敏感だ。

 日本でそうした歌作りをしているのは、中島みゆきさん、さだまさしさん、ユーミンさん、岡林信康さん、忌野清志郎さんあたりか。

 J-POPは、音の部分ではかなり洗練されてきたと思うけど、歌詞の部分ではまだまだ伸びしろがあると思う。
 しかし、音楽ディレクターが「歌詞の編集」までできるかどうかは未知数だ。

 そこで、歌詞の編集サービス(作詞支援)という新事業を始めてみた。

 その人にしか書けない歌詞はあると思うし、それをアーチストから上手に引き出してこれまでにない歌を誕生させるのが本来の編集の仕事だが、レコード会社には既にその能力を失っているのかもしれない。

 出版業界もそうだが、著作権ビジネスの資産は、出版権、著作権者との関係、社員編集者のスキルの3つしかない。

 編集者が自分のディレクションの能力を向上させなければ、新人の才能を開花させるのも難しいし、ベテランに長く活躍してもらうために時代に見合った作品制作を促すこともできなくなる。

 作品が商品として成立する際には、アーチストとディレクターの二人三脚が必要になる。
 セルフ・プロデュースのインディーズがやたら増えている昨今だからこそ、前述した3曲のように深い作品世界を作り出す編集スキルが必要になってくるように思う。


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■15歳で文化を仕分けされる日本人 ~「社会的包摂」の意味がわからないインテリさん


 僕の知る限り、かなり優れたインテリで、インテリからほど遠いヤンキーや風俗経営者、右翼などの人々を含む多様な人脈を持ち、さまざまな声を等価として社会の全体像を示している人は、宮台真司さんに代表される「ごく一部の文化人」にしかいない。

 インテリさんの多くは、「高学歴インテリ文化」から見下ろす形で「低学歴ヤンキー文化」を社会問題として観る構えを疑わない。

 だから、国連大学や東京ウィメンズプラザ、東京大学など、「高学歴インテリ文化」一色で価値基準が染まってる場所で行われるイベントやセミナーが、ものすごく偏った価値観で運営されてることに無自覚だし、似たような属性の観客もまるで先生の話をよく聞く小学生みたいにそのイベントのゲストの話を鵜呑みにしかねない。

 そういう気持ち悪さにピンと来ないまま、延々と偏った社会観を持ち続ける人たちがいることは、そのこと自体が差別と偏見を助長する仕組みになってしまう。
 これは、社会問題を自ら作り出しているのと同じ構図だ。

 彼らが「低学歴ヤンキー文化」しか得られなかった当事者たちの境遇・環境に関心を持つならば、15歳で受験偏差値によって文化を分断された人たちの痛みにも気づくはずだ。

 「かわいそう」と見下ろす相手をその境遇に置いたのは、「自分さえ勉強して高所得が実現できれば、勉強できなくて低所得になってしまう子のことまでは考えたくないし、自分には関係ない」という構えで生きてきたからじゃないか?

 そういう育てられ方をした子が、やがて親になり、自分の子にも「低学歴ヤンキー文化」に対する偏見と差別を継承して行くんじゃないか?

 やれ「風俗は危険」だの、「やくざは嫌い」だの、「勉強の努力をしない人が悪い」だの、勝手に物申すのは結構だけど、そうした構えがソーシャルインクルージョン(社会的包摂)とはまるで対極にある構えだということぐらいは学んでおいてほしい。

 風俗を危険な場所にしたり、やくざを必要としたり、勉強したくてもできない家庭を作ったのは、僕らであり、きみかもしれないのだから。

karigazo.jpg

(※本文と画像は関係ありません。ちなみに、このリンクから借用しますた)


 しかし、こういう主張を正面切ってすれば、「良識派」を気取る人たちから眉をひそめられる。
 彼らは、勉強できない人を「努力しない人」として切り捨てているからだ。

 親の所得の高さが子どもの学歴の高さと比例している今日では、貧しい家の子どもがどんなに努力しても、幼い頃から莫大な教育投資を受けられた「お金持ちの家の子」との学力格差が歴然としてあり、とても敵わない

 中流資産以上の家庭の子なら、東大や早・慶・上智あたりを平気で目指すこともできるだろう。

 だが、生活保護を受給している家庭や養護施設、シングルペアレントや下流資産層の家庭で育った子が同じような学歴を望んでも、その学力を身につけられる環境は得られず、相対的に埋められない学力格差が出てくる。

 もちろん、一部の高学歴の大学生は、途上国の貧しい子たちを救う支援活動に関心を持ったりする。

 だが、ハエのたかった子どもをかわいそうに思い、その親に仕事がなくて貧しいことが理解できても、そうした貧困の構図が日本にもあることに思い当たらないばかりか、自分自身が「自分さえ勉強して高所得が実現できれば、勉強できなくて低所得になってしまう子のことまでは考えたくない」という構えで低学歴の同世代の友人たちを蹴落としてきた現実に向き合うことがない。

 「高学歴インテリ文化」を自明のものとして生きる彼らは、「低学歴ヤンキー文化」を知らなくても何も困らないからだ。

 「勉強すれば高所得になれる」(=勉強しなければ低所得になる)という社会の仕組みは、『学問のススメ』を書いた福沢諭吉が100年前にこの国に導いたものだ。 
 しかし、インテリ家庭に育った福沢諭吉には、残念なことに、社会の裾野の広さが見えなかったのだ。

 それが、インテリの限界なんだろう。
 だから、自分たちの仕事が社会に十分に役立っているかのように錯覚して満足する。

 たとえば、ヤクザが今なお存在し続ける一つの理由は、教育と福祉の敗北にある。

 15歳の時点で勉強ができない(嫌いな)子は、高校から「低学歴ヤンキー文化」に貶められる。
 そこには、勉強ができなくても仲間に誘ってくれるコミュニティがある。

 そのコミュニティには、暴力団への入口があるし、覚せい剤のプッシャーの仕事もある。
 勉強ができないだけで居場所がない人を作り出す仕組みは、非合法組織を存続させるのだ。

 もし高校教育や児童福祉がこの国に充実していれば、犯罪に手を染める必要はなくなる。
 少なくとも、暴力団を存続させるだけの若手が育つ土壌がなくなる。

 それは、非合法組織を弱体化させる。
 すると、どうなるか。

 たとえば、ヤクザによって派遣されていた原発作業員は調達できなくなり、原発は稼働できなくなる。
 地上げも難しくなるので、都心にハイテクビルが建つ区画整理も進まず、経済は沈滞化する。

 汚い仕事を企業舎弟(暴力団)にやらせていた政治家や官僚、大手広告代理店やゼネコンなどの大企業は、ビジネスが立ち行かなくなり、既得権益は崩れてしまう。

 あえて「うがった見方」をするなら、低学歴ヤンキー文化に一定の人数を貶めることによって、暴力団は若手人材をキープし、既得権益たちはその地盤を固めているんだろう。

 だから、「低学歴ヤンキー文化」に関心を持つ作法をことさら推奨するようなことはせず、「高学歴インテリ文化」の中でぬくぬくと既得権益的発想のままで生きられる仕組みを温存しようとするのかもしれない。

 いずれにせよ、社会全体を見渡せば、15歳で学歴によって文化を分断する仕組みは、勝ち組を延々と勝ち組にする仕組みであり、同時に負け組を延々と負け組にする仕組みである。

 そこで、フィリピンの青年の話をしよう。

 エフレンは、貧しい家庭に生まれた。
 治安が悪く、ギャングやストリートチルドレンであふれていたスラムで、周りには貧困からギャングになる幼馴染や友達がたくさんいた。

 その仲間にも誘われたこともあったが、何とか学校だけは行かせてもらっていたエフレンは「いつかはこの暮らしから抜け出す」という思いで日々勉強に明け暮れていた。

 仲間にならないエフレンをギャング達は目の敵にし、殴る蹴るの暴力を執拗に振るった。
 エフレンは、「どうしてこんな思いしなきゃならないんだ」と深い悲しみと怒りに燃え、「ギャングに復讐したい。ギャングのいない世界を作ろう!」と思い立った。

 そして、16歳の時にスラムの子を貧困から救う慈善団体DTC(ダイナミックティーンカンパニー)を設立した。

 友人に声をかけ教科書やノートをかき集めボロボロの手押し車でスラムに運び、「勉強しよう! 読み書きや算数教えるよ!」と歩き回った。

 しかし、元々学校に行っていない子どもたちは、勉強への意識が低い。興味を持ってくれない。
 そこで、問題に正解した時にお菓子などをあげた。

 すると、貧しい子どもたちのアイ大で「お菓子をくれる」と評判になり、参加する子どもが増え続け、最初はお菓子目当てだった子供たちも次第に学ぶことの楽しさに気付いていった。

 現在も手押し車の授業は続けられており、エフレンを支えるスタッフは100名。
 手押し車も70台までに増えているという。

 この活動は、フィリピン国内にとどまらず、ケニア・インドネシアの貧困地域で手押し車の授業を行っている。
 授業を始めて12年目の2009年、エフレンはCNNが選出する人道的な活動家に与えられる「CNNヒーローズ」を受賞した。

 幼稚園から大学まで同じ系列の私立の通う子どもたちの多くは、「高学歴インテリ文化」の中で純粋培養される。
 エフレンのように、学ぶことによって非合法組織へ入ることを避けられる人生を作り出すような動機は生まれない。

 しかし、自分の幸せが、他の多くの負け組によって維持されていることに思いをはせるならば、そして社会悪を作り出しているのが自分自身だと気づくならば、「低学歴ヤンキー文化」も「高学歴インテリ文化」と等価であることを知る必要があるだろう。

 文化によって価値基準は異なるが、その価値の多様性を受け入れる器を社会の中に作り出していく構えがなければ、いつまでも「生き地獄」を生きる人々は存在し続け、犯罪や自殺、精神病や差別などはなくならないだろう。
 
 しかし、社会変革の動機を持つ人は、この社会に無数にいる。
 「社会の仕組みを変えなければ、生きずらい」と気づいた人から、ソーシャルイノベーションへの関心が高まるはずだ。

 学校に通っていたエフレンが、学校に通えない子らにお菓子を与えたように、この社会の仕組みは、変革を望む当事者のニーズに基づいてこそ変えられるのだ。

 この社会の生きずらさを感じ、社会の仕組みを変えたいと望む当事者たちは、既に声を上げている。

 職場環境の改善を求めるセックスワーカー、児童相談所が機能してないからこそ自ら避難したのに不良扱いされる家出人、犯罪予備軍のように語られる「住所不定・無職」のニート&ホームレスなど、さまざまなマイノリティ当事者の声に向き合ってほしい。

 彼らは、必ずしも既存の行政サービスや法制度に満足していないし、「政治次第で自分の不幸が終わる」などという悠長な夢を見ていられるほどの余裕はない。

 既存の価値基準を傘に来て発言力をもつ有名人や学者、政治家や役人など以上に、彼らには当事者固有の価値がある。

 僕はそうした当事者たちが、既得権益的な価値基準を持つ人の前で萎縮しなければならない空気をおかしいと思うし、声を上げたくても、やたらと声の大きい「高学歴インテリ文化」の人たちの機嫌をとりながら発言しなければならないことを、とてもせつなく思う。

 虐げられてきた者が、虐げた者に対して、対等に振る舞うことができない社会は、生きやすいか?

 たとえば、セックスのように普遍的な喜びを提供できるプロの技術をもったセックスワーカーが、多くの人々から賞賛されない社会は、未熟なのだ。
 社会の成熟とは、多くの人が本質を見極ることができ、社会悪を取り除いたところにある高い価値を発見することにある。

 現代人が成長するには、既得権益的な常識にとらわれず、当事者の価値を知ることだ。
 セックスワークの真実が知りたければ、セックスワーカー当事者の声に耳を傾けることだ。

 ところが、現実は違う。

 「高学歴インテリ文化」は、当事者固有の価値よりマスイメージによる常識を妄信し、当事者に発言権を認めずにいる。
 常識を疑わなくても、彼らは何も困らないからだ。
 常識が妄信に基づいたウソであっても、いつまでも常識を妄信している方が楽だからだ。

 セックスワークについての社会的なコンセンサスを得るために、セックスワーカー自身がイベントやメディアで発言する機会は増えてはいる。

 だが、長い間、ずっと虐げられてきた側が怒りや不安を封印して丁寧に説明を続けるという作法は、屈辱的かつ隷属的で、そうしなければ社会的コンセンサスにたどりつけないとしたら、とてもせつない。

 それは、たとえば性虐待した親を殺すしかなかった人が、裁判で事の次第を第三者に詳しく説明する光景に似ている。

 理解したい気持ちのない人に、理解を求めるつらさ。

 そこにある自尊心の問題の大きさに気づく時、僕はソーシャルデザインやソーシャルビジネスの語り部自体が、あるいはその担い手である社会起業家の仕事自体が、まだまだ途上段階でしかないことを思い知る。

 社会の仕組みが悪いために虐げられてきた者たちのニーズに基づかないアクションは、どんなにマスメディアで持ち上げられようとも、どんなに世間での評判が良かろうとも、僕は信じられない。

 人生、何をやっても、やらなくても、自由だ。
 でも、その人生、誰よりも自分自身に対して誇れるものなのかい?


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■売春(セックスワーク)の何がいけないの? ~教えて、インテリさん!



 上記のツィートをした。
 僕が以外の人が風俗や売春について「悪」と感じてることを単純に尋ねたものだ。

 すると、以下のようなご指摘をいただいた。

「本人が希望してやっているならともかく、他に選択肢がなく仕方なくやるのならお勧めできません。
 性感染症のリスクも高まる上、性感染で肝炎ウィルスなどに感染すると死亡リスクも高くなります」


 ということは、性感染症を自衛できれば、売春を仕事にしてもOK、ということになる。

 そして、当事者であるセックスワーカーには、もちろん自分の体を守るために性病の知識を学んだり、定期検査に行ったり、講習会を開催して学び合う人たちもいる。
 すでにセックスワーカーの当事者たちを中心とした活動団体Swashもあり、90年代から活動を続けている。

 仕事につきまとうリスクを回避するのは、風俗も含めてどんな仕事でも必要なこと。 
 だからこそ、そのへんの会社だって年に1回は健康診断を受けたり、メンタルヘルスの専門家を顧問につけるなどの企業努力はしているし、それは風俗業界でも個人売春でも大して変わらない。

 「セックスワークだけが他の職種と比べて特別に心身の病気のリスクを負う」というデータを、少なくとも僕は知らないし、観たことがない(※ご存知の方がいれば、教えてほしい)。

 それどころか、これまで僕が取材や交友関係を通じて会って来たセックスワーカーには、「本人が希望してやっている」という人が圧倒的に多かった。

 もちろん、「世間にバレると面倒なのでセックスワーカーとして名乗れない」という人の中には、仕方なくセックスワークを続けている人もいる可能性は否定しない。

 しかし、仮に仕方なくその人がセックスワークを続けているとしたら、その人に「自分はセックスワークしか働けない」と思い詰めさせている社会の方に問題があるのでは?

 「他の仕事がしたい」とその人が望めば、僕はもちろんその人ができそうな仕事を紹介したり、仕事を作る技術も教えたりしてきたが、だからといって売春や風俗勤務が悪いことを証明したことにはならないだろう。

 むしろ、風俗という仕事が合わない人にとって「べつの仕事」を教えたり、提供できない社会の仕組みに不備がある。

 実際、低学歴・低学力・大借金返済・身寄りなし・国籍なしなどの事情を抱えて生活しなければならない人に、「仕事はいくらでもある」とは言えないし、そうした諸事情の「ハンデ」を持つ人のニーズに十分に応えられる社会インフラがあるだろうか?

 売春や風俗という稼ぎ方を「悪」と指摘したところで、何も変わらないし、誰も幸せにしないのは明白だ。

 そこで、2つめのご指摘を見るとしよう。

「好きでもない数多の男性と性交渉をする。毎日のように。どれほど心身に負担があるか。
 性産業の心身への負荷を軽んじるのは、性産業に従事する人の人権を尊重する態度と言えるでしょうか?
 他の仕事をできるなら、その方がよい。また被虐待児は性産業に喰われやすい」


 好きでないと、どんな仕事でも長くは続けられない。
 風俗でも、その水に合わない子は続けられずに去っていく。

 そこで仕事そのものがストレスフルになっても辞められないとしたら、「私にとって他にできる仕事が社会に無い」という社会の側の問題が露呈する。
 これを当事者の自己責任に帰結するのは、端的にアンフェアだ。

 風俗で働く当事者との付き合いがほとんどない人たちは、ドラマや映画、あるいは昔の慰安婦のようなイメージだけで、現代の風俗を「苦界」のようにとらえて思考停止しかねない。

 まず、知らなければならないことは、どんな仕事も慣れるまでは大変な思いをするってことだ。

 「好きでもない数多の男性と性交渉をする。毎日のように。どれほど心身に負担があるか」という危惧が本当に切実な現実としてあるなら、なぜ「危惧する人」がこれまで問題解決に立ち上がらなかったのか?

 その方がよっぽど問題だろう。

 「性産業の心身への負荷」などと簡単に言うけれど、これも風俗で働く当事者から放たれた言葉でない以上、にわかには信じがたいものだ。

 確かに、風俗嬢のごく一部には、親などからの虐待を経て風俗嬢になった人もいる。

 だが、僕が直接その当事者たちから聞いた範囲では、「家で実の親にレイプされるよりマシ」「風俗ならお金になる」という声が圧倒的に多かった。

 家庭が「生き地獄」の人にとって、風俗勤務は、ストレスどころか、安心の居場所として認知されうるのだ。
 それは同時に、児童福祉や学校教育、地域社会が当事者の10代を救えていないことを証明している。

 しかも、困ったことに「危惧したい人」の多くは、現実を確かめようともしないし、困っているはずの風俗嬢と仲良く付き合いを重ねて現状をつぶさに知ろうともしない。

 たとえば、政情不安で治安が悪く、いつピストルで撃たれたり、略奪されるかわからん途上国では、大使館で働く外交官やNGO、医者たちは「毎日が命がけ」の日々だ。

 それを思う時、風俗だけを特別視して「売春仕事は危険」と繰り返す人は、風俗よりはるかに危険な国で働く人たちにも「危ないから」と声をかけるのだろうか?

 風俗や売春につきまとうリスクや心理的負荷は、ほかのどんな職種にも起こりえることだ。
 なのに、ことさらに風俗勤務が心身へのダメージが大きいかのように誤解してる人は少なくない。

 何がリスクで、何がダメージかは、人によって異なる。
 一流ゼネコンに入ってヤクザと交渉する社員だって、つらいはずだ。

 だから、それぞれの職場でより安全な環境を作ろうと、経営者側もワーカーも努力する。
 「風俗だから危険」なのではなく、職場環境の改善に動かない経営者やワーカーの構えが危険なのでは?
 そして、それは売春や風俗そのものが悪だと裏付けるものではない。

 もちろん、風俗店の収益の一部が暴力団の資金源になっていることは、社会には容認されないだろう。
 ただし、それは風俗に限ったものではない。

 原発作業員の派遣や地上げ、生活保護や失業手当の不正受給など、企業舎弟と仕事をするすべての業界にいえる。
 そうした悪習慣にメスを入れず、風俗だけを特別敵視する論調はフェアじゃない。

 暴力団の資金源は、風俗どころか山ほどある。
 大きな会場でのライブで見かけるダフ屋、祭りで屋台を出すテキ屋など、昔から日本ではヤクザと共存共栄してきた。

 その文化を根絶するつもりがないのに、自分だけきれいな仕事をしていると思ったら大間違いだ。
 都市圏で暮らす人が使う電気を供給している「原発による電力」も、ヤクザなしには生まれない。

 もっとも、暴力団の資金源にならないセックスワークもありうる。

 90年代後半、援助交際の派生的なものとして「インディーズ風俗」というものがあった。
 相手と付き合う中で性サービスの顧客とするもので、いわば愛人が複数いるイメージだ。
 嫌な相手は選ばず、嫌なプレイは拒否できる関係を、複数の顧客と築きながら生活していた。

 こうした仕組みは、不特定多数を相手にするのではなく、店舗や「立ちんぼ」のように同じ場所で営業する援助交際でもないため、ヤクザに目をつけられることもなく、安全に働けるスタイルだった。

 「インディーズ風俗」は僕が勝手に命名したものだが、援助交際の周辺を取材していた人なら気づけた存在だろう。
 こうしたスタイルは、売る側が顧客を選ぶために、売る前に信頼関係を築くというプロセスが大事になる。

 このように、現実をちゃんと観た上で、その実感から何かを語るなら、それなりの説得力をもつだろうが、ネット上ではマスイメージだけで現実の人間を語っても平気な人たちが結構いる。

 自分が関心をもって解決したい問題が目の前にあるときに、建設的な議論をしようという構えを取れるかどうかが、コミュニケーションスキルの程度を判断する材料の一つになる。

 「青年の主張」のように一方的に自分の意見を語るだけなら、建設的な議論にはならない。

 自分とは異なる立場、とくに問題に苦しむ当事者の立場から発信されたメッセージの中に、自分が想像すらできなかった痛みや固有の苦しみはないかと探す構えが無ければ、その議論は建設的にはなりにくい。

 それは、性風俗の問題をめぐる議論についても同様だ。

 たとえ現状の風俗が問題の多い職場であろうと、そこへワーカーを導いているのが風俗店だけでなく、社会の仕組み自体にあるという気づきが無ければ、何が「問題」なのかを共有して議論することはできない。

 もし、低学歴でも、身寄りがなくても、日本語が上手に話せなくても、大借金の返済に迫られていても、ふつうの会社で働くのが怖くてたまらなくても、それらの問題を速やかに解決できる仕組みが社会にあれば、風俗で働かざるを得ない人は減るかもしれない。

 でも、それでも「自ら進んで風俗で働きたい人」が減るわけではないし、そのこと自体が職場環境の改善につながるかどうかも微妙だ。

 つまり、既存の風俗のあり方だけを見て、一方的に「やめろ」「なくせ」「政治に働きかけろ」という青年の主張をくり返したところで、現実の職場環境は何も変わらないのだ。

 自分が「より生きやすくなる社会」を作る当事者としての意識が薄い人は、「風俗が悪くて自分は正しい」という一面的な立場からしかものを言わない。

 それをふつう「差別」「偏見」と呼ぶわけだけど、本人にはその自覚がまるで無いのだから、始末におえない。

 どんな職場にも「自分はここでしか働けない」と思い込んでいる人もいれば、そこで働くのを生きがいと感じる人もいる。

 多くの人が性風俗を「特殊な職場」として観る自分の狭小な視点を疑わないままなら、職場環境の改善というユニバールデザイン的な視点でワーカーを見ることも難しくなるだろう。

 そういう愚かな言動をする前に、このリンク記事(PDF)を一度読んでおこう。

 僕の書いた他のブログ記事(※セックスワークに関するもの)も、ぜひ読んでほしいところだ。

 そして、往年の映画『日曜はダメよ』(Never on Sunday)くらいは観ておいてほしい(※下記は9分間ダイジェスト)。



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■力の奪い合いより、愛だろ、愛 ~Rockな社会起業家を知らないあなたへ


 社会的に力のある文化の側に属する人は、自分たちとは異なる文化に対して対等な立場での議論に応じる動機が形成されない。
 応じなくても何も困らないので、対等な関係や親しい関係を築く努力も、自発的にはしない。

 行政は市民からのクレームに即時対応することはないし、政治家は役人からのお願いには耳を貸さないし、社長は末端社員の話を聞く機会を持たないし、有名人は無名の市民と対談することなど望まない。

 東大教授は中卒ヤンキーを公開イベントの対談ゲストに招くことはないし、テレビ局は下請けの番組制作会社の意向を汲んで制作費を増やすことなどしない。

 実際、そうした力関係の差によって交渉そのものができず、隷属的な気分を味わうことが、日本社会ではしばしばある。

 しかし、そうした社会環境に疑問をもって改善に動こうとする人は少なく、それどころか「みんなガマンしてるんだからあなたもガマンしなさい」という同調圧力を強いてくる声がやたら大きい。

 そうなると、虐げられた弱者が力を持つ相手と対等な関係を築くために、銃を取ることもある。
 そのように、少数派の弱者が力関係を変える戦いをしていたのが20世紀までの社会変革だった。

 だが、今はもう21世紀。

 中東のテロリストのように武装集団で政権を奪ったり、アメリカを敵に回すことで仲間を増やすような戦いをしていても、らちがあかないことを、先進国の市民なら誰でも知っている。

 それは民主的な選挙でなんとか解決しようよ、というわけだ。

 もっとも、日本のように少子高齢化が進むと、より若い世代の利害より、人口の多い中高年以上の国民の意見に偏る政策が優先されてしまい、しかもより若い国民の税負担が重くなってしまう。

 つまり、民主主義をそのまま政策に反映させても、力のない少数派のニーズはいつまでも「カヤの外」。
 これでは、政治的な解決が若い世代ほど期待できなくなり、「お前もガマンしろ」と言う国民を増やすことになる。

 もっとも、政治はそもそも「最大多数の最大幸福」を優先するものであって、少数派を大事に考えるのは常に先送りされる問題解決方法である。

 では、力のない少数派が生きやすくなるには、どうすればいいのか?
 政権与党や議会と戦うのではなく、消費者に淡々と訴えるのだ。

 従来の社会の仕組みよりもベターな仕組みを、商品・サービスという形で作り出すことによって、市民=消費者を味方として増やしながら、政治よりも強い正当性を持てばいい。

 それが現代のソーシャルイノベーション(社会変革)であり、その担い手を「社会起業家」という。

 政治やさまざまな既得権益の役割を極力小さくし、行政より優れた問題解決の仕組みを提示し、市民自身のニーズに即した選択肢を提供すればこそ、対等でフェアな関係が実現できるという『imagine』のような夢を見ているのが、社会起業家の本分だ。

 だから、「社会起業家はクレイジーだ」と評されることもある。
 しかし、本当に優秀な社会起業家は、それができると信じているし、やってのけてしまう。

 社会起業家は、かくもRockなのだ。

 そう考えれば、社会起業家が安易に時の政府に近づいたりしない理由もピンと来るだろうし、政治権力や大企業などの既得権益にべったり張り付いて仕事をしている大手広告代理店がソーシャルイノベーションなど志向してないことも理解できるだろう。

 既に世界中に優秀な社会起業家が誕生し、活躍している。

 イスラエルとパレスチナで戦闘エリアを縮小させて国民の平和と安定を提供している「Peaceworks」という社会的企業もあれば、貧しさのために満足な教育を受けられない子どもたちに図書館などの教育インフラを提供している「Room to read」というNGOもある。

 日本にも優れた社会起業家が続々と増えているが、昨今では社会起業家を自称しながら「社会を変える」ということがどういうことなのかがわかってない団体も増えてきた。

 本物の社会起業家は、既得権益を脅かす。
 無力な少数派を虐げる既得権者の巨大な支配力を、小さくても確かな愛で溶かしてしまうからだ。

 僕は、ジョン・レノンの『imagine』を地で行く社会起業家に希望を感じる。
 知らない人は、本を読んだり、ググッたりして、彼らの存在に気づいてほしい。



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