人は、その人にとって必要十分以上の過剰な資産・時間・体力を持て余すと、精神的におかしくなりがちだ。
現代日本のような成熟社会では、生きるのに必要なインフラが整って余りあるモノがあふれているために、自分が何によって生かされているかを考える動機付けを与えない。
だから、目先の楽しみを享受することが当たり前になり、その当たり前が奪われることが最優先に考えるべき危機であるかのように錯覚する人も出てくる。
もちろん、QOL(人生の質)の向上は大事だが、それを持続可能にさせる仕組みが、自分以外の誰かの温情(支配欲求?)によってかろうじて支えられているとしたら、その「豊かな暮らし」の内実は砂上の楼閣だ。
しかし、既にそうした危うい生活を支えているものへの関心を失っていたり、観たくない構えをとることに正当性を感じてしまっている人にとって、自分の生活がペットと大して変わらないことを認めることなど難しい。
彼らにとって、現実と向き合うことは、苦痛でしかないのかもしれない。
だから、その人の問題は知らず知らずのうちに年月の経過と共に悪化していき、取り返しのつかない事態になる頃には、手の施しようがないほどに問題が多様に複雑化し、こじれてしまっている。
その先にあるのが、自殺であり、犯罪であり、病死なのだろう。
こうした社会や時代のありようと自分の関係を考えることは、生きずらい社会環境を変える上で必要なことだ。
しかし、問題をこじらせた当事者たちと向き合うはずの自称「支援者」たちが、自分自身の問題と当事者の問題を切り離し、同時代性を分かち合う発想にならないのは、なぜなのか?
たぶん、困ってる当事者としての「痛さ」を分かち合いたくないから、なのかもしれない。
世間体を守れるだけの余裕や自意識、生活環境が、自分の「痛さ」を表出してはいけないと思わせているのかもしれない。
その「良識的」な構え自体が、社会に閉塞感を与える「縛り合い」を市民の間に作っているとしたら、社会問題を作り出しているのと同じだろう。
そんな社会に向き合えば、いろいろストレスフルなことが重なって、本当にこの国を出たくもなる。
だが、「あの友人の死以上に不幸なことはめったに起こらない」と思い直して粛々と仕事をする。
良識を鵜呑みにして自分の仕事を省みない人たちによって、僕の友人は「良い子」のまま亡くなった。
友人は、精神医療のお世話にもなっていたし、福祉職の配慮で生活保護も受給していたし、義務教育だってまともに受けていた。
良識どおりに医療・福祉・教育の「プロの仕事」の恩恵を受けていても、処方薬のオーバードーズを繰り返し、ある朝、冷たくなって発見された。
担当医やソーシャルワーカー、恩師は、今も「自分は十分な仕事をした」と思っていることだろう。
患者や相談者、生徒と付き合う時間も関係の内実も限定的でいい「教科書どおりの仕事ぶり」でも、彼らは自分の生活が困ることが無い。
だから、今後も仕事に対する根本的な内省を自発的にすることもないはずだ。
僕は、友人として何もできなかった自分の仕事ぶりや付き合い方を省みるのに、長い年月がかかった。
そして、良識派を気取る連中のやたらでかい声に負けず、図太く生きてやろうと思った。
人は、社会の良識を鵜呑みにしているだけは生きられない。
良識にひそむ不具合を疑わないまま、良識をゆるがないものとして鵜呑みにすれば、良識派が勝手に決める善悪の基準を自分の頭で考えて検証する習慣も身につかないだろう。
そのようにして、人は既得権益になっていく。
既得権益は、自分の立場をゆるぎないものとしたいがために、善悪の基準を固定化しようとする。
既得権益を持つ人たちから一方的に「悪」だとブランディングされることには、いろいろある。
家出・犯罪・ニート・難民・低学歴・学校中退などなど。
風俗もその一つだ。
もし、あなたが売春する人や買う人だったとして、とても高そうなお召し物の中高年の女性たちがずらりと客席を埋めた会場で、自分の体験を語れるだろうか?
僕のような汚れライターなら、いくらでも「レンタル彼氏」として売った経験や風俗客としての経験を平気で語れるけれど、そんなことはサラリーマンや公務員、学生にとっては「厚顔無恥」らしいので、ムリだよね。
すると、なぜか当事者ではない文化人たちが「代弁者」として、発言の権利を奪い、当事者が座りたかった席を占めてしまう。
そのこと自体が、セックスワークの実態から大きくかけ離れた視座であることを、文化人たちはいっこうに認めないし、座を奪って利益を得ている罪悪感を覚えることも無い。
それどころか、「何が問題なのか」を当事者不在のまま社会にはびこらせてしまう。
つまり、当事者ニーズとは遠い問題提起が都市伝説のように「常識」化し、延々と当事者の口が封じられ、当事者自身が切実に解決したい問題への関心を高めるチャンスが相対的に小さくなってしまうのだ。
こうした「代弁」による当事者固有の価値の矮小化を反省したりはしないのが、世間受けだけは上手な文化人のやり口なので、僕は本当に辟易している。
一部のインテリさんの語る「当事者」は、「私とは関係ない他者」として認知されてるフシがある。
実際、日常生活で友人として付き合ってる間柄に「当事者」がいないインテリさんは珍しくなくて、彼らは「当事者」を自分が信じる文化から見て「枠外の人」として扱い、不思議な距離をとっている。
インテリと当事者が互いに尊重して文化の差異を乗り越えられるのは、両者の間に力関係が働かない場合に限る。
だから、圧倒的に大きい力を持つ文化の側に立つインテリさんは、対等な関係を求めない。
求めなくてもゼンゼン困らない立場にあるからだ。
先日、
東京ウィメンズプラザで行われたイベントも、予想通り、そうした「上から目線」の話を延々と3時間も聞かされるばかりで、とても隷属的な気分を味わった。

居場所のない10代や人身売買、売春に関する女性たちについての報告イベントだったが、観客の過半数を占めていた「裕福なインテリ層と女性たち」にとって日常的には無縁な彼岸の話は、安全に楽しめる教養だ。
たぶん、このイベントは、風俗や人身売買に近寄りたくない女性のために「安全と健康」を教える講座であり、結局は「解決を切実に求める当事者の女性たちとは付き合わないようにしましょう」というメッセージだったんだろう。
実際、社会貢献の関連イベントには、観客に社会問題に切実に困っている当事者がたくさんいたら、怒り出して途中退席が相次いで紛糾しそうなものが少なくない。
そういうことが起こらないのは、社会貢献系のイベントが毒にも薬にもならない内容で、当事者満足度が低いために、社会問題に切実に苦しんでいる当事者が足を運ばないからだ。
このように、社会的包摂をテーマにしながら難しい専門用語や支援団体のがんばりを一方的に聞かせるイベントを平気で開催できてしまう人たちを、僕は
「インテリ村の公開オナニー」と呼んでいる。
インテリにしか通用しない偏狭な作法をふだん採用している現実が、誰でも参加できるイベントでは丸出しになってしまうが、そのことに気づかず、自分たちが(インテリ以外を含む多様な)社会の全体に役立つ何かを提供しているかのように勘違いしている無様な作法を平気で見せているからだ。
東京大学や東京ウィメンズプラザなど、東京には、盗んだバイクで走り出した中卒のブルーワーカーにとっては肩身の狭い空気を強いる公開イベントが山ほどある。
一度足を運んで見るといい。
閉塞感で窒息死しそうになるよ。
こんなイベントに血税や企業からの助成金が使われ、セックスワーカーなど当事者による事業活動が軽んじられている日本の「豊かさ」って何なのだろうね?
社会問題を作り出しているのは、悪人ではない。
右も左もわからない赤ちゃんを悪人に育ててしまう社会の仕組みを疑わず、自分の仕事ぶりを省みない人たちだ。
省みなくても何も困らない人たちだ。
「自分こそが既得権益そのものだ」と自覚できないままでいる人は、自分自身が社会問題を作り出している主体であることにも気づかないし、社会問題を作っている当事者としての責任も感じない。
そして、不当な社会の仕組みも「ガマン」で乗り越えようとし、後続の世代にもガマンを強いる。
社会にはびこる閉塞感の正体は、社会の仕組みに対するガマンと隷属をよしとする既得権益の作法なんだよ。
僕は、そうした社会の仕組みを変えるソーシャルデザインに強い関心を持っているけれど、日本ではソーシャルデザインによる問題解決はタイムレースだ。
政府の無策による急速な人口減で社会を変えられるチャンスが乏しくなれば、この国を捨てて外国で暮らしたいと思う。
それほどまでに、この国には見えない危機が迫っているように感じられてならない。
僕は、平和ボケの地球市民を命がけで守ろうとする「宇宙海賊キャプテン・ハーロック」の悲哀を思う。
社会を変える当事者として振る舞わず、自分個人の豊かさで満足していられるところに、「絆」なんてあるのだろうか?
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