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■苦しんできた経験は、当事者固有の価値 ~「2人会」を作って経験を商品化し、収入UP!


 学校や職場、私生活、ネットライフの中で、あなたはさまざまな「社会的弱者」と呼ばれる人たちと出会っている。
 たとえば、以下のような人たちだ。

●ひきこもりやニートの暮らしから自力で抜け出せず、精神科の買わせた薬でへろへろになってる人
●生活保護を受給しても、受給額が上がらず、商品単価が高くなってるため、ほとほと困ってる人
●ネットに出没しているのに、リアルでは付き合っている人間関係がほとんどなく、孤立してる人
●障がいを持ってるのに満足な支援が受けられず、自殺や犯罪まで考えてしまうことが頻繁にある人

 人は、暗い話に進んで近寄ろうとはしない。
 気分が滅入るからだ。

 しかし、困ってない人が、困ってる人のことを考えず、解決行動をとらなければ、社会には貧富の格差は広がり、貧困で苦しむ人たちが増える。
 それは、自殺や犯罪を増やすことになり、その解決コストとして税金がさらに支出されることになる。

 つまり、切実に困ってる人を無関心のまま放置し、「誰かが上手くやってくれれば」という理屈で納得したところで、「困ってない人」も増税で自分の首を締め上げることになるのだ。

 これは、ベーシックインカムを導入すれば解決できるという話ではないし、ベーシックインカムの導入が国会で議決される見込みはない。
 かといって、「生活保護の受給額を上げればいい」というのもウソだ。

 どれだけ受給額を上げようとも、とりあえずメシが食えて屋根がある程度を「最低限度の生活」と官僚や政治家が認識しているうちは、額面の底上げはまともに議論されない。

 それどころか、商品やサービスの単価が上がるのに比例して受給額も上がるようにしてしまうと、年金や健康保険などの他の支出もその基準に合わせることになるため、それらの大きな支出をよしとするだけの歳入を作る必要が出てくる。

 その歳入を作れるだけの高度な政治力と知恵を持っている人材が、日本の政治家にいるなら、1000兆円という借金(国債)と増税で歳出の半分を賄うというバカなことを続けたりはしない。

 そう遠くない将来には、血相を変えて歳出の大幅カットを断行することになる。
 そうなれば、生活保護の受給額は、増やせるどころか、だましだまし減らしていかざるを得ない。

 そう考えれば、生活保護はそもそもセーフティネットでも何でもないのだ。

 むしろ、既に受給している人はもちろん、月収16万円以下で生活している人は、雇われている勤務先からの収入以外に、収入を得られる(あるいは生活費を激減できる)仕組みを作り出す必要に迫られていると言えるだろう。

 つまり、生活困窮者も、その不安を十分に理解している人も、貧困化を防ぐという1つの目的を分かち合って、助け合う仕組みを作り出さないと、日本人は政府の失策によって互いに孤立し、共倒れを強いられてしまいかねない。

 では、どうする?
 民間で、できることから始めるしかないのよね。
(※長文になるので、短文でサクッと読みたい方はコチラへ)


★自分の仕事の価値を向上させるために、「社会的弱者」の声を聞こう!

 困ってない人が、自殺や犯罪の上昇による増税で自分の首を絞めることのないようにするために、また、自分自身が「社会的弱者」に転落しても安心できるようにするには、どうすればいいのか?

 困っている人のことを考え、「共に貧困化を防ぐ」という1つの目的を分かち合って、無理なく助け合える仕組みを作り出すことだ。

 それにはまず、自分の仕事の中身を検証することだ。

 たとえば、僕は最近、糖尿病で通院を始めたが、病院で受ける栄養指導の方の仕事に大いに落胆させられてる。

 「繊維から先に食べてください」とか「1日のカロリー摂取は」という話は、既に図書館で糖尿病の本を借りてきているので、1時間の講義を何度も聞かなくても全部知っている。

 1年前までその通りの食生活を実践していたのだが、1年前から実家で認知症の初期症状が出始めた母親が、こってりとした食材ばかりを、しかも品目もほぼ同じまま大量購入し、食わせようとするのだ。

 だから、それを拒み、自分で食材を購入すれば、知らない間に冷蔵庫から捨てられてしまうし、同じ食事をとらないと怒り出すか「なんでも私が悪いのね」と被害妄想で落ち込んでしまう。

 こうなると、母親の寝ている夜中にそっと自分で食事を作るか、外食するなどの工夫が必要になる。

 母親はまだ深夜徘徊や認知症ゆえの窃盗を働くようなことはしておらず、家族やよそさまに迷惑をかけてるわけでもないので、介護施設への通所や入所をさせるほどではない。

 だから、周囲の家族は、なんとか母親の機嫌をとりながら、自分で自分の食生活に気をつける他にないのだ。

 なのに、栄養指導をする方は、その人が学校で教わった正論をそのまま患者に伝えるだけで、自分の職務が患者を満足させていると勘違いしている。
 だから、平気で「それは大変ですね。でも、栄養を考えないと病気は…」と言って話を終わらせようとする。

 専門分野の知識や経験、資格があれば、その病院から給与をもらえて、自分の生活だけは保たれるだろう。
 しかし、それだけでは、消費者である患者の苦しみは取り除けない。
 客からお金をもらう以上、客の抱える問題に対して客が満足する解決策を提供できなければ、プロとして失格だ。

 そういう「プロ失格」を感じる職種は、医者や看護師、栄養士、薬剤師、PSW、役所の福祉課職員、学校教師など、国家資格を得て就職した人に多い。
 
 医療・福祉・教育という国税が投入されている分野の職種ほど、目の前の患者や相談者、学生から金をもらって自分が生きていられることに鈍感なのだ。

 彼らの職種の安定とは反比例する形で「客」の問題がこじれて苦しみが増していっても、そのこと自体が彼らの存在意義を高めてしまうのだから、これは社会の中に不幸を温存するマッチポップの仕組みになっていると言わざるを得ない。

 それでも、その構図を客観視できて、自分の仕事振りのダメさ(=顧客満足度の低さ)に気づいた人たちから、自分の仕事振りを本気で改める動きが生まれている。

 福祉作業所で働く障がい者の工賃がいっこうに上がらず、いつまでも貧困のままでいることに耐えられなくなった竹村利道さんは、社会福祉協議会をやめ、40歳で多額な借金をして起業し、「徹底した品質とサービスの追求」によって100人以上の障がい者の雇用を創出した。

 自ら「うつ病」を体験し、薬をつかわずに治した宮島賢也さんは、患者さん自らが症状を学び取り、原因となる生活習慣、考え方、人間関係、食生活等を改めることで病気を治していことをサポートしている。

 このように、自分の仕事のあり方を見直す人たちは、苦しんでいる当事者と深く付き合ったり、自分が当事者になることによって自分自身の仕事を抜本的に作り変え、収入を上げるるチャンスにしている。

 つまり、苦しんでる当事者と深く付き合ったり、自分が当事者になることによって、仕事の価値と売上は向上できるのだから、「社会的弱者」と呼ばれる人と向き合うのは、自分と相手の問題を同時に解決することなのだ。


★「社会的弱者」から当事者固有の価値を拾い出そう!

 人の人生経験は、それがどんなものであろうとも、すべて等価である。
 なのに、「社会的弱者」に転落すると、「それはお前の努力不足」「運の悪いヤツとは付き合いたくない」という具合に見下ろす視線にさらされる。

 実際、ホームレスやニート、ネットカフェ難民、ひきこもりや障がい者などは、一般社会の側から「うちの会社(学校)には来てほしくない」と思われているし、実際に交流が分断されている。

 障がい者は養護学校に通わせられ、卒業すれば、20日間以上通っても月収1万円程度の安い工賃しか得られない福祉作業所で単純作業を毎日延々とやらされる。
 ホームレスに至っては、「炊き出しさえ提供すれば死なずに済む」という程度の支援が、まだ支配的だ。

 そのように、社会的な支援が手薄なのは、医療や福祉、教育の分野で働く人のプロ意識が成熟してないからだ。

 それでも、当事者と深く付き合うことで仕事の価値と売上の向上につながる事例が続出し始めている現状を観るなら、僕らはもっと「社会的弱者」と付き合い、彼らしか経験していない「当事者固有の価値」を掘り起こし、自分の仕事が提供できる解決策と、自分が誰かを誘えば解決できる余地を探る必要があるだろう。

 それはべつに専門職や有資格者だけの課題ではない。
 むしろ、専門知識のあるなしにかかわらず、どんな素人でも学生でもできることだ。

 大阪で女子大生たちが始めたNPO法人homedoorは、釜ヶ崎地区のホームレスと付き合ってきた成果として、「おっちゃんたちは捨ててある自転車を直すのが上手!」というメリットに気づき、ホームレスから抜け出したい人には生活保護の受給手続きをとると共に、生保から自立できるように、放置自転車を直してシェアサイクルとして市民や観光客に有料で貸し出す事業を作って雇い入れた。

 前述の竹村利道さんNPO法人homedoorなどは、社会起業家と呼ばれる。
 これまで解決できなかった社会問題に対して、解決できる新たな仕組みを作り出せたのは、彼らが苦しんでる当事者との付き合いを深め、当事者にとって無理のない仕事の仕方を学んだからだ。

 優れた社会起業家ほど、「社会的弱者」の当事者の声を聞き、当事者しか経験していない固有の価値を掘り起こし、彼らが無理なく収入を得られる手段を発見するのだ。

 もちろん、誰もが優れた社会起業家になれる保証はない。
 しかし、当事者と出会い、付き合いを深め、当事者固有の価値を発掘して、その価値を商品化して、当事者の収益源を生み出すという試み自体は、誰でもできることであり、難しくはない。

 そこで、そのプロセスを説明していこう。


★「面白い経験」や「驚くような経験」を発掘し、その価値をみんなでシェアしよう!

 僕は、雑誌記事の執筆や書籍の編集という仕事を通じて、まったくの素人さんの「社会的弱者」から話を聞き、その話の中からふつうの読者が面白がる(=強い関心を持って読んでくれる)エピソードを抽出し、文章化してきた。

 話す側は、自分が話したいことを話したり、僕の質問によって面白い出来事を思い出しながら答えているうちに、自分の人生が「いかにもフツー」というものではなく、むしろドラマチックな驚きと面白さを持つ価値あるものだと自覚するようになった。

 もちろん、面白さを発掘するための質問術はあるのだが、編集のプロではない人が当事者固有の価値を引き出すには、以下のプロセスをふまえると無理がないだろう。

(1) 無理なく会える範囲にいる自分の知り合いの「社会的弱者」やネット上で関心を抱いた当事者に声をかける
  →自分が見過ごせない旧知の1人を選ぶか、この掲示板で公募し、ブログやtwitterなどで拡散する
  →メールやスカイプでもいいので何度かやりとりをし、相手の何について関心を持っているかを伝える
  →この誘いは、この段階ではあなたのエゴにすぎない。「お願い」の構えを忘れずに

(2) 信頼関係を作れる手ごたえがあれば、その人に「自分史年表」を書いてもらう
  →このページを参考にお互いに自分の年表を作り、できれば各自、自分のブログで発表
  →5W1H(いつ・どこで・誰が・何をして・どういう経緯でどうなった)を具体的に書いてもらえるようお願いする
  →当事者が明かせない固有名詞などは、無理に公開を求めない

(3) 年表を元に興味を持ったことについて「もっと深く知りたい」と当事者に伝え、アポをとる
  →カフェやファミレスなど両者にとって都合の良い場所で、年表にない逸話を掘り下げる機会を増やす
  →話を聞く前にこのページを参考にしておくと、相手を深く知るのに役立つ
  →年表を作れない場合は、当事者の作った詩や当事者の苦しみを撮影した画像や動画でもいい

(4) 「面白い経験」や「驚くような経験」を中心に当事者の経験を文章化し、公開可能な範囲を当事者に尋ねる
  →朗読して30分~1時間に収まる文章量にすると同時に、当事者の嫌がる部分は削除し、時系列で完成原稿にする
  →思わず驚くような不幸な出来事でも、「なぜそこから生き残れたか」を掘り起こし、その内容を価値と考える
  →自分の付き合い方に自信がもてない時は、カウンセリングを勧めるか、友人やこのサイトに相談する

(5) 原稿を台本と考え、あなたが質問し、当事者が答えるトークを有料イベント化する
  →カフェ・ファミレス・公民館・学校などに人を集めてイベントを開催し、定例化で客を増やしていく
  →1回目の手ごたえをふまえ、2回目以後の開催スケジュールを早めに決めて、〆切りと集客目標を設定して動く
  →ヒマな時間が多すぎると落ちやすいので、毎月のスケジュールに他の人と出会う機会や用事を増やす


 たとえば、「20年も生保を受給してますが、何か?」というタイトルでイベントを実施するとする。
 前半は2人の対談、後半は参加者からの質問として、2時間程度で終わる小さなイベントとする。

 集合場所、1000円程度の参加費、参加できる人数、予約・問い合わせ用のメールアドレス、話し手のあなたと当事者の簡単なプロフィールをブログで公開し、その記事のリンクをtwitterやFacebook、LINE、mixiなどで「●月●日●時から■■■で~についてのイベントやるよ。もちろん、当事者が実体験を語るよ」と拡散しておく。

 最初は、たった4人程度の少人数に限定した参加者数で開催してもいい。
 その方がみんなで話しやすいし、当事者も緊張しないで済む。

 それでも1人の参加費を1000円にしておけば、4000円となり、2人の主催者で折半すれば2000円ずつで、その場の飲食代は賄えるだろう。

 それを毎月開催し、予約が増えてくれば毎週開催にしたり、より多くの人が集まれる場所に変えていく。
 1回で20人も集まるようになれば、主催者の2人にはそれぞれ1万円が入ることになる。

 1回で40人なら2万円ずつになり、これが月に4本もあれば、1人あたり8万円の収入を得られる。
 40人が必ず集まる頃には、参加費も2000円に設定できるので、月に2回で8万円、4回なら16万円になる。

 その頃には、地元のコミュニティFMや地方新聞、ローカルテレビ、ブロガー、フリーペーパーなどに取材される機会が増え、それによって市内の小学校・中学校・高校などから1回数万円の講演会をオファーされる可能性が高い。

 中高生でも、親から虐待されて「すぐにでも自殺したい」と考えている子どもは、少なくない。
 とくに、同性愛者の自殺率はヘテロより高いため、地方で理解を得られず孤独に苦しんでる10代も少なくない。

 そうした若い世代にとって、自殺未遂を何度も経験しても生きて話す大人は、自分が得られるかもしれない明日の姿であり、希望の光として勇気付けられる体験を与えてくれる人に映るだろう。
 つまり、今生きていること自体が、当事者が若い世代に提供できる確かな価値なのだ。

 そうしたイベントの開催を続けていく中で、当事者が「私と対談したい人は声をかけて」とブログに書いておけば、イベントで出会った人が新たな「2人会」の主催者になるため、当事者が出られるイベントがどんどん増えていき、その分だけ収入が増えることになる。

 そのように、「2人会」の開催が増えていけば、同じ悩みを持つ人たちに知られやすくなる。
 その中にはお金持ちの家庭もあるので、当事者は彼らを対象に90分ほど話を聞いてあげる個別相談を1回1万円で引き受けることもできるようになる。

 他にも、事前の振込みによるスカイプ相談を事業化することもできるだろうし、そうした活動をふまえて元気になっていった自分の経歴を信用の担保にして自分の本を商業出版できるようにもなるだろう。

 そのように、当事者固有の価値を安売りせず、地道に「2人会」を積み重ねていけば、一人で部屋の中で孤立してにっちもさっちもいかないという絶望の日々から解放されるし、地域の学校や青年会議所、役所の福祉課などから講演依頼も来るかもしれない。

 あるいは、「2人会」で生きる力を取り戻した当事者たちが出会い、「自殺兄弟」というコンビを組んで当事者100%の講演会を全国各地や海外にまで売り込んでいけるかもしれない。

「私は昔、リストカッターだった」
「僕は昔、オーバードーザーだった」
「僕らは、自殺兄弟! 死にそうなヤツは、だいたい友だち。俺らの話を聞いてくれ」

 当事者たちの中には、自分で自分の仕事を作り出して食ってきた起業家も自営業者もたくさんいる。
 「2人会」を経た彼らが集まって「自殺軍団」を作れば、芸能事務所のような会社を自分たちで作って、当事者の価値を高く売るビジネスを始められる。

 「2人会」を経験し、自分たちにとってどんな関わりをされたら人生を面白がれるようになったのかを学んだからだ。
 それが、「2人会」の活動で得られた2人の固有の価値であり、自分の大事な人間が自殺しかねないことに不安を覚える多くの人に希望を与える価値なのだ。

 その価値さえ生み出せれば、全国で自治体の福祉課が開催している自殺対策の講演会や、ゲートキーパーの研修会、大学の福祉・医療の授業などに営業しまくれば、それまで偉そうに話していた精神科医やソーシャルワーカー、教師などに対して「きみたち、基本が間違ってるからね!」とツッコミを入れながら講演ギャラが得られる仕組みも作っていける。

 いずれにせよ、あなたが当事者を深い関わり合いを続ければ、お互いに収入面でも精神面でもプラスになるのだ。

 当事者が副収入を増やしていけば、かつてすごくやりたかった仕事で起業したり、無理なく働ける職場の情報を探すこともできるようになる。


★当事者との「2人会」をあなたも始めてみませんか?

 こうした当事者と2人3脚で開催し、大きく育てていくイベントの活動を、「2人会」と名づけてみよう。
 2人の収入になるのだから、当事者の価値の豊かさをどんどん掘り起こしていくチャンスにもなるし、当事者との信頼関係を確かにしていくチャンスにもなる。

 もちろん、当事者の積年の苦しみをすべて理解することはできないかもしれない。
 それでも、共に人生を楽しむ当事者どうしにはなれる。

 このような活動を継続していくには、時間や労力、費用がかかるため、参加費を有料にする必要がある。

 1000円という最初の値付け(価格設定)は、映画の入場券より安い。
 映画は虚構だが、当事者の背負ってきた苦しみは現実の重さをもっている価値の高いものだ。

 では、誰にとって価値があるのか?
 ひきこもりを例にしたこのブログ記事を参考に、「社会的弱者」自身が負ってきた苦しみのジャンル別に考えてみるといい。

 そして、イベントの開催を決めたら、そうしたターゲットのtwitterアカウントやメールなどから開催の情報を教えてあげよう。

 このように、小規模なミーティングのようなイベントを始め、参加者数を少しずつ増やしていけば、まず当事者自身が自分の生きてきた人生の価値の大きさを次第に実感していける。

 参加希望者が増えていけば、1回の参加費の額面を500円ずつアップしていくこともできるだろうし、そのように広く社会に受け入れられるイベントに育てること自体があなた自身を人間的に成長させるはずだ。

 イベントの開催が重なるたびに次第に顔が明るくなってくる当事者を見るのは、あなたにとっても、イベントの参加者にとっても、胸のすく思いがすることだろう。

 0円で話していいほど、当事者の背負ってきた苦しみは軽くない。
 そして、当事者の価値を掘り起こし、イベントの開催に伴走するあなたの労力も、小さいものではない。

 だからこそ、最初からお金を受け取る必要がある。
 対等な関係だからこそ、収入も折半するの。
 ボランティアでは責任を伴わないけど、お金を受け取るからこそ価値ある仕事をする責任をお互いに負えるの。

 「2人会」を続ける途中で、何度も当事者が自殺未遂を起こしたり、やる気を失ってしまうこともあるだろう。
 それは、当事者のせいじゃない。
 相手を責めるのではなく、自分がまだ相手のことをよく知らず、分かち合う夢の内容がズレていたり、その夢に賭ける情熱が釣り合っていないことに気づこう。

 当事者自身が、2人会の活動の先にどんな未来を作っていきたいのかを望んでくれるのかを、ゆっくりじっくり時間をかけて見守ってほしい。
 そのように相手のペースや境遇、思いに寄り添うことは、相手の尊厳と自由を守るための適切な間合いを学ばせてくれるだろう。

 これまで「支援/被支援」という上下関係を作り、金を当事者や国からもらってきた医療・福祉・教育などの業界の従事者は、当事者固有の価値を完全に無視してきた。

 最近では、自殺対策に関わるNPOの代表理事まで、当事者の価値を尊重せず、自殺対策の成果も出さないまま、講演に呼ばれてギャラをもらいながら話すようになった。

 病院で患者が話したことを、精神科医は本に書いて印税収入を得たり、自治体や学会などの講演で話しては万単位の金を受け取り、テレビに出たり、新聞や雑誌でコメントするなどの副収入まで増やしている。

 彼らは、「個人情報は秘匿する」すると言い訳しながら、当事者固有の価値を自分への収益として独占している。
 彼らは、当事者固有の価値を尊重し、当事者と一緒に講演してギャラを折半し、少しでも当事者の生活を豊かにしようなどとは考えてこなかったし、今も考えていない。

 自分たちの専門分野における知識と経験が、「社会的弱者」の当事者の固有の価値と等価であることを認めたくないからだ。
 要するに、自分たちが社会の中で絶対的に優位な立場であると思い続けたいのだ。
 それが、偏見や差別そのものであるとは理解できないまま、彼らは今日も正論で客を支配しながら稼いでいる。

 だからこそ、名もなく専門知識もなく経験もない「ふつうの人」たちが、前述の大阪で女子大生たちが始めたNPO法人homedoorのように当事者と一緒に収入を得る仕組みを作り出していったら痛快で、面白いじゃないか!

 人口減が進む日本では市場が縮小し、商品単価も税も高くなり、誰もが「社会的弱者」に転落する可能性が高くなる。
 そんな今日、「社会的弱者」の苦しみを他人事にしていれば、いざ自分が彼らと同じ境遇になった時にあなたを誰も救おうとはしないだろう。

 人類が進化し、時代を経るごとに便利で平和で自由で豊かな暮らしになってこれたのは、1人1人が自分の人生の時間を2つのことに使ってきたからだ。
 それは、生命や種の維持に大事だと思うことは守ることと、生き苦しいよのなかの仕組みを変えること。

 この2つが、人の生きてる時間の仕事なんだ。
 僕らには、まだこの社会を変えられる時間がある。

 苦しんできた人が、苦しんできた分だけ、その「当事者固有の価値」が社会で高く評価され、既得権益の専門家たちから奪われたお金や尊厳を取り戻せる。
 それこそが、やり直しのできる社会の姿だ。

 このブログ記事も参考に、「2人会」をあなたも始めてみよう!
 あなたの無理なく会える範囲の当事者・パートナーと出会える掲示板も用意した。
 twitterやFacebook、LINE、mixiなどでこの掲示板へのリンクを添えて公募してみてほしい。

 欧米の精神医療が、入院治療より社会での居場所つくりを進めているように、日本も映画『人生、ここにあり』を見習って、専門知識がなくても誰もができる「関係の構築」から自殺対策を「ふつうの人」の視点で問い直してみよう。



 僕らは、当事者各自があらかじめ持っているスキルややる気、経験を「発見」するところから、それを活かせる仕事を作り出すことができる。
 発見者が当事者の価値に気づけば、その価値を活かせる仕事を作れる人材を探して出会いのチャンスを作る程度はできるはずだ。

 日本では「できて当たり前」のことでも、外国では驚かれるような技術を、日本人なら誰もが持っている。
 折り紙、ラジオ体操、パソコン操作、和食の料理、雑巾つくりなどの基礎的なスキルから、空手、お茶の作法、お裁縫、パソコン自作、左官、マンガ描きなどの各自のスキルまで、いくらでもある。

 そして、世界ではそれすらもできずに、貧しく学歴もなく健康でもない人々が無数にいる。
 彼らにとって、日本人のスキルはまるで魔法だ。

 「2人会」をきっかけに、当事者が自分の価値を認められることで自己評価を上げ、外国で自分より困っている人たちに生きる力を与えられる仕事に就く日を、僕は心待ちにしている。

 なお、上記の記事の感想は、僕のtwitterアカウントをフォローした上でお気軽にお寄せください。



 よろしかったら、他の自殺対策の関連の記事もどうぞ。

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■民間主導の自殺対策を考える(後編) ~あなたも当事者と共に楽しめる仕事を作り出せる


 「民間主導の自殺対策を考える」(前編)で書いたとおり、民間主導の自殺対策は、「死にたい人」に対して何かをさせる(させない)という内閣府の「上から目線」の方針とは異なるものでなければならない。

 それは、以下の4つの方針に変えることだ。

●ココロを治すのではなく、カラダを気持ち良くする
●自殺未遂を経験した当事者の固有の価値を(専門家と対等なものとして)尊重し、収益化する
●専門家ではなく、「ふつうの人」ができる方法を生み出す
●重苦しい発想だけの歴史的作法から、ワクワク楽しい地理的作法へ


 なぜ、そうした方針になるのかを知りたい方は、先にこのリンク記事を読んでおいてほしい。

 ここでは、あくまでも「死にたい人」を取り囲んでいる社会を構成する1人としてのあなたに向けて、「死にたい人」であろうとなかろうと、誰もが共に人生を楽しめるための方法を紹介していく。


★ココロを治すのではなく、カラダを気持ち良くする

 「GKB47」というトンデモな言葉で有名になってしまった「ゲートキーパー」(傾聴役)は、内閣府の自殺対策ではいまだに予算が割かれている。
 しかし、彼らは話を聞いてくれるだけで問題を解決してくれるのに伴走してくれるわけではない。

 「医師を始め、教職員、保健師、看護師、ケアマネージャー、民生委員、児童委員、各種相談窓口担当者など、関連するあらゆる分野の人材」を巻き込んではいるものの、それぞれの専門分野に引き付けた支援に導くしかできないのだ。
 つまり、精神科医がゲートキーパーになれば、「うちの病院に通院すればいい」と利益誘導になる。

 実際、精神科医でなくても、他の専門分野のゲートキーパーでも精神科や心療内科への通院を勧める人が珍しくない。
 ゲートキーパーを増やすことは、事実上、精神病院の「営業マン」を増やすだけ。
 しかし、自殺未遂をくり返す人は、既に内緒で通院しているケースも多いし、そもそも死にたい人が求めているのは、そうした専門知識ではなく、むしろそれでは足りてないことだ。

 足りてないのは、仕事を離れても日常的に気軽に付き合えるパートナーであり、信頼できる安心の関係だ。
 この関係は、死にたい当事者自身で調達することが難しい。

 ところが、重篤な精神病で入院しても、その施設に体育館があったとしても、規則正しい生活習慣を管理によって維持するか、自助グループのような脳と心を疲弊させるミーティングと薬物療法によって休ませるのが関の山。

 だから、シャバに戻っても、体力不足のまま、声をかけやすい仲間もなく、じっと部屋でうなだれているうちに処方薬のオーバードーズ(過剰摂取)を自力では辞められない依存症で頭がフラフラになる暮らしになる。
 そんな暮らしぶりと脳の状態で、どうして自殺未遂が辞められるだろうか?

 そうした現状をよく理解している人たちは、気持ちよくカラダを動かすチャンスを、ともすれば希死念慮(自殺願望)に取り付かれかねない当事者にとって無理のない形で提供している。

 たとえば、大阪・高槻市にある精神障がい者のフットサルのクラブ「ゴッデス高槻」は、新阿武山病院のデイケア室に事務局を置くWEARE(高槻精神障害者スポーツクラブ)では、サッカー好きの病院長と看護師が発足させたものだ。

 好きなスポーツをみんなで楽しめれば、自然と体力が付き、次第に精神的にも安定してくる。
 スポーツは同じ競技をみんなでやるので仲間もできるし、「勝つ」という共通の目的のために話も合うので互いに信頼を高めやすい。

 もちろん、スポーツに限らず、体力が自然と身についてしまう趣味の輪に加わるなら、同様の効果を生むだろう。

 好きなロックバンドのライブに同じ趣味のネットユーザを誘って踊りまくるのもいいだろうし、劇団に参加したり、教会の合唱隊に入ってみたり、自転車で日本縦断のような長旅をしてる人たちと合流してみたり、、楽器が弾けるなら地元のアマチュア楽団に参加して一緒に老人ホームなどの慰問ライブに出るための演奏練習をするのもいい。

 趣味がなかったり、自分の趣味に合わない仲間しかいないなら、市内で定期的にやっている路上清掃のボランティアや、「火の用心」と声を上げて深夜にまちを練り歩く消防団や青年団、町内会に参加してみるのもいい。

 体力を自然に身につけられる機会があれば、精神力は少しずつ後からついてくるからだ。
 生きる力とは、努力や根性といった精神力ではない。
 それを支える体力がなければ、精神力など高まりようがないし、栄養もとらないから、何もできないのだ。

 しかし、そのように、あらかじめ自分の好きな趣味を通じて楽しんでるうちに体力がついてしまうチャンスに恵まれなかったり、過去に自分を勇気付けてくれた大事なものさえわからなくなっている人には、格闘技、とくに空手を勧めてみるといい。

 空手には、実際には相手に攻撃を当てない「寸止め空手」と、実際にキックやパンチを当てる「フルコンタクト空手」があるが、後者の方が脳機能の安定には効果的。

 相手からパンチやキックが飛んでくる。
 これを条件反射的によけられる練習は、自分のカラダの中の防衛本能を目覚めさせる。
 それは、「私は私の命が大事」という感覚をカラダに覚えさせること。

 逆に、相手にキックやパンチで相手を倒そうすることは、その一打一撃が「私はここにいてもいい価値のある人間だ」という尊厳をカラダに覚えさせる練習なのだ。

 空手は、自分が型をちゃんと覚えてなかったり、柔軟体操を満足にしてなかったら、自分が相手の腹に向かって蹴るキックを相手がかわす練習(組み手)の際に、自分の足が上がらずに相手の脚を強打してしまうことがある。
 逆に、相手が未熟であるために、相手のパンチが自分の腹にめり込むこともある。

 そうした経験を積み重ねていくうちに、自分の未熟さを反省し、相手の未熟さを許せるという付き合い方を学んでいける。
 空手は、自分のカラダを大事にする感覚を身につけられると同時に、相手を不当に傷つけずに済む技術なのだ。

 僕は、映画『釣りバカ日誌』のハマちゃんの求婚時の言葉が好きだ。
 ハマちゃんは「僕があなたを幸せにすると約束します」などとは言わず、「僕はあなたを幸せにする自信なんかありません。でも、僕が幸せになる自信はあります」と言った。

 「他人に迷惑をかけちゃいけないんじゃないか」と思いすぎて、誰にも頼れない人は少なからずいる。
 でも、自分にパンチやキックをしてくる相手との付き合いを迷惑だと思わないでいられるなら、相手も迷惑だとは感じないでいてくれることが信じられるだろう。

 空手はケンカではなく、共に自分と相手を受け入れるための技術を向上させるスポーツだ。
 仲間を日頃から大事にできる空手道場が、「自殺志願者も大歓迎」という看板を掲げれば、道場にたくさんいる練習生たちの中から共に生きていける相手は作れる。

 実際、長野に本部がある禅道会はひきこもりやニートなどの若者たちに支持されている。
(※大阪には、ひきこもり・不登校などの若者から支持されているラッキースターボクシングクラブもある)

 東京では、レンタル空手家を名乗っている遠藤一(はじめ)さんが、依頼があれば、ミット持参であなたの望む場所に駆けつけてくれて、キックやパンチを受けてくれる。

 とくに、遠藤さんは病院のデイケアでも空手を出張して教えているので、都内の精神科・心療内科・カウンセリングルームなどに通っている医師や看護婦・PSW・カウンセラーは、遠藤くんのtwitterアカウントレンタル空手家の問い合わせフォームから相談できる。

 精神科であれこれ説教されてクスリを買わされて帰らされるのと、思う存分キックやパンチをして気分爽快になるのと、どちらがカラダが気持ち良くなるかなんて、小学生でもわかることだ。

 身近に心配な人がいるなら、上記の情報だけでもメールで教えてあげたり、一緒に同行してみるといい。
 相手の尊厳を無視して「~させる/~させない」という支配的な構えではなく、共に生きやすい社会を作る仲間として対等な関係を築くつもりなら、誘い方は難しくない。

 自分勝手な用事に相手を巻き込んでいることを自覚しながら、平身低頭にお願いしてみよう。
 「忙しいところホント申し訳ないんだけど、僕1人じゃとてもできないから、なんとか一緒に行ってくれないかなぁ。君が一緒に行ってもらえると、すごく助かるんだけど」と。


★自殺未遂を経験した当事者の固有の価値を(専門家と対等なものとして)尊重し、収益化する

 「自殺対策コンテストを考える」という記事でも書いたが、「危うく死にかけたが、一命を取り留めた」という自殺未遂という経験は、それを経験した人でないとわからないことが多すぎる。

 そこで、一つの事実に気づいてほしい。
 最近は、乗降客数の多い駅にはエレベータがある。
 それを実現したのは、身体に障がいを持つ当事者たちと彼らを支える仲間である。

 専門家ではなく、当事者こそが、解決して欲しいニーズを的確に知っているからだ。
 そうしたことは、『当事者主権』(岩波新書)にくわしい。

 「障がい」があるからこその生活実感や経験、知恵は、当事者にしか知りえない固有の価値だ。
 ところが、自殺対策に関わる「医師を始め、教職員、保健師、看護師、ケアマネージャー、民生委員、児童委員、各種相談窓口担当者など、関連するあらゆる分野の人材」の多くは、死にたい人を「支援対象」や「治療対象」としか見てこなかった。

 支援者と被支援者の関係は、上位に立つ側が座らせられている下位に側を専門知識で支配する上下関係だ。
 いつまでも専門家が弱者を見下ろす構えを自覚できないのか、自分の仕事を客観的に見られない。
 おかげで支援される側は、彼らの自殺対策の社会実験や新薬の人体実験のモルモットのままだ。

 そうしたダメな現状に対して、1歩も2歩も先を行っている有名な活動の一つは、北海道の「べてるの家」だ。

 「べてるの家」の利用者は、自分の病名は自分で勝手につけるし、病状や治癒を判断するのも精神病の当事者自身。
 ここでは、医療や福祉によって判断の主体性を医者に奪われることがないし、独占されることもない。

 それどころか、スタッフには「患者」もいれば、一般市民もいる。
 当たり前のことだ。
 人と人が関わり合って同じ問題の解決に取り組むのに、専門家であるか、そうでないかという分断など意味がないからだ。

 複合的な要因がこんがらがって自殺に追い詰められる人の問題に向き合うには、医学や福祉などの学術研究者や臨床の現場関係者を特権的な立場に置くよりも、多様な生き方や文化を背負ってきたさまざまな人たちがそれぞれに対等な役割として尊敬し合えるコミュニティを作る方が頼もしい。

 その点で「べてるの家」が優れているのは、精神科医から見ればただの「患者」「病人」である人たちが「幻覚妄想大会」と称して自分の症状によって起こった出来事を人前で当事者自身に語らせたことだ。

 精神病であることは、「恥ずかしいこと」ではないし、「みじめなこと」ではない。
 当事者にそう思わせているのは、当事者を取り囲んでる周囲の人たちの方なのだ。

 そこで希望になるのは、当事者の人生を「面白い」と思って素直に爆笑しながら聞いてくれる人たちが少なからずいる現実だ。

 その現実は、専門知識のあるなしによるものの見方や、立場の違いによる市民の分断を軽々と越えさせる。
 同時に、当事者にしか持ちえない固有の価値が社会に広く受け入れられるチャンスになり、当事者が社会の中で生きていける回路と勇気を作り上げる。

 こうしたイベントの模様は、「べてるストア」でネット通販されている。
 日本で最初に当事者たちの生の声を公開するのだから、商品化する価値は十分にある。

 だから、「べてるの家」の利用たちの中には、自分たちにしかかけない歌詞を書いて歌い、CDにして販売しているADHDの当事者もいる。
 まさに「破れたハートを売り物に」にしている。

 当事者1人だけでは自作の商品の販売が難しくても、まわりの人たちがそれぞれの技術を持ち寄ってちょっとずつ手伝えば、できてしまう。
 同様のことは、鬱病の克服と発達障害の発覚を経た人生をさらして歌うシンガーソングライター・堀川ひとみさんや、青森県の三沢駅前で発達障害の息子と一緒に「がんばるめん」というラーメン屋を開店した齋藤聖子さんなどの事例にも言える。

 これに習えば、自殺未遂をくり返してもなんとか生き抜いている当事者の固有の価値も、もっと広く社会に役立てることで当事者の収益になる仕組みを増やしたほうがいい。

 たとえば、これまで自殺対策の講演会といえば、自殺したい人から見れば「これで講演ギャラもらえんの?」と呆れるような内容が少なくない(※このことは「もっと有益な価値を持つ人を呼びたい」と考える講演会の主催者が少なからずいることを示唆している)。

 NPOの代表が「うちはこんなにがんばってます」と調査報告を見せるだけで自称「良識派」の市民しか納得しない薄っぺらい話だったり、「治した」実績を示したい医者が自分の専門領域での話を自慢げにするばかり。

 当事者が長い間ずっと苦しんできた経験は、講演や本、CDなどの商品化によって収益に変えられる当事者の資産だ。
 なのに、診察や相談事業などの職務上で得た他人の経験談を、自分の手柄のように話して金を受け取るのは、「自尊心泥棒」だ。

 「私はこうして助けてあげました」という支援者の自慢話よりも、「私はこうしてなんとか生きてこれた」と告白する当事者の話の方が具体的かつ深いので面白いし、話の途中で聴衆が寝ることもないだろうし、当事者と近い境遇の家族がいる市民は真剣に耳を傾けるだろう。

 講演は今、素人でも容易に売り込める。
 このサイトにある「講演営業代行サイト」に自分で登録するのだ。

 「講演営業代行サイト」の運営会社が、サイトに掲載された講演者(こんな感じ)の話せるテーマを求める講演主催者に売り込んでくれる(※15~30%の手数料は自分が設定した講演ギャラの額面から抜かれる)。



 もちろん、サイト任せにしただけでは、なかなか講演は来ない。
 そこで、自殺対策の関連NPOの出番だ。

 自殺未遂者たちと信頼関係を築いてるなら、その人と一緒に講演をやる「2人会」を企画してみてほしい。

 人前で話すのが苦手な人には、あらかじめ撮影しておいたビデオ上映や音声公開(※会場のスクリーンに画像を表示)、あるいはスカイプによる遠隔での参加も可能な時代だ。
 重度障がい者でも既にやってる
 障がい者の講演を売り込む試みは、既に始まっている。

 自殺者が年間3万人前後なら、自殺未遂からの生還率が9割だとすれば、生き残っている人は30万人ほどいることになり、彼らの今後が気になる家族や友人、職場の同僚、援助職や医療関係者などを講演の聴衆候補として考えれば、300万人以上になる。
 自殺未遂を経験した当事者の講演会を売り出しても、商売として成立する可能性は大きいだろう。

 東京・名古屋・大阪・福岡などの大都市で活動するNPOなら、自殺未遂の当事者と一緒に出演する講演会(2人会)を売り込める先はたくさんある。

 県庁や市役所で自殺対策のイベントを開催する役人に会いに行くこともできるだろうし、昨年度までに地元やその周辺で開催された自殺関連の講演会やイベント、学会など調べ上げ、それらの主催者に「来年から当事者と一緒に出演させてほしい」と売り込み、ギャラの交渉をするといい。

 総合病院、企業の社内研修会、CSRの勉強会、青年会議所や商工会議所の定例会、教職員の研修会、宗教団体のイベントなど、1回で10万円以上の高額なギャラを期待できる売り込み先は、山ほどある。

 「2人会」の試みのように、当事者と支援者が2人で話す講演会なら、講演ギャラは等分してその人の収入にできる。
 市内や県内にたくさんある中学や高校、専門学校や大学・短大に毎年「2人会」の開催を実現するように働きかければ、出演できる当事者の数も増やせるし、彼らの収入も増やせるし、社会に当事者固有の価値の大きさを広めていける。

 出版業界にいる僕自身も、新宿2丁目でウリセンボーイの生活から脱出したかった家出少年の書いた『「人を好きになってはいけない」といわれて』や、有名な精神科医のクリニックに通いながらも自殺未遂が辞められなかった女性が書いた『あなたの診察、録音しました』などの出版の実現に協力してきた。

 彼らは彼ら自身の執筆によって、初版印税で大学受験予備校に入学したり、新しい生活への資金を作ることができた。
 そうした成果に勇気付けられ、僕も、期間限定だが、出版経験ゼロの方向けに商品価値のある原稿や企画に編集して出版できるようにする出版コンサルティングを始めている。

 このようにすれば、当事者の価値の大きさに気づく人が増えていき、自分の人生をどこか「恥ずかしいもの」「無価値なもの」と責めていた当事者も自分の人生が役立つ実感を得られる。
 一人では立ち行かなかった人生に、希望の光がともるのだ。

 専門家の話と同等に、当事者が苦しんだ経験には価値がある。
 いや、専門家よりも、当事者の話のほうが具体的な現状を教えてくれるし、実践的な解決策を教えてくれる。

 そのように社会の常識を塗り変えていくのが、本来の社会貢献だ。
 そして、そういう動きはすぐれた社会起業家によって既に全国各地で始まっている。

 この変化はやがて、当事者が書いた、当事者自身が同じ悩みを持つ富裕層からの相談に応じてあげるスカイプ人生相談、当事者自身が運営するカフェ、当事者が相談料を病院から受け取る経営コンサルなど、さまざまな商品・サービスとして当事者の収入をUPする試みを増やしていくはずだ。

 自殺にまで追い詰められてる当事者は、調査や研究の対象になりたいわけではない。
 ハンデのある自分の今の状態でも、ふつうに生きられるだけの収入と尊厳が保てる仕組みを切望しているんだ、と僕は思う。

 そのニーズに応えられるのは、政治家や内閣府の官僚、専門家などの少数派の特権階級の人たちではない。
 むしろ、企業やNPOなどの民間で働く多数派の「ふつうの人」だ。
 そして、「ふつうの人」がたった1人の当事者と友人になることは、難しいことじゃない。

 社会の多数派を占める人たちにとって無理なくできる活動なら、目に見える成果を短期間に出しやすい。
 どんな職種も誰かの命を救う仕事に進化できるのだ。
 あなたがそれを望むなら。





★専門家ではなく、「ふつうの人」ができる方法を生み出す

 ふつうの人が自分の仕事を通じて、自殺対策につながる活動を毎日できれば、その仕事の社会的価値は向上し、売上UPにもつながる。

 たとえば、家族も友人もなく、たった一人で暮らしている人の中には、家事も仕事もすべて自分だけでやる不便はなんとかガマンできても、話し相手もなく、「自分は誰からも必要とされてない」という孤独をこじらせ、「溶けるように消えたい」とばかりに精神科医が買わせた処方薬をオーバードーズ(大量摂取)してしまう人がいる。

 こうして亡くなる人の中には、「自殺」とカウントされない人もいる。
 だが、自分が誰かから必要とされている実感を得た瞬間から、生き直せる人もいる。

 事実、捨て猫を飼い始めた途端、「この子のために私は生きたい」と力が突然わいてきた人もいる。
 子猫や子犬は、ほうっておけば自分ではメシも食えず、餓死しかねないからだ。

 そこで、ペットを飼うのを勧めるのはどうだろう?
(※諸事情でペット禁止なら、自宅でコメを栽培するのも同様の効果が期待できる)

 大阪には、殺処分を免れた犬・猫と遊びながら里親になれる「保護犬カフェ」という店がある。
 年間で18万頭も動物を殺処分する日本では、里親になるだけで動物と飼い主の両方を救えるチャンスにもなるのだ。

 平成25年の都道府県別の自殺者数(内閣府・警察庁の発表)によると、大阪府では年間1500人以上も自殺者がいる。
 ペットを飼い始めるだけで救われるかもしれない人がそんなに多いのだから、ただ動物の殺処分の解決に目を奪われるのではなく、「孤独な方も一度カフェを訪れてください」と公式サイトに明記しておくだけで、カフェの売上UPにつながるし、里親の命を救うことにもなる。

 犬や猫だけでなく、「人間を含むすべての動物の命を救うカフェ」としての価値へと向上させることによって、命を救われた人間は「保護犬カフェ」の存在を素晴らしいものとしてクチコミやネット上で広報してくれる。
 命を救われた飼い主とワンコは、他の飼い主とも仲間になってますます生きやすくなり、お店の宣伝を広げてくれるだろう。
 このように顧客にアツく支持される店は、繁盛するに決まっている。

 「保護犬カフェ」のスタッフは、いつもカフェの客が里親として適切な人かどうかを確認しているという。
 それだけ人間相手のプロの仕事をしているなら、里親になれることを心底喜んでくれる人の命を救う仕事をしていると自覚した瞬間から、孤独をこじらせている人間向けの集客ノウハウを考え出すはずだ。

 このように、どんな仕事も「命を救う」価値あるものに進化させることができる

 たとえば、地域の本屋さんが「自殺対策強化推進月間」である3月に地元市民から「私を死の淵から救ってくれた本」のタイトルを書店やネット上から推薦してもらい、それらの本を入荷して「自殺抑止に効果のある本 BEST30」として特設の棚に並べれば、売上が上がるだろう。

 本という商品は、深刻だと思っていた問題を速やかに解決できる知恵が詰まったもの。
 本屋さんは、本という商品を通じて、困ってる市民に速やかな解決法を提供するという価値ある仕事。
 速やかに解決できれば、問題をこじらせることがなくなるため、自殺にまで追い詰められることが避けられる。

 地方の本屋さんは、売上が落ち続けている。閉店も多い。
 Amazonや楽天などのオンラインショップの利用者が増えていたり、全国チェーンの大型書店が進出していることも、確かに小さな本屋さんの売上を減らしている理由だろう。

 しかし、最大の理由は、本屋さん自身が地域の市民に対して、「本を通じて市民の問題を解決する価値を提供するという文化」を築き上げなかったことだ。
 本を単なる物体として考え、市民を「金を運んでくる運び屋」のように考え、市民との関係を深めることを怠ってきたからだ。

 1日の大半の時間を使う仕事で、市民のニーズに向き合う経験が少ないままでは、顧客がほしい解決を速やかに提供するのは無理。
 売れる本さえ売れないわけだよ。

 あなたの仕事は、どんな商品・サービスを通じて、市民のどんな問題(苦しみ)を解決しているだろうか?

 たとえば、ライフネット生命には「就業不能保険」という商品がある。
 大きな病気やケガで長期間の入院や在宅療養となったときに、収入を助けるものだ。

 ただし、「うつ病」などの精神障害が原因の場合や、「むちうち症」や「腰痛」などで医学的他覚所見がみられない場合は、 給付金をお支払いできないという。

 生活保護の受給資格がうるさくなりつつある昨今では、精神障がい者になっても等級によっては受給資格を認められないことがある。
 だからこそ民間で生活費だけでも保証できる保険の開発が望まれる。

 給付金を受け取りたい該当者が少なく、給付金が大きい場合、月額の保険料が高くなりすぎて売れる商品になりにくいという事情もあるかもしれない。

 しかし、それなら自殺対策基金を立ち上げて、国内外の企業や富裕層の市民などから寄付を集め、保険会社が給付金を支払えない部分(不足分)を基金から補填する仕組みを作ってもいいはずだ。

 あるいは、雇用されにくい病状の人にも収入手段を調達できるようなNPOと組んで自立を支援し、その収入から給付金の一部として算入するような仕組みも今後、検討されていいはずだ。

 いずれにせよ、「すべての人の命を守り、QOL(人生の質)を高める」という目的をビジネスに加えるだけで、どんな仕事もその価値を向上させることができ、売上UPも後からついてくる。

 それには、当事者の声を聞き、彼らのニーズをきちんと汲み取る必要がある。
 逆に言えば、当事者の声を聞かないと、当事者から猛反発を食らい、儲けたいだけのダメな商品として噂が広がる。

 たとえば、抗がん剤で全身の毛が抜けてしまった人には、外出の際にウィグが必要だ。
 ところが、ウィグは30万円以上もする。
 そこで、静岡県浜松市の美容室ピアでは、1枚5万円という格安で売り出している。
 すぐれた解決策だ。

 ところが、AIU損害保険はアデランスと業務提携し、保険の特約として約30万円のウイッグの購入費を補償すると発表している。
 高いカツラなど当事者は求めていないのだから、これは病人に「保険に入れ」と新たな出費を強いるもので、儲けを最優先する発想だ。

 このように、仕事=ビジネスの価値を「儲けられれば、それ以上は考えない」(=困ってる当事者の声など関心がない)という働き方を社員に強要する経営者こそが、社会の閉塞感を演出し、市民を孤立化させ、自殺へと導いている。
 僕にはそう見えるが、あなたどう思うだろうか?

 人々に生活を続けられる安心感を売るのが保険会社なら、むしろ旅行代理店と組んだほうがいい。
 そのわけは、下記の4番目の方針を読んでもらえれば、理解してもらえるだろう。




★重苦しい発想だけの歴史的作法から、ワクワク楽しい地理的作法へ

 「民間主導の自殺対策を考える」(前編)で書いたように、日本経済は今後、「とんでもない凋落へのカウントダウン」の懸念が強まりつつある。

 では、どうすればいいのか?
 自殺対策を担当する内閣府には、絶対に言えないだろうが、答えはズバリ、移民だ。

 かつては国策として外国への移住が進められた。
 だが、今日では、生きずらい文化や関係作法、貧困などを抱える日本そのものから離れることが、精神衛生上も良いことになり、災害の不安や失業などの苦しみから早めに避難することにもなる。

 実際、医療にも「転地療法」というものがあり、生き苦しくてたまらない人間関係や職場環境から一時的に遠ざかって温泉地や寺、入院施設など静かな場所で療養するだけで、生きる力を取り戻すのに効果的とされている。

 「それなら国内でいいじゃないか」という意見もあるだろうし、それは短期的には一理ある。

 閉鎖的な人間関係で生き苦しい田舎に住み続け、死にたくなってしまっている人には、東京などの都会は不快な過干渉もなく、居心地が良いと感じるだろう。

 実際、東日本大震災で被災し、故郷を失った方々の中には、震災を機に上京した人もいて、ある方は「あんな閉鎖的なまちは元通りになってほしくない」と僕に語った。
 「私は震災が起きて、東京に出てこられて本当に助かった」と。

 連帯保証人が不要の賃貸物件は、全国各地にいっぱいある。
 シェアハウス(ゲストハウス)にレオパレス、UR賃貸などだ。
 今住んでいる自治体では受給の条件がうるさすぎて生活保護の恩恵を受けられない人も、べつのまちに引っ越すだけで恩恵にあずかることができる。

 とくに、ベッドもエアコンもLAN環境も完備しているシェアハウスなら、前家賃以外は引越し代は自分の移動費だけで済むし、「アタリの物件」を見つければ、多様な住人たちとゆるく楽しい助け合いの関係が作れる。

 最近では、シングルマザーのためのシェアハウスや、住民組合を先に作って老若男女が相互扶助の暮らしやすい住環境を実現するコレクティブハウジングの試みが進んでいる。

 逆に、干渉し合うことがない都会の孤独がイヤで田舎の農家に嫁に行く人もいるし、田舎と都会の両方のメリットを得るために郊外に移り住む人もいるし、沖縄などの「島」に移住してしまう人もいる。

 あるいは、岡壇さんの本『生き心地の良い町』を読んで、全国でも極めて自殺率の低い徳島県の海部町(※現在は海陽町)を訪れる旅をしてみるのも面白いかもしれない。

 しかし、そうした長距離の長旅をくり返していても、貯金が減るだけだ。
 いや、移動距離を賄える交通費がそもそもないからこそ、死にたくなってしまうのだろう。

 それをふまえると、国内よりも、とりあえず海外に出るための準備に時間とお金をかける他にない。
 準備とは、とりあえず一度でも海外に滞在し、住み心地や仕事つくりの可能性を検証する旅行をすること。

 その旅費は「2人会」でも作れるかもしれないし、自殺対策に取り組むNPOが自殺未遂の体験記を公募して毎年10人程度の入賞者にツアー商品をプレゼントするといい。

 毎年10人でも10年間で100人もの人を海外へ移住させるチャンスを作ったことになるし、そのチャンスがあるからこそ「今年は落選しても『2人会』を通じて価値の高い体験記を書いて来年こそは海外へ行くぞ!」という気持ちを持てる。
 入賞への意欲が来年まで生きる希望を作れるのだから、そのこと自体が自殺抑止の高い市民活動になる。

 NPOが旅費の一部をクラウドファンディングや共感者からの寄付などで集めて負担すれば、H.I.Sや毎日エデュケーションあたりの旅行代理店は、NPOからの提携の提案に耳を傾けてくれるかもしれない。

 それこそ旅行代理店が格安のツアープランを作成して、保険会社がその費用を賄える保険商品を開発してくれれば、「生きる力を取り戻す」という社会貢献的な価値の高い商品になる。

 僕はかつて、「とりあえずフィジーに一度みんなで行こう!」と呼びかけたことがある。
 僕の多忙や告知の遅さで実現はしなかったが、関心を持ってくれた人はいた。

 実際、フィジーのように国民の多くが「貧困」と呼ばれる国でも笑顔で幸せを感じている国は少なくないし、毎月の生活費が数万円で足りてしまう国も多い。

 途上国でも、日本と同じくらい治安が良い国は少なからずある。
 世界治安危険安全ランキングのガイコツマークのない国なら、まず日本とさほど変わらないとみていいだろう。

 日本のサラリーマンの平均年収は400万円程度だから、それ以下の生活費で暮らせる国は山ほどある。
 そういう国を選べば、日本のようにあくせく働かなくても幸せな笑顔を見せてくれる国に出会うかもしれない。

 旅費や滞在費、現地での仕事が不安なら、狭き門だが、「海外青年協力隊」に応募すれば、諸経費の自己負担がないだけでなく、給与も国から出る。
 40代向けには「海外シニアボランティア」もある。

 いずれにせよ、ほとんどの日本人が想像するほど、海外で暮らすことは難しくない。
 死にそうな人と付き合ってきて、見るに見かねるようになったら、『日本を脱出する本』という本をプレゼントしてあげてほしい。

 日本ほどせかせかと仕事に追われ、「ふつうの人になれ」という同調圧力を強いてくる文化の国は珍しい。
 世界には、仕事も金も家もなくても音楽さえあれば生きていけるという国もあれば、こまかいルールなど誰も気にせずに自由に暮らしてる国もたくさんある。

 日本とはまったく違う生きやすい文化を知らないまま、日本に生まれ育ったからといって苦しいままで1人で死んでいくなんてバカバカしい。

 あなたがそう思えるなら、たった1人でもいいから、死にたい当事者が「日本から避難するためのお金を貯めたい」と希望を感じてくれるように、「2人会」の活動を始めてみてほしい。

 それがどうしてもできないなら、せめて天台宗や真言宗などの伝統的な仏教のお寺や、キリスト教の修道会に当事者と何度も同行し、入信を通じて俗世間と隔絶した施設で静かな生活に入ることを勧めてみよう。

 宗教への入信とは、一般社会で死ぬことと同じ。
 だから、新たな名前を授かり、一生を仏や神への帰依にささげる修行を始めることになる。

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 以上、自殺対策における4つのの方針とその具体的な例を示してきた。

 文化の変わらない同じ場所で暮らし続けていると、自分の人生に失敗や成功を意味づける時に、必ず自分を取り囲む社会が強いてくる風潮を基準にしてしまう。
 すると、生き苦しさは変わらない。

 そのように、歴史的作法だけで生きようとすれば、価値観が多様化し、個人的な趣味・趣向が細分化している今日では、自分らしく振る舞えば振舞うほど生き苦しくなってしまうのだ。

 これは、自分の人生を意味づけること自体に、重苦しい発想にしか導かない危うさがあることを示唆している。
 文化の変わらない同じ社会で長く生きれば生きるほど、「自分の人生や命に価値なんてあるだろうか?」という自問にとらわれ、「難しいこと」は「できないこと」と認知してしまいがちになるからだ。

 だから、日本国内での暮らしを前提とする内閣府でさえ、自殺対策という「難しいこと」を「できないこと」として認知してしまい、成果をあげられない失策に莫大な税金をつぎ込むことをやめられずにいる。

 自分の人生に客観的なかまえをとるばかりで、意味を求めすぎては、人間は生きにくい。
 むしろ、論理的に考えただけでは「わからない」ことでも「面白そう!」と感じた瞬間から条件反射的に没入できる環境へと旅を重ねることで、人は自分の生きやすい場所に近づけるように思う。

 頭を使って難しく考えようとしていては、相手から飛んでくるパンチやキックはよけられない。
 社会が決める「えらい人」の基準を押し付けられていては、自分の価値など高いものだと感じられない。
 特権的な少数派を権威づける社会から出られず、無名の多数派のままでは生き苦しさが増すばかりだ。

 それならいっそ、これまでの社会とはおさらばし、もっと生きやすい「べつの社会」を求めていけばいい。
 これを地理的作法と呼ぼう。

 たとえば、フィジーならみんなが貧乏なので助け合いが当たり前すぎて、給料日には友人たちに笑顔でたかられて一文無しになる。
 みんな屈託のない笑顔で喜んでる。「俺の金なのに」と嘆きたくもなるが、一緒になって笑うしかない。

 先進国は「道理が通る」という幻想をふりまいてるけど、孤立や貧困などで自殺にまで追い詰められてる人にとっては自分の尊厳を守ってくれない社会の理不尽さに対する怒りと無力感でココロがいっぱいだろう。

 逆に、途上国では理不尽な社会が当たり前で、滞在初日から屈託のないの笑顔の人々の前では論理や理屈などまるで通じないことがわかる。
 もう、一緒になってこの理不尽さを「面白がる」しかないのだ。

 そんなフィジーは、国民が幸せを感じているかどうかで調査された「世界幸福度ランキング」で堂々の1位。

 貧しくても、医者が日本の看護婦レベルの知識しかなくても、「面白がって生きてしまう」ことを体現している人間たちがフィジーにはいっぱいいる。
 フィジーでは、べつに「ちゃんとした人」である必要もないし、あなたが何者であるかなど誰も気にしない。
 どんな人も、その人らしく振舞うだけで十分「面白い」し、「面白がられる」のだから。

 この「面白がる」ことこそ、前編で書いたように、内閣府が発表した自殺対策の目的とは異なること、すなわち、「無理なく一緒に生きられるために」(=生きるか死ぬかではなく、共に人生を楽しむために)という目的なのだ。

 自殺対策のように深刻な社会問題の解決は、想像しかしたことがない(=当事者と深く付き合ったことがない)人にとっては、重苦しさばかり募って「難しい」と頭でっかちになって考えてしまう。
 だから、たいした成果を上げられなかったのだ。

 それを真摯に認めるならば、「もっとカンタンに解決できる方法や費用対効果の良い仕組みがあるのでは?」と柔軟に発想する余地が大きいことに気づくべきだろう。

 実際、当事者と一緒に2人でワクワクできる楽しい活動を発想し、「面白い!」「カンタンにできそう」と思えるアイデアから実際に始めていく方が、自殺対策に携わる人を国全体に増やしていけるはずだ。
 そこで、「2人会」のアイデアを、このブログに書いておいた。
 既にそれを読んだ読者の中から、当事者やカウンセラーなどが続々とこの「2人会」の試みを始めてる。

 当事者とあなたが対等な関係を築き、お互いにメリットがある仕組みを作り出すとき、この社会は誰にとっても今よりもっと生きやすいものにに変わる。
 特権階級や専門家を必要としたり、英雄の登場が人々に望まれる社会は、不幸だ。
 社会は、ふつうの人たちによって変えられる。
 
 長々と書いてきたが、民間には内閣府の自殺対策の官民連携の会議の委員たちよりもはるかにすぐれた活動をしている方々がたくさんいる現実を多くの国民に知ってほしかったからだ。

 他にもさらにすぐれた活動をしている民間人は多いが、それは追って本や雑誌などで紹介していく。

 自分たちの仕事の価値を向上させることによって売上UPを目指しながら、社会問題の解決に寄与したいと考える個人・企業・NPO・大学関係者などからの相談には、このサイトから応じている。
 お気軽に問い合わせてほしい。

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 よろしかったら、他の自殺対策の関連の記事もどうぞ。

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■民間主導の自殺対策を考える(前編) ~自殺対策の目的は「減らすこと」か?


 一つ前のブログで予告したとおり、民間で自殺対策を無理なく進めるための具体的な方法論を提案したい。
 でも、方法論を語る前に、自殺対策の目的を明らかにする必要がある。

 内閣府では、「誰も自殺に追い込まれることのない社会の実現」を目指して自殺総合対策大綱(平成24年8月28日閣議決定)を発表している。

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 お題目は立派だが、「平成28年までに自殺死亡率を17年と比べて20%以上減少させる」という数値目標の実現は無理だ。
 理由は、以前のブログ記事を参照されたい。

 年間で1人の自殺者を減らすのに、内閣府は400万円以上もの血税を使っている。
 しかも、対策と成果の因果関係も明らかにされていない。
 あまりにも費用対効果の悪く、成果が曖昧な対策を続ける以上、自殺総合対策大綱の正当性などありえない。

 国は、「自殺対策」という誰も否定できないような言葉を掲げ、国民に歓迎されやすい大風呂敷を広げている。
 でも、よく観てみよう。
 自殺総合対策大綱のポイントは、「国民を生かすも殺すも、どれだけ生かすかも、国が決める」という上から目線だ(あれ? いま、戦争中だっけ?)。

 それは、国民から判断の主体性と尊厳を奪う姿勢そのものである。

 それが理解できるなら、死にたい人に向けて「だれかとはなすと安心する」と自己責任を押し付けるのではなく、その「だれか」に誰もがなりやすい仕組みを作る方針に転換する必要性にも気づくだろう。

 この政策には、「自殺に追い込まれたら死んでもいい」という自由や権利は認められていない。
 国民自身が生きたいのか(死にたいのか)、誰かを生かしたいのか(見殺しにしたいのか)という議論は不問にされている。

 つまり、自殺者数の目標値を達成させる有効な対策さえ立てれば、それで実質的に「誰も自殺に追い込まれることのない社会」を実現したことにしようってわけ。
 もっとも、それすらも達成できる見込みがほとんどない現状では、お題目も絵に描いた餅である。

 こうした国の自殺対策の目的と、僕自身の自殺対策の目的は最初から異なっている。
 その違いから書いていこう。


★死にたい人を「腫れ物扱い」せず、ふつうに付き合ってみた

 僕は、1990年代半ば頃から15年以上に渡って自殺未遂をくり返す人たちと付き合うようになった。
 取材がきっかけだったが、話を1回聞くだけでは疑問がわいてくるばかりだった。

「なぜ、自殺未遂を何度もくり返してしまい、やめられないのか?」
「なぜ、専門家を称する精神科医や福祉職、NPOなどのプロがいるのに、セーフティネットにならないのか?」
「なぜ、辛気臭い『支援』の発想ばかりで、生き苦しい人と一緒に楽しく生きていける仕組みを作れないのか?」

 そのような疑問を、僕はさまざまな自殺未遂経験の持ち主たちの出会いの中でたくさん抱えることになった。
 気がつけば、300人以上の自殺経験者と出会い、交流を重ねることになった。

 当時、僕が主催していたイベントNHKへの寄稿などは、青い表示のリンクを参照されたい。

 「よくそこまで死にたがる人たちに付き合えますね」と、いろんな方から言われた。
 その問いかけには、「面倒くさい付き合いに応じるなんて酔狂ね」という意味が入っていた。

 でも、誤解を恐れずに言えば、僕は自殺未遂をくり返す人たちと付き合うのが面白かったのだ。
 「面白い」とは、関心が高いという意味だ。
 そこに、自分の知りたい固有の価値があると感じられるということだ。

 僕は、何の不満も不安もない極めて「フツーの人生」を歩んできた。
 小さい頃にはそれなりにいじめられた経験もあったけど、ケンカして自分の居場所を守る程度には勇気を発揮できたし、小学5年生までは劣等性だったのに中学の頃には学年1位になって勉強もできたし、親の仕事先も安定した大企業だった。

 そういう人間にとって、自殺するほど追い詰められることはない。
 しかし、大学を辞め、いろんなバイトをした後で広告代理店を経て、コピーライターからフリーの雑誌記者になったあたりから、自分と社会との関係を考えざるを得なくなった。

 「記事の執筆は金にはなる。しかし、誰でも書けるようなことを発注されても仕事がむなしい」という虚無感が鬱積し、依存症になって散財することになったのだ。
(※何の依存症かは、『生きちゃってるし、死なないし』という本を参照)

 それが1990年前半の頃の話だが、当時、取材のつもりで依存症の研究者を取材したり、自助グループに参加したりするうちに、親から支配的な関係を強いられてきた「受け身」の自分のあり方を見直す必要を強く感じた。

 そして、雑誌に書きたい企画を自分で作って、書きたい記事を書くスタイルに改めることによって、毎日の仕事を面白くしようと努めた。
 自分自身の疑問に基づいて仕事をすることで、なんとか自分の人生をつかもうとしたのだ。

 それは、とても充実感があり、楽しいものだった。
 自分らしく仕事ができるスタイルを作ることは、自分にとって無理がなく、元気いっぱいになる。

 そうした「リア充」そのものの僕にとって、自殺未遂をくり返す人たちはまるで文化の異なる人たちであり、同時に(僕自身が依存症になったように)誰もがきっかけ一つで背負ってしまう不幸の持ち主だった。

 だから、「暗い話を聞くと引きずられないか」と心配されても、「なんでそうなるの?」とポカンとしてた。
 おそらく転移や憑依をされるような人は、両足ごと相手にもっていかれるのかもしれない。

 僕はそんな安い同情をすることもなければ、自殺未遂をくり返す人たちをどうこうしたいとも思っていなかった。
 生きるも死ぬも、その人自身に選択できる権利であるのであって、その自由と尊厳の前には、適切な間合いが必要だと感じていた。

 人間のやることなのだから、間違いや失敗はつきものだ。
 僕も相手も、神様じゃない。
 だから、好き嫌いや相性、くだらない理由でケンカもすれば、仲直りもできるし、本当にイヤなら別れることもできる。

 だからこそ両者は対等だと感じていたし、相手が「救われたい」と望んでも、自分のできる範囲でしか応じられないのは当たり前なので、僕が解決できない問題は解決できるべつの人に任せ、その人もできないなら、さらにべつの人を探して協力してもらった。

 1人1人は小さな力でも、みんなで力を合わせれば、たいていのことはなんとかなる。
 だから、だんだん「自分一人で気負う必要はない」と思えるようになったし、それは今も同じだ。

 自殺にまで追い詰められている人と向き合うのは、最初は確かに大変かもしれない。
 たった一人で当事者に真正面から向き合えば、相手も泣くけど、こっちだって何度も泣くことになるし、無力感にも襲われるし、体力や金、時間も失ってしまう。

 実際、自殺にまで追い詰められている境遇の方とたくさん付き合えば、その相手と関わる人間関係とも関わることになるので、いろいろとトラブルも起こる。

 殴られ妻を暴力夫から救出させたら、自宅のドアに「殺す」と脅迫状を貼られたし、ひどい虐待を受けてる子の家出を手伝えば、その親が2ちゃんねるに僕に関する根も葉もない噂を書き続けた事もあった。
 誰かが手にする幸福は、他の誰かを不幸にしてしまうことがあるのだ。

 でも、付き合いの積み重ねによってそうした戸惑いやトラブルにも慣れていき、やがて「対等な関係で一緒に問題を解決する」という発想に至れば、むしろワクワクできるようになる。

 僕は、僕個人の勝手なお願いとして、彼らと一緒にバカな話で盛り上がったり、カラオケや飲み会で共に遊んだりする「ふつうの付き合い」を楽しもうとしていた。
 そうした付き合いの中では、彼らは「精神科の患者」や「生保の受給者」などではなく、「ふつうの友人」だ。

 差別や偏見などによって、腫れ物に触るように自殺未遂者たちを見る人がいる。
 だが、そういう「ふつうの友だち」として付き合いを続けてみれば、自分の知らないことをたくさん教えてくれる。

 生活保護の実際の暮らしぶりや、精神科のでたらめな処方の仕方、手首の切り方から救急医療の実態などまで、ふだん自分が知りたいことだけを調べてる人には学べない「社会の現実」を、彼らは時に楽しく時に悲しげに教えてくれた。

 そうした付き合いそのものが、僕には知恵を学べる学校であり、教科書が教えてくれない生きた授業だった。

 学術研究や市場調査では、会ったこともない初対面の人に聞きたいことだけを尋ね、そのアンケートを統計にするが、回答する側にしてみれば、「なんでお前らに俺の深いところまでさらさなければならないの?」という不信感が潜在的にあるはずだ。

 とくに、自殺に関して未遂経験を持つ当事者は、初対面の限られた時間の中では自分が本質的に伝えたいことを存分に伝えることはできないし、それを聞く側も話された内容を検証できないままだ。

 あなたは、今日会ったばかりの人に、自分のつらい話をどこまで話せる?

 たとえ3万人の自殺者数が1人だけに減ったとしても、その1人があなたの大事な人間だったら、調査にだけ基づいた最大公約数的な方法で救えると信じられるか?

 自殺対策の調査・ヒアリング・統計で何かがわかったかのように語るのは、ばかげているのだ。
 そうしたデータを持ち出して講演する人の話を鵜呑みにする人たちも、自分が自殺対策に参加している当事者性を欠いている。

 自殺対策は、方法論以上に、「無理なく一緒に生きられるために」(=生きるか死ぬかではなく、共に人生を楽しむために)という目的で進められない限り、成果を出せるわけがないのだ。


★死にたい人の尊厳を肯定する痛みを分かち合おう

 何度も会って付き合いを深める中で、「この人ならここまで話してもドン引きされない」と間合いを計りながら、言える範囲のことを少しずつ伝えられるようになる。
 それが、ふつうの付き合いだし、そうした付き合いの積み重ねによってしか本当のことは見えてこない。

 では、自殺未遂をくり返す人たちや自殺しかねい人たちから僕が教わった「本当のこと」とは何か?
 それは、「何が不幸かは私に決めさせて」ということだ。

 精神科で買わされた処方薬をオーバードーズ(過剰摂取)するのも、手首を切るのも、ひきこもるのも、客が取れなくても風俗の仕事や援助交際(売春)をするのも、他人から見れば「不幸」や「問題」かもしれない。

 しかし、本人は必ずしもそれらの行為を「不幸」や「問題」とは認知していない。
 これは、親から虐待を受けている子どもが、虐待の現実を認めたくない気持ちにも似ているかもしれない。

 そして、究極的には、「生きるも死ぬも私に決めさせて」と彼らは望むかもしれない。

 その気持ちを真正面から否定してかかるのは、彼らの尊厳を大事にしないことと一緒だ。
 自分の尊厳を大事にしてくれない人の話を、あなたは進んで聞きたいだろうか?

 僕なら、答えは「NO!」だ。

 彼らが自分の生き死について「私」だけで決めるのではなく、「誰か」と一緒に決めたいと思い直すことがあるなら、それは彼ら自身の自己責任ではなく、むしろ彼らの周囲の人間が彼らの望む付き合いのあり方を示した時だろう。

 高層マンションのベランダから今まさに飛び降りようとしてる時、ポケットのケータイ電話が鳴って、それが自分の信頼できる長年の友人で、「近所まで来てるんだけど飲まないか?」と誘われれば、1日ぐらいは自殺を延期する程度のことはできるかもしれないし、自分の抱えていた苦しみをあっさりと解決できる知恵や方法を飲みながら知ることもできるかもしれない。

 しかし、その電話がたいして深い付き合いもしてこなかった誰かなら、着信の名前を見て切るだけだろう。

 いや、たとえ長年一緒にいて信頼し合っているはずの親子であっても、朝起きてみたらわが子が精神科の買わせた薬を大量に飲んで死んでいたというケースだって珍しくない。

 家族や親友などの身近な人だけでは、当事者を苦しみから救い出したくても、限界があるのだ。

 僕らがもし自殺対策を考えるなら、死にたい人に選ばれるだけの付き合いを「ふつうの人」が無理なくできるようになることが避けられない。

 内閣府のように「生かすか殺すか」という一方的な支配的な構えで言い寄られても、死にたい人にとって「私とは関係のない他者」からの圧力だと認知されるなら、ますます死にたくなることはあっても、生き直すための伴走にはなりえないのだ。

 自殺が誰かに「追い込まれる」ものなら、「追い込んでいるのは自分自身ではないのか」という自問から対策を考えようとしない限り、孤立した人は自分の生死をいつまでも「私」だけが決めるものと信じて疑わないだろう。

 自殺対策とは本来、死にたい人に「この人となら話してみたい」と思ってもらえる人材として選ばれることであり、そういう人材を育てることなのだ。

 それは、「死にたい」と本気で言う人に「そりゃあ死にたくなるよね」と悲しみを込めて共感する痛みを請け負うこと。
 その人に背負いきれない重荷を課してきた社会の現実の重みと、自分の能力不足の重み。

 その2つの重みの圧力に耐える痛みを引き受ける覚悟ができるなら、死へと追いやる深刻な問題を「死にたい人」と一緒に解決する労力など小さいものだろう。

 しかし、その覚悟や解決の労力を1人で背負うのは、大変だ。
 
 だからこそ、死にたい人に寄り添う人を支えるために、社会はある。
 「ふつうの人」の力を容易に借りられる仕組みを作り出す必要があるのだ。


★「ふつうの人」が毎日の仕事を通じて人を救える仕組みを作り出そう

 こうして死にたい人の立場から自殺対策を見直してみれば、精神科医療や福祉職などの既存のプロや専門家を増やせば自殺者を減らせるということが、どれほど愚かな発想なのかも理解できるだろう。

 プロや専門家は既にいるが、それでは足りない。
 有資格者を増やせばいいわけでもない。

 死にたい人の身近にいる家族や友人だけでも足りないのだ。
 ということは、「ふつうの人」が今よりもっと生きやすくなる仕組みに無理なく参加できる仕組みが必要なのだ。

 どんな職種も、実は人を救う仕事に進化できる。
 自分の仕事の価値を向上させれば、売上UPにもつながるし、やりがいもワクワク感も増えるし、転職による所得減も防げるし、地域経済の活性ひいては国内経済の安定にもつながる。

 その具体的な提案は次回のブログ記事に書くが、その前に今後の日本全体の経済動向もふまえておきたい。

 日本経済は今後、アベノミクスの失策によって「とんでもない凋落へのカウントダウン」の懸念が強まりつつある。

 ただでさえ、1億2000万人という現在の人口が、2060年には人口が8,674万人になると推計されているのだ。
 今より3分の1も人口が減れば、店をやってる人は少なくとも売上が3分の2以下に減るってこと。

 これをふまえれば、人口の減少で国内市場の縮小するばかり。

 日本は高齢化が進んでいるので、彼らの投票が力のある選挙では、しばらく借金(国債)と増税で増える歳出を賄うという無策の自民党政権が続くことになる。

 それでは、歳出を大幅カットする大英断のできる政治家が出てこない。
 子育て支援や移民の受け入れなどに大型投資をして人口減を食い止めることができないのだから、市場の縮小はじわじわと国民の首を締め上げていくだろう。

 市場が縮小すれば、売れるものも売れなくなるのだから、店が商品・サービスの販売のチャンスを全国や海外などへ広げていく努力をしなければ、国内の景気は少しずつ確実に悪くなる。

 こうした状況下で、現在20代の若者が50代までなんとか生き抜くのも大変だ。
 60歳の定年後を考える頃には、国内の市場は3分の2しかないのだから。

 当然、商品の単価も上げざるを得なくなる。
 そこで、中流資産層の下流化(=貧困化)を救おうとすれば、税金や年金、健康保険料なども、これからどんどん国民負担として重くのしかかるのは必至だ。

 ということは、20代の自殺に絞って考えてみても、成果をあげてない自殺対策の関連予算を増やすようなバカをするより、民間で今よりもっと生きやすくなる仕事のあり方を採用する方が、人口減に備える売上UPの方法としても理に適っている。

 政府の急務は、これ以上、国内の市場=人口を減らさず、むしろ増やせる政策に予算を投じることだ。

 同時に、エネルギーや資源、食糧の自給率の低さ(=海外依存度の高さ)を克服するのにも、50基以上もある原発の廃炉作業などにも、気の遠くなるような莫大な予算がかかる。

 すべて自民党の失策のツケを国民が払う結果だが、このまま自民党の政権が続く可能性が高い以上、最悪の場合、失策を重ねた挙句に戦争をおこしかねない。
 戦争は外国人への憎悪から始まるのではなく、外交と経済の失策によって起こるからだ。

 逆に言えば、戦争は、外交と経済の2つのセーフティネットが破綻しない限り、おこりえない。

 では、外交の天才的な官僚は、中国・韓国・アメリカ・ロシアに良い条件を突きつけて上手いことやってるか?
 経済の天才的な官僚がいて、借金と増税に頼らずに経済を活性化させているか?
 どちらも、プロ中のプロを育てた成果は見えないはずだ。

 それに加えて、大地震の起こる可能性は年々高まっているし、安倍総理が諸外国に売り込んでる原発が爆発すれば、それによって発生する莫大な費用はすべて日本国民の税金から支払うことになる。

 はっきり言ってしまうと、日本に10年も20年も住み続けられるのか、僕自身、とても不安なのだ。
 神風が吹いて大地震が来なかったとしても、原発事故によって損害を受けた国はきっちり日本に賠償を請求してくるだろうし、日本の人口減が進むのは必至なので国内市場は縮小し、商品が高くなって生きずらさは増すばかり。

 「せめて戦争だけは起こしてくれるな」と願いたいところだが、自民党の動きを見ると、不安ばかりが増す。
 日本は戦後も、重要な意志決定を政治家がしてこなかった
 天才学者・小室直樹さんが『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』で指摘したように、戦前と同じように「責任の真空地帯」を温存したままだ。

 そんなキナ臭い時代に、平和で安心の暮らしを続けたいなら、税金は1円もムダにはできない。
 それなのに、税金の費用対効果について国民の関心が高いとはいえない。

 関心を高めるチャンスを作るためには、自殺対策の関係予算をバッサリ切るか、自殺対策の官民連携の推進会議のメンバーを総入れ替えし、投入する税金に見合った成果を出せるよう、費用対効果の良い活動をしてる事業者を支援する関係予算に特化すべきだろう。

 それには、現在の自殺対策の大綱を根本的に見直すことが必要だが、現実的には期待できない。、
 それなら、民間でこれまでの自殺対策とは真逆の発想で取り組んで成果を出し、税金を支出する必要性をなくすことが重要になる。

 「真逆」なら、民間主導の自殺対策の方針は、以下のようにはっきりと見えてくる。

●ココロを治すのではなく、カラダを気持ち良くする
●自殺未遂を経験した当事者の固有の価値を(専門家と対等なものとして)尊重し、収益化する
●専門家ではなく、「ふつうの人」ができる方法を生み出す
●重苦しい発想だけの歴史的作法から、ワクワク楽しい地理的作法へ

 次回のブログ(後編)では、上記の方針に基づいた自殺対策の具体例を豊かに示していこう。

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■費用対効果の悪い自殺対策 ~1人減らすのに血税400万円を使っても評価できる?


 毎年3月は、「自殺防止対策強化」の月間だ。
 内閣府が啓発などにあれこれ動いてる

 そこで、自殺対策推進室を設け、官民連携の協働会議を主催している内閣府の仕事の成果を統計で見てみよう。
 統計データが続くけど、わかりにくいものではないので、面白がって読んでみて!

(長文なので、先に結論を書いときます。
 自殺対策に巨額な税金をつぎ込んでも、9割以上の自殺者に効果の無かった対策を、官僚も自殺対策推進会議の委員も政治家も根本的に改めないため、自殺対策は民間でやる以外にありません

 まず、ホームページで公開されてる自殺者数の年計をチェックする(※数字は確定値)。

 平成25年(2013年) 27,283人 対前年比  575人(約2.1%)減
 平成24年(2012年) 27,858人 対前年比 2,793人(約9.1%)減
 平成23年(2011年) 30,651人 対前年比 1,039人(約3.3%)減
 平成22年(2010年) 31,690人 対前年比 1,155人(約3.5%)減
 平成21年(2009年) 32,845人 対前年比  596人(約1.8%)
 平成20年(2008年) 32,249人 対前年比  844人(約2.6%)減
 平成19年(2007年) 33,093人 対前年比  938人(約2.9%)
 平成18年(2006年) 32,155人 対前年比  397人(約1.2%)減
 平成17年(2005年) 32,552人 対前年比  938人(約2.9%)

 こうして見ると、「近年は自殺者数が減っている」と早合点する人もいるだろう。
 しかし、人口が減れば、その増減率に比例して自殺者数が自然に減るのも当たり前だよね。

 そこで、下記の人口の推移を見てほしい。
 近年は、人口自体が減っていることがわかる。

 平成24年(2012年) 127,515人 対前年比 0.22%減
 平成23年(2011年) 127,799人 対前年比 0.20%減
 平成22年(2010年) 128,057人 対前年比 0.05%増
 平成21年(2009年) 127,510人 対前年比 0.14%減
 平成20年(2008年) 127,692人 対前年比 0.06%減
 平成19年(2007年) 127,771人 対前年比 0.00%(横ばい)
 平成18年(2006年) 127,770人 対前年比 0.00%(横ばい)
 平成17年(2005年) 127,768人 対前年比 0.13%増

 人口が減る要因の多くは死だが、自殺以外にも病死や事故死などいろいろある。

 そこで、日本人の死因の中で自殺が占める確率を観てみよう(※人口動態統計による)。
 自殺で死ぬ人は、長い間、ずっと死因の中でもほぼ横ばいだ。

JISATSU02.jpg


 自殺対策基本法は平成18年(2006年)に公布・施行されたのだけど、その前後で自殺者数がどう変化したのかを、「自殺者数の長期的推移」(人口動態統計)を観てみよう。

JISATSU01.jpg

 自殺者数は、1997年に急増してから高い水準を保ったまま、わずかに推移しているにすぎない。
 前年度比でわずか数%程度を減らしたことを、自殺対策基本法や自殺対策会議の成果だと考えるのは、いかにもおめでたい。

 あなたが自殺対策の会議メンバーだったら、わずかにしか変化しない結果を喜んで「俺たちは自殺者数を減らしたぞ!」と世の中に誇れるだろうか?

 1997年以前の社会構造と現在の社会構造との劇的な変化の意味を分析し、それをふまえた上で自殺対策におけるイノベーションを興さない限り、自殺を劇的に減らす対策など講じるなどできないことは明白だ。

 さらに言うなら、もっと長い期間(1899~2003年の変化)で観れば、日本の自殺者数は人口の増減と景気に連動している傾向が大きいので、自殺率は長年さほど変わっていない。

 さほど変わっていないということは、2006年以後の自殺対策基本法やその後の内閣府の取り組みは焼け石に水で、統計的に有意だと明言できるような公共投資はなされてはいないのだ。

 しかし、こういう長期的な統計の読み取りができないのか、自殺対策の官民連携協働会議のメンバーである人が突然、僕にあれこれツィートしてきた。

 そこで彼の発言を見てみると、どうやら自殺者を劇的に減らすイノベーションを興すつもりはないらしい。

JISATSU03.jpg
(※実際のつぶやきはコチラ

 万能薬がなくても、万能薬に近づけるように自分の努力不足を真摯に反省し、自分よりはるかに優秀な解決の仕組みを持つ人から教えを乞うか、できる人に席を譲るのが、金をもらって仕事をするプロの責任のはずだ。

 あなたは、彼の発言に自殺対策に取り組む相応の覚悟や責任を感じることができるだろうか?

 僕の目には、無能でも既得権益にしがみつく政治家のように映る。
 自殺にまで追い詰められる人々の深刻さと比べると、あまりにも他人事のような構えに見えて、憤りすら覚える。

 試しに、あなたも官民連携の会議の結果としての自殺対策について「相応の評価」をしてみてほしい。

 考える資料として、自殺対策の関連予算も示しておく(※平成25年度は予算案の額面。それ以外は計上された予算額)。

 平成25年(2013年) 対前年比  575人(約2.1%)減 予算 28,732,106(千円)
 平成24年(2012年) 対前年比 2,793人(約9.1%)減 予算 23,628,562(千円)
 平成23年(2011年) 対前年比 1,039人(約3.3%)減 予算 13,421,344(千円)
 平成22年(2010年) 対前年比 1,155人(約3.5%)減 予算 12,446,000(千円)
 平成21年(2009年) 対前年比  596人(約1.8%) 予算 13,577,505(千円)
 平成20年(2008年) 対前年比  844人(約2.6%)減 予算 4,446,242(千円)
 平成19年(2007年) 対前年比  938人(約2.9%) 予算 24,684,039(千円)

 自殺対策の予算は、年々増えている
 しかも、近年は毎年50億円以上も積み上げられている。

 この統計によってその年の予算と次年度の自殺者数の増減を比べることができ、1人あたりの対策費の費用対効果がわかる。
 平成24年(2012年)には予算が236億円もついたのに、翌年には575人しか自殺者数を減らせなかった。
 1人の自殺者を減らすのに、約411万円も税金を支出したのだ。
 この額面は、サラリーマンの平均年収に匹敵する。

 そこで、平成19年(2007年)から平成25年(2013年)までの6年間に支出された総予算と、減らせた自殺者の総数を比べてみる。

 減らせた自殺者数は、5810人。
 総予算は、92,203,692(千円)=922億円。

 6年間でみると、1人の自殺者を減らすのに、年平均で約159万円を使ってきたことになる。
 これは、近年の方が1人を救うために使う金の費用対効果が悪くなっていることを意味している。

 予算はどんどん増えてるのに、費用対効果が悪くなる対策に金を出し続けている現実が、ここにはある。
 予算を上積みすればするほど、1人を減らすための金が増えてしまうのだ。

 仮に、内閣府が「成果を出している」と評価しているなら、どういうことになるか。

 現状の対策と予算のままで「自殺ゼロ」を次年度の年間目標とした場合、236億円÷2.1%=1兆1238億円。
 これは、日本の歳出の1%に相当する莫大な支出だ。

 こんな莫大な予算を各省庁からかき集めるなんて、非現実的だ。
 言い換えれば、「自殺ゼロ」なんて目標は、延々と先送りされることが運命づけられているといえよう。
(※僕自身は、国家による「自殺ゼロ」政策が良いことだとは全然思わない)

 しかも、警察庁の発表している「自殺統計」が、捜査などによって自殺であると判明した時点で自殺統計原票を作成し、計上しているのに対し、厚労省の「人口動態統計」は自殺、他殺あるいは事故死のいずれか不明のときは自殺以外で処理しており、死亡診断書等について作成者から自殺の旨訂正報告がない場合は、自殺に計上していない

 たとえば、精神科医が買わせた処方薬を過剰に摂取して死亡した人の場合、それが自殺企図によるかどうかがはっきりしない場合、厚労省は自殺者として認めていないのだ。

(注:治療の成果を出してる精神科医が一部にいるのは、承知している。
 だが、彼らは全国に点在し、通院や入院に莫大なコストがかかるため、貧困層には無理。
 しかも、彼らでも外部の多様な人材との連携には関心が薄く、貧困や孤立などの社会的病理を解決するまでの面倒は見ない。
 一度治癒しても、病気が再発すれば、自分に金を運んでくれるリピーターとして囲い込んで歓迎するだけ。
 そもそも、良識派がいるからといって、精神医療の業界全体の罪を免罪することはできない。
 精神科医は、多剤処方で亡くなられた患者の葬式に何度出席したのかを誠実に公表してから、自分の仕事の正当性を語るのが筋だろう)

 現実の自殺者数は、厚労省が把握しているよりはるかに多く、自殺対策の費用対効果はさらに悪いものになる。
 100年経っても「自殺ゼロ」なんてありえない。

★なぜ、同額の予算内でより多くの自殺者数を減らせる仕組みを作り出すイノベーションができないのか?

 官僚は、政治家にその仕事の成果を突っ込まれない限り、歳出の費用対効果を考える必要がないからだ。
 だから、対策会議のメンバーたちが問題解決のイノベーションを興せなくても、税金泥棒でも、クビにはしない。

 自殺は統計・ヒアリング・アンケートだけでは本当の理由が見えてこない。
 当事者と付き合い、信頼関係をゆっくりと築き上げ、本当に悩んでることを無理なくうちあけられる寄り沿いの積み重ねでないと本当のところは見えないのだ。

 自殺対策を標榜しながら調査を重視するNPOが会議の委員に参加しても、たいした成果を出せないのは、NPO側がその泥臭い活動を嫌がるからなのだ。

 このまま内閣府の自殺対策が進めば、どんどん費用対効果の悪い対策に予算が増えてしまう恐れがある。
 これを無駄遣いと呼ばず、何を無駄遣いというのか?

 自殺対策に使われる血税は、年間3万人の自殺者たちを含む国民が、生き延びるために使いたくても使えずに、国に納めてきた金だ。

 そこで費用対効果が悪い対策しか立てられないままでいる会議メンバーに対して黙っていては、僕は自殺で亡くなった友人たちや今なお自殺を選びかねない友人たちに顔向けできない。

 自殺を考える人の中には、実の親から性的虐待を受け続けても児童相談所にも相談できないままたった一人で苦しみ続ける10代の少女もいれば、仕事がまったくない地方の山奥の集落の家の中で孤立して声を上げたくても相談機関に行ける交通費も無ければ電話代も払えずに飢え死にしかねない人すらいる。

 現状の自殺対策では、彼らは「想定外」とされており、会議メンバーの「関心外」であり、「部外者」だ。
 アンケートやヒアリング、統計だけではこぼれ落ちてしまう孤立者たちの声を、僕らは想像しておこう。

 自殺対策予算として国から自治体へ流れてくる金は、自殺を考える当事者に直接の恩恵も実感ももたらさない。
 だから、自殺者が劇的に減らないのかもしれないのだ。

 費用対効果の悪い自殺対策のままなら、いくら税金を増やしてもその分だけ自殺者を減らすことはできないってこと。

 ダメな対策にまだまだ税金が投入されるとしたら、増税と借金で増え続ける歳出を埋め合わせてる日本の財政をさらに圧迫し、今よりもっと生きずらい世の中へ導くのと同じなのだ。

 それでは、自殺対策をやればやるほど、自殺者数を減らすどころか、増やしてしまいかねない。
 それでも、あなたは「1人を救うのに500万円でも1000万円でも使うべき」と思うだろうか?

 そんな選択肢よりも、費用対効果の悪い対策案しか出せない連中を一刻も早くクビにして、彼らよりもはるかに優秀な人材を急いで集める方が理に適っているのではないか?

 自殺対策の会議メンバーが自発的に辞任しない現状に、国民はもっと怒ってもいいんだ。
 野党の国会議員にも自殺対策関連予算の費用対効果の悪さを国会で質問させ、内閣府の官僚の責任を追及してもらおう。

 国会議員はたいてい個人事務所のホームページを持ってるから、メールでこのブログ記事のリンクを教えてやってもいいだろうし、twitterアカウントを持ってる議員なら直接リンクを教えてあげるといい。

 「こんな政治が3流のダメな国に生まれたのだから仕方ない」と無力感を覚えて孤立するより、「あいつは税金でメシ食ってるのに使えないヤツだ」とみんなで怒る方が、精神衛生的にも良いし、そのこと自体が有効な自殺対策にもなりうる。

 減るはずの自殺者を効果的に減らせずにいるのは、僕ら国民が自分たちの支払う血税の使い道を厳しく問わないという怠慢にも問題があるんだ。

 それは、いつか、自殺者だけでなく、日本国民全体へ大きなツケとして響いてくる。

 血税を払って雇った人材にきっちり文句を言う権利を行使しないと、どんな政策の成果も話題にならず、気がつけば、いつのまにか生きにくさが僕らの自己責任にされてしまうんだから。

 自殺対策は、それを止めたい人の論理で進められては困るのだ。

 「誰かを自殺に追い詰めている私たちに何が足りていないのか」という反省から出発しなければ、死にたい当事者のニーズと釣り合うだけの「共に生きていきたい当事者」としての自覚や価値は得られない。

★2015年は、自殺対策基本法の施行から10周年

 今年も含めて過去9年間、自殺者数はほぼ横ばいで、自殺を減らした割合も10%未満のままが続いてる。

 100点が満点のテストで10年間も10点未満しかとれないとしたら、その教科はその人にとって「決定的に苦手」と考えるのがフツーだろう。

 でも、官僚は自分が苦手であることは絶対に認めたがらない。
 そのアホな意固地が、救えるはずの9割の人間を救えないダメな自殺対策を続ける結果になってるんだ。

 行政や政治に生きやすさを期待したところで、現実は何も変わらない。
 むしろ、自殺に至るまで当事者の問題をこじらせず、より生きやすい社会の仕組みを民間で作る方に希望がある。

 次回のブログでは、民間で自殺対策を無理なく進めるための具体的な方法論を提案したい。

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■「自殺対策コンテスト!」を考える ~当事者が主人公でない取り組みに未来はあるか?


 「自殺対策コンテスト!」という取り組みが、今ネット上でちょっとした話題になっている。
 ツッコミどころ満載の取り組みなのだが、一方では絶賛され、他方では懸念の声が上がっている。

 自殺と聞くとすぐ「予防」とか「防止」という発想になって、求められる前から手を差し伸べてくる構え自体が、「生きるのも死ぬも疲れたよ」と思考停止したい自殺志願者をさらに孤独へと追い詰めてしまうんじゃないか?

 そう懸念する僕には、「自殺対策コンテスト!」を公然とやってしまえる神経がわからない。

 大勢で「死なないで」と押しかけてくる構図は、とても怖いものだ。
 僕は自殺志願者ではないけれど、そう感じる。

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 主催者は、「オルタナS」の記事で紹介されている。
 記事によると、「自殺関連用語を調べた人を相談サイトへ誘導する仕掛けだ。サイトを立ち上げて約半年間で、20代前半の若者185人から相談依頼」が来たとか。

 1日に平均1人から相談が来た計算になる。
 ということは、1日で1人の相談を解決に導いたのだろうか?
 185人という莫大な人数の問題を解決できたのだろうか?

 オルタナSの記事には、そのことがまったく触れられていないし、検証した取材もなかったようだ。
 それでも、この取り組みを無条件で持ち上げる。
 これぞ「提灯記事」。

 実は、社会貢献の取り組みを報じるニュースには、この手の提灯記事は珍しくない。
 取り組みによって社会問題がどれだけ解決できたのかまで関心を持ってない記者が圧倒的に多いからだ。

 問題解決の成果や精度を問わず、支援される当事者側の満足度よりも「この団体は社会貢献の取り組みをしてそうだから」と支援者側の活動内容を紹介するだけで番組は成立する(=当事者ではない多数派の視聴者は満足してくれる)とタカをくくっているからだ。

 つまりは、取材する側が、自殺したい人の立場に対して他人事を決め込んでいることに無自覚なのだ。

 NHKの自殺特集の番組に出るゲストの面々も、ディレクターと同様に自殺を考える当事者に対して無神経・無関心であることに無自覚なのだから、ああいう番組を観てますます死にたくなる気分になる人が出てきても不思議はない。

 自殺防止や自殺予防なんて言葉は、死にたい当事者にとって時に害毒になる。

 そういう言葉は、死にたい当事者の尊厳を傷つけるだけなく、生きる自由や自己決定の権利を奪おうとする同調圧力にさえなってしまう。

 「死なないで」という社会的な良識を味方につけた同調圧力的な物言いほど、自殺志願者というマイノリティを孤独の片隅に追いやる権力はない。

 ちなみに、僕自身、1990年代半ばから自殺関連の取材を始めていた。
 そのため、僕の書いた雑誌や書籍を読んだ自殺志願者から連絡をもらうことで付き合いが始まった。

 15年間に渡って300人以上の自殺志願の当事者から相談を受けた
 年間平均で20人、月平均で2~3人の相談でも、各自の抱える問題はそれぞれ異なっていた。

 そのため、1人1人の事情を正確に把握するだけでも時間と労力がかかった。
 年月をかけないと、相手との信頼関係は築けない。

 「はじめまして」の段階では、相談を拒否されるかもしれないという不安から相談内容を「盛っている」ことも珍しくなく、何度も会ったり、電話やメールを繰り返して信頼関係を深めるうちにようやく主訴(=当事者自身が本音で訴えたい相談内容)を打ち明けられる頃には、こちらの労働時間や体力、ひいては資産が日に日に失われる結果になった。

 「自殺したい」ほど追い詰められているといっても、その人を苦しめている原因はそれぞれ違う。

 こじらせた孤独だけが問題なら、子猫の世話を始めるだけで「この可愛い子猫ちゃんを生かすためには私は死ねない」と思って生き直せる人もいるかもしれない。

 しかし、他人や行政から精神科の受診を勧められ、精神科医に買わされた処方薬を大量服用するオーバードーズの依存症になると、大事にしたい猫の世話もおぼつかなくなる。

 あるいは、経済的に困窮している人に、知識としての自己破産や生活保護などを教えても、一人では勇気がなくて相談機関に足を運べなかったり、学力が低いために近所の相談機関を調べて自力で相談に行くことをためらう人もいる。

 そうなれば、それがわかった人が一緒に同行するしかない。

 ところが、家族や友人、職場の同僚などとの関係が悪く、「誰にも頼れない」と認知している人が自殺志願者には珍しくない。

 すると、結局、僕がその人をしかるべき場所にまで随伴せざるを得なくなる。

 ソーシャルワーカーや民生委員など福祉職や援助職のプロでも、そういうきめ細かいサービスに伴走する人はなかなかいないし、そもそも相談者と「信頼関係」を築くまでプライベートの時間や労力、自己資金を提供しようという人も、なかなかいないからだ。

 これは、自分の専門外や職域外での「仕事」を関心外にしてしまう社会の仕組みにも問題がある。
 僕は「自殺予防のプロなどいない」と考えるし、大学も出ていないので専門領域などどうでもいい。

 そもそも、「死にたい」と訴える人に「死なないで」と構えること自体が、自殺志願の当事者の気持ちを真正面から否定してかかるものだという認識があるなら、切実で深刻な相談をしたい人が声をかけてきた時だけ動けばいいはずだ。

 いずれにせよ、たった1人の相談をきっちり本人が納得できるまで解決しようと構えるだけでも大変に苦労するのだ。
 だから、本当に無料相談のままで相談者が満足できた結果を生んだかどうかを考えると、僕は決して誇れない。

 僕の知らない間に亡くなった人もいるだろうし、付き合っている途中で自殺してしまって葬式に出たこともある。
 そうした重さに直面しながらも1日1人の相談をさばけるような「凄腕」がいるなら、お目にかかりたいものだ。

 さて、こうした泥臭い相談現場の事情をふまえて、改めて「自殺対策コンテスト!」を見てみよう。

 もう、どこからツッコミを入れていいのかわからないほど、トンデモな印象を受ける。
 疑問に感じた点をランダムに書いてみよう。

●なぜ「コンテスト」にする必要があるの?

 入賞者など決めないで、豊富に出てきたアイデアと、それを必要とする人をマッチングさせれば、そのアイデアが優秀であればあるほど、両者の間に何かが生まれる効果はあるのかもしれない。

 それをしないのは、主催者団体自身が今後、取り組める範囲の内容を絞りたいからだろう。

 つまり、東尋坊からの飛び降りをそのつど止めるという「水際作戦」(対処療法)の知恵を広く集めるなら、たとえば「電車への飛び込み自殺」に特化した予防の仕組みなどは生まれるかもしれない。

 しかし、それはその時の自殺衝動を抑えただけで、本人が抱える本質的な問題が解決されたわけではない。

 「死にたい」という気持ちが本人の望むところであった場合、それを阻止する社会は敵であり、それは時に無差別殺傷事件を導く可能性すら秘めている。

 「私はこの自殺予防の活動に人生をかけることにしました」(同サイトより)という「予防」に焦点が当てられた取り組みである限り、「死にたい当事者」たちがこの取り組みに対して自発的な関心を向けることは難しいだろう。

 彼らが相談を求めるのは、本人が自覚してるかどうかはともあれ、それぞれに苦しみ続けている明確な事情があるからであり、その事情に寄り添うにも「生きるか、死ぬか」という2択を前提にした発想のままでは、当事者の尊厳を関心外にしているのと同じことである。

●なぜ賞品でアイデアを釣る必要があるの?

 何年か前にGoogleが世界を変えるアイデアを応募した際、優秀なアイデアを持つ入賞者には莫大な賞金を出した。
 本当に優秀なアイデアなら、実現すれば公益に資するし、実現するには相応のお金がかかるからだ。

 しかし、今回の賞品はiPad Air、折りたたみ自転車、ディズニーチケットなど、まるで結婚式の引き出物セレクションのようだ。

 そんな安物で、優秀なアイデアが出てきた場合に実現できるだろうか?
 しかも、自殺志願者の抱える苦しみの深刻さに比べると、なんとも安直な発想に見える。

 本気で死にたい人がこのコンテストを見たら、「世の中は結局、俺のような死にたがりを小馬鹿にするんだ」と感じ、なおさら死にたくなってしまうかもしれない。

 なのに、そういう危惧が、主催者や同サイトで紹介された「応援者」に微塵も感じられない。
 このコンテストをきっかけに、新たな自殺者が出ないことを祈るほかないようだ。

●「ちょっとした思いつき・アイデアが隣の誰かの命を守る」は本当か?

 世の中には、相手から求められてもいないのに、「助けたい」と手を差し伸べたくなる人がいる。
 相手に対する関心も薄いくせに、自分の「善意」を疑わない。
 そういう気持ち悪さを自覚しない人の言う「支援」なんて、僕は基本的に信用しない。

 そもそも、公的な相談機関だろうが、会ったこともないメル友だろうが、自分が「この人なら」と見込んだ相手には、「はじめまして」でも相談を持ちかける。
 それが、本当にニッチもサッチも行かなくなって解決を切実に求める人の姿だろう。

 つまり、新たに相談サイトなんて設けなくても、自殺志願者はそれぞれ誰かに相談するし、その解決の知恵が好評なら相談者自身が助かった喜びの声を周囲に言うだろうし、twitterなどで感謝の言葉も公に述べてくれる。

 それが、結果的に相談を受ける人の「完全解決にまでとことん付き合う覚悟」の証明になる。
 そういう覚悟の持ち主が、「ちょっとした思いつき・アイデアが隣の誰かの命を守る」なんて言うだろうか?

 かつて90年代に『完全自殺マニュアル』(鶴見済・著/太田出版)という本が発売され、瞬く間に100万部を突破した。
 この本は、結果的に読者の多くの自殺志願者たちに自殺を思いとどまらせた。



 自殺したい当事者に選ばれる人や求められる本、信頼される存在になれるかどうかが、実際の自殺抑止になる。

 それには、「死にたい」と訴える当事者を変えることではなく、「死なないで」という個人的な思いにとらわれている自分自身を変えること。

 しかし、そのように相談者にとって満足度の高い解決を提供できる人材が少ないのも事実だ。
 既にある相談機関は、人によっては「勇気を出して」連絡しなければならず、相談をあきらめる人もいる。

 世の中の多数派は、自分の生活でいっぱいいっぱいなのだ。
 知らない他人の苦しみに関心を持てるだけの余裕は、なかなか作れない。

 でも、そういう世の中を作り出している人こそ、生きてる僕ら1人1人の市民だ。
 だから、僕は人を変える前に、人を自殺にまで追い詰める社会のダメな仕組みを変えたいと思う。

 ダメな仕組みとは、法律や制度だけを意味しない。

 むしろ、僕らが日常的に「壁」と感じてたり、仕方なくガマンして従ってる暗黙の了解や常識こそが、生き苦しさを構成していることが少なくない。

 たとえば、高学歴にならないと高賃金の仕事に就きにくいままジリ貧になっていったり、一度ホームレスや犯罪者、障がい者になったら社会復帰が難しかったり、親からの虐待がひどくても避難するための家出を先生や友人に止められて虐待され続けるなど、社会にはびこるダメな仕組みは既存の「良識」によって温存されている。

 そうした「ダメな仕組み」を革新的な方法で「より良い仕組み」へと塗り変えていくことを、ソーシャル・イノベーションという。

 そして、このソーシャル・イノベーションの担い手を社会起業家と呼ぶ。

 現代の日本社会を「生きずらい」と感じている人にとって、「自殺する/しない」という命題よりも大事なのが、「ダメな仕組み」を塗り変えることによって苦しみから解放してくれる社会起業家の登場だろう。

 何度も書くが、自殺志願者にとって「生きるか、死ぬか」は必ずしも本質的な問題とはいえず、擬似問題であることも珍しくない。

 だから、自殺対策の目標が「自殺を防ぐこと」であるうちは、当事者各自を苦しませる問題の解決は進まない。

 たとえば、金がないのが苦しみである人には、その人にとって無理なく金を調達できる方法を作り出すことに伴走することが解決の道そのものになる。

 「死なないで」という視線で関わりを持とうとする人は、自殺志願者の目には「どうせ俺が自殺しないことに安心したいだけなんだろ」という具合に映っている。

 そういう支援者のエゴにウンザリさせられる経験を、過去に何度も味わってきた自殺志願者や未遂者は少なくない。
 だからこそ、当事者各自の個別の問題を解決できる仕組みを作り出すこと自体に労力をかける必要があるのだ。

●「死にたい当事者」が主人公となる取り組みになってないのはなぜ?

 僕が既存の仕組みを塗り変えているソーシャルビジネスを取材し始めたのも、優れた社会起業家たちが、自殺志願者だけでなく、僕自身にとっても、誰にとっても生きやすくなる成功事例をはっきりと見せてくれたからだ。

 自殺にまで追い詰められる(=問題がこじれて深刻化する)前に、その人の苦しみが取り除けたらベターだ。
 社会起業家は、それぞれ自殺の一歩手前にある深刻な社会問題の解決に取り組んでいる。

 ホームレスの自立、末期がんのQOL、授乳の自由、子育てと仕事の両立、シングルペアレントの相互扶助など、それぞれにソーシャルビジネスが試みられている。

 ソーシャルビジネスは、問題解決の費用を収益事業で賄うという事業性に注目が集まりやすい。

 しかし、もっとも大事なポイントは、社会問題によって苦しんでる当事者にとって満足度の高い「革新的な解決の仕組み」を新たに生み出すことだ。

 それは、自分自身が知らず知らずのうちに身につけてしまった既存の常識を疑うことから始まる。
 革新とは、社会にあるダメな常識を塗り変えることだからだ。

 ところが、「自殺対策コンテスト!」には、自殺したい当事者の視点やその価値が重視されていない。
 それどころか、「自殺志願者は支援対象である」という常識的な構えを疑おうともしてない様子だ。

 拙著『ソーシャルデザイン50の方法』(中公新書ラクレ)で紹介した事例を2つ例示しよう。

 たとえば、大阪のミライロという会社の若社長は、車イス利用者であるからこそバリアフリーでない部分を指摘することが出来る。

 実際、ミライロは、ユニバーサル・スタジオにバリアフリーのコンサルティングを提供した。
 つまり、障害を持っていることは、それを克服できる経験や知恵が、当事者に固有の価値になるのだ。

 たとえば、視覚障害者なら、目の見える人ではありえない優れて繊細な感性によって、触り心地が革新的に良いタオルを開発するのに寄与している。

 そのように、障害者の世界では既に「障害者→支援対象」という発想から離れ、「障害者→健常者にはできないスキルや経験、知恵を持っている人」という新しい見方が広まりつつある。

 こうした事例を知っているなら、自殺志願者や自殺未遂者というマイノリティをこれまでのように「福祉の支援対象」や「精神医療の消費者」「社会的弱者」などに貶めないだろう。

 むしろ、彼らの苦しんできた経験やそこで覚えた知恵や知識、生き残るために知らず知らずのうちに鍛えられた固有のスキルなどを高評価する仕組みを生み出すことが、革新的な発想につながる一つの方向性になる。

 たとえば、「自殺対策コンテスト!」に応募してきたアイデアをすべて公開し、その一つ一つに対して自殺の未遂・志願の当事者たちから「いいね」や「No!」を査定しながらコメントを匿名で書ける仕組みを作るだけでも、当事者ニーズに見合うアイデアを選別できる。

 そして、当事者たちが高評価したアイデアの中から人気の高い順にランキングし、その上位にある3つほどのアイデアを高評価した当事者たち全員に「選考者」の価値としてお金を支払ったり、精神科医の無料診察券を配布したり、時間限定の話し相手を提供するなど、当事者自身が求める対価を提供できるような仕組みを作るといい。

 もっとも、現状の応募サイトのままだと、この取り組みに対する当事者たちの期待や関心は高まらず、「自分たちの価値を主張しても意味が無い」と思われてしまうだろう。

●次のアクションへ向けての提案

 本当は事前に「自殺当事者100人委員会」を組織し、彼らの前でソーシャルワーカー、精神科医、臨床心理士、福祉を学ぶ学生、自死遺族、自殺取材が長いジャーナリスト、大学教授、官僚、政治家、NPOなどのプロに自殺対策をプレゼンさせ、当事者たちが既存のプロの支援の仕組みに対するダメ出しをし、具体的な改善を要求できるチャンスが必要なのだ。

 当然、プレゼンターになるプロたちには、彼らを「指導」する自殺当事者100人に対して、お金なり、車なり、人材なり、当事者各自の求める対価を提供するのが筋だ。

 たとえば、これまで精神科医は、患者の個人情報を独占し、儲けてきた。

 苦しんだ経験は患者自身が蓄積した固有の価値なのに、その価値を学会論文にして自分の功績にし、書籍で書いたり、講演で話しては自分の利益だけに使ってきたのだ。

 同様のことは、他のプロにもいえる。

 だからこそ、それらの冨を当事者に還元し、当事者が苦しんできた分だけ何らかの対価を得られる権利と尊厳を守れるような仕組みを作り出すのが、革新的な解決の仕組みを最大の売りにするソーシャルビジネスの一つのあり方である。

 たとえば、貧困に苦しんでいる自殺志願者がいれば、自分の主治医である精神科医が講演する機会に一緒に出演してギャラを均等に受け取れるようにしたり、匿名で体験記を書いて原稿執筆ギャラを受け取れるようにするなど、収益化のモデルはいくらでも作れるはずだ。

 そうした仕組みを当事者自身が作れない時こそ、「支援者」の出番だ。
 支援者は、当事者の求めることを実現する仕組みを作り出すの仕事なのだから。

 大企業や自衛隊などにも、自殺者や精神科の通院者がいる。
 そうした組織に「社内研修費」という名目で自殺未遂の経験談や希死念慮の体験記を売ることもできるだろう。

 あるいは、国内外の学校や病院などにも、ビデオやスカイプを使って当事者の講演を売り出すこともできる。
 当事者の価値を最大限に引き出して商品化する際には、出版業界で編集経験のある人のスキルが役立つだろう。

 一口に自殺の当事者といっても、「かつては人前では話せなかったけど、今なら話せる」という人もたくさんいるし、「友人や仲間と一緒でふだん通りでいいなら話せる」という人も少なからずいる。

 当事者の価値を売り出す際に大事なのは、あくまでも当事者にとって話しやすい仕組みを作ることなのだ。

 冨の再配分については本来、政治の役割だ。
 しかし、日本の政治家は3流なので、現実的には無理である。

 それなら、自分の苦しみの価値を奪われた人たちが、奪った「プロ」たちからその収入源の一部を分け合う仕組みを、民間で自在に作り出せばいい。

 民間で解決の仕組みを作る場合、解決の成果を出していない行政の問題点に気づく必要がある。

 たとえば、大阪府の自殺対策審議会の委員名簿を見ると、見事なまでに自殺志願の当事者が一人も入ってない
 ちなみに、内閣府の自殺対策官民連携協働会議の構成員名簿にも、当事者は1人も入っていない。

 自分の頭で考えられないバカな役人は真っ先に専門家に頼り、役人に招かれた専門家たちは成果も出せないのに既得権益化し、苦しんでる当事者しかもっていない固有の価値と尊厳を平気で奪う。
 しかも、自殺者数を劇的に減らす仕組みを彼らは生み出していないので、依然として自殺者数は高いまま。

 既存の委員たちは、自分の仕事の成果を高評価したまま自ら委員を下りず、公職にしがみついている。
 多くの国民は自殺対策に関心が無いので、彼らに「成果を出してる実務家とチェンジしろ!」の声も上げない。
 自殺が減らないわけだよね。

 そんな委員に代表されるように、自殺にまで追い詰められてる人に対して、真っ先に「生かすか、殺すか」という他人の目線で判断したい人たちがいる。

 しかし、そういう「他者目線」の前に、自殺にまで追い詰められてる人が素直にほしがっているもの、その人が強い関心を寄せていることを慎重に聞き取り、それをその人が得られるようにその人との付き合いを続けていける仕組みを作り出すことが、結果的に自殺対策になるのでは?

 現実の自殺志願者たちには、二重の孤独に追い詰められている人もいる。

 ニートやLGBTや障害者などの方々は、社会の中では少数派(マイノリティ)だ。
 しかも、その中で自殺志願者になると、「マイノリティの中のマイノリティ」という二重の孤独を味わうことになる。
 これでは、人間関係が怖くなるのも道理だ。

 なぜ、自殺志願者や未遂経験の当事者に、自殺対策を公の席で語れる権利がないの?
 民間で自殺対策に取り組むなら、誰よりも当事者たちの声を表に出せる仕組みを作るのが課題のはずだ。

 日頃から当事者の仲間を増やせるだけの付き合いをしていれば、いざ行政から自殺対策の会議に招かれる際も、当事者を同行させることを条件として提示できる。

 そして、「各委員が一人あたり1人の自殺当事者を率いて参加する」というルールを設けるだけでも、成果を出しやすい具体的な解決の仕組みに近づけるはずだ。
 当事者との信頼関係を築けていないのなら、当事者にとって有効な自殺対策など生み出せるわけもないのだから。

 解決(=苦しみからの解放)を切実に望む当事者こそが、ソーシャルビジネスにおける最大の顧客である。
 顧客ニーズに担保されない事業は、その解決市場にコミットする人たちから不信感を買う。

 これは、マーケティングの基本だ。
 しかし、「自殺対策コンテスト!」の主催者は、この基本を間違えてしまったのだ。

 当事者ニーズを前提にしない事業は、その問題解決の成果も精度もあいまいのままだ。
 それは、誰かを孤立させる社会の仕組みの悪さそのもの。

 こうして長文を書いてきたが、僕は新しい挑戦を否定したいわけじゃない。

 自殺を考える人たちがこのコンテストによって厭世観を高め、さらに孤独へ追い詰められないかを懸念し、不安を感じているだけだ。

 だからこそ、このコンテストの主催団体には、死にたい当事者から信頼されるだけの確かな関係を構築できるように努力してほしいし、当事者に選ばれる事業者になってほしい。

 優れた社会起業家たちは、その労力を惜しまないのだから。



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