文月さんの歌う
『ママ』は、自分を殺した母親に、殺されてゆく子どもが「嫌いになったりしないよ」と励ますなどの歌詞が、誰もが自由に意見を表明できるインターネット上の一部で問題視されている。
まだ聞いてない人は、
このブログ記事(←クリック)にある動画を見てほしい(※歌詞の全文もある)。
『ママ』は、「虐待死」で殺された子どもが「天使」になって母親に語りかけるというファンタジーだが、これを作詞し、自ら歌っている文月さんは、次のように語っている。
「この男の子が亡くなってしまう歌なんですけど、
本当は子供もお母さんの事が大好きで、お母さんも子供の事が大好きで、
本当はそこに無償の愛、私が伝えたかったもの
亡くなっていく子供ですら最後までお母さんに幸せになって欲しいっていう思いを
残しているということを、ここで伝えたかった」(フジテレビ
『ニュースJAPAN』より)
虐待する母も、虐待された子も、「無償の愛」をもっていた、と文月さんは自ら言っているのだ。
「無償の愛」とは、相手に何も求めない愛のはず。
しかし、この歌では、母親はわが子をゴミ袋と一緒に捨てる。
あきらかに、「私のそばにいないで」とわが子に求めている。
しかも、子どものほうも、「天使」になった後も、いつでも母親を見守ってる。
「だって弱虫なママは一人じゃ生きられないでしょ」と、そばにいることを母親に求めている。
どこが「無償の愛」なのだろう?
もっとも、この歌は「ファンタジー」(幻想)なのだから、あえて一度、そのことを不問にしよう。
では、現実の「虐待死」はどうか?
虐待による死亡事例は平均で年間50件を超え、
1週間に1人の子どもが命を落としている。

厚生労働省が、都道府県、指定都市及び児童相談所設置市に対する調査によって把握した、平成23年4月1日から平成24年3月31日までの12か月間に発生、または表面化した児童虐待による死亡85事例では、99人(※心中を含む)の子どもたちが親に殺されている。
最新のデータでは、「3~4日に1人」のスピードで子どもたちが亡くなっているのだ。
その数だけ、わが子を虐待で殺してしまった親たちがいて、今もテレビやラジオで音楽を耳にしている。
この現実は重い。
僕は1997年、親から虐待された当事者100人が親に向けて手紙を書いた
『日本一醜い親への手紙』という本を企画・編集した。
どういう内容だったかは、Amazonや図書館で確かめてほしい。
大事なのは、この本をきっかけに、僕は実際にわが子を虐待して殺してしまった親に会って話を聞く機会が生まれてしまったことだ。
そうした出会いを重ねて、わが子に向き合う親の子育ての大変さと、実際に殺してしまった事実の間には、「紙一重」どころか、深くて暗い溝があると知った。
「殺すところまで虐待しなくてよかった」という言葉は、結果的にわが子を殺してしまった親にとって絶望的に孤独を感じるフレーズだ。
どんなに働いても低学歴ゆえの薄給、近くに子育てに少しでも協力してもらえる身寄りや友人もいない、金を無心に来る夫や家族を拒めば暴力や罵声の数々…。
さまざまな事情に苦しむ中でわが子を虐待してしまい、それを止めてくれる協力者も話を聞いてくれる相談者も満足に現れず、わが子を失ったことで安堵さえ覚える親もいた。
その「安堵」を、僕は責めることができない。
その人に対して本当に僕ができることは何もなかったのかと、社会人の一人として反省する。
子を殺したからといって、わが子に対して愛することがなかったとは必ずしも言えない。
愛したくても、愛するだけの余裕がなかったのかもしれない。
そこで虐待死をその親だけの責任と考え、その親子に手を貸せるかもしれない第三者の選択肢を関心外にしてしまえば、子育て中の親が孤立する現実は温存される。
あなたが何かに困った時、「それはお前の問題だろ? 俺は関係ないし、関心もない」と言われても納得してしまう考え方は、自分の孤立を自分で準備してしまうのと同じだ。
それこそが虐待と虐待死を解決できない今日の社会の仕組みであり、僕らの罪深さだろう。
自分には関係ないことでも、いや、関係がないならなおさら、困ってる当事者の声を大事にしようよ。
わが子を失った現実に安堵しようが、泣きわめこうが、「虐待死」後の親たちは「わが子を殺した人間」として法的に処罰されることはもちろん、出所後も世間からも疎遠や孤立を強いられてしまう。
「虐待」と「虐待死」では、ここまで「その後の人生」が変わってしまうのだ。
虐待している間なら、子どもにはまだ救われるチャンスがあるかもしれない。
だが、虐待死は、殺人そのものだ。
『ママ』という歌は、児童虐待どころか、「虐待死」を描いている。
この違いをわからず、殺人をファンタジーにしてしまったところに、この歌の罪深い間違いがある。
子育ての頃から孤立を強いられ、子殺しによってさらに深い孤独に追い詰められた人たちは、どういう気持ちで今この時を生きてるだろう?
そこで、「殺してしまったんだから当然の報いだ」と平気で関心外にする人もいる。
それでも、彼らは生きている。
おそらく、生まれたばかりのわが子の顔や、動かなくなった死体などの記憶に不意に襲われながら。
児童虐待に関心や理解が乏しい人にとって、虐待死は「虚構」(ファンタジー)かもしれない。
しかし、自分が殺したわが子の記憶から逃げられない親たちにとっては、現実そのものなのだ。
自分の過ちの記憶、社会から強いられる疎遠と孤立、それでも生きていかなければならない不安…。
わが子を殺した人たちのそうした不安や恐れが誰にも理解されない場合、何を導くだろう?
それを関心外にしたままで、本当にいいのだろうか?
むしろ、僕らが虐待や、その先にある虐待死について、親の個人的な能力や属性に責任があるかのように勘違いし、子育てを助け合う仕組みを社会の中に作れなかったことに目を向けないことに気づく必要があるのでは?
文月メイさんは、「この曲に込めた思い」について、以下のように書いている。
虐待のニュースを頻繁に耳にする昨今。
自分の子どもを殺すという異常な行為、
人間が人間でなくなる瞬間にあるものは
「愛の欠乏」ではないでしょうか。
子どもから親への揺るぎない「無償の愛」を、
一人でも多くの心を失いかけている人に伝えたい
思いから「ママ」が出来上がりました。(
facebookでの書き込みより)
親から虐待され、ゴミ捨て場に捨てられ、殺されてしまった子どもに、「親への揺るぎない無償の愛」はあるだろうか?
そんな愛を子どもに期待していいのだろうか?
殺された子どもは、もう誰にも自分の気持ちを訴えることができない。
親を恨んでいようと、愛していようと、自分では言えなくなってしまった。
「死人に口なし」だ。
虐待によって存在を奪われ、殺されることで命と体を奪われ、ついに持ち得なかった自尊心や発言権すら死後に奪われた子にとって、自分の気持ちを第三者によって「あなたもお母さんに幸せになってほしいと思っていたのよね」と一方的に語られてしまう屈辱は、「3度殺される」のと同じだ。
親や子から愛を奪い、虐待死にまで追い詰めたのは誰?
彼らを助けられないでいた僕ら(虐待の非当事者である第三者)ではないのか?
そういう問いかけなしに、虐待死という重すぎる現実と釣り合うだけのファンタジーなんて、本当に作れるんだろうか?
僕も、そんな現実の重みに無関心だったら、『ママ』を聞いて「素直に号泣」したのかもしれない。
文月さんも、わが子を殺してしまった親に会う機会があったなら、「この人や子どもの遺影の前ではとてもこの歌を歌えない」と気づいただろう。
虐待されている幼い子どもは、他者から「あんな親元にいて大丈夫?」と批判されても、虐待をする親を擁護してしまうことがある。
その擁護が「親が好き」という言葉になったとしても、それを額面どおりの意味に受け取るのは早計だ。
親なしには生きていけない幼い子にとって、その言葉は「親を好きでいなくては生きていけない」という切実な叫びではないか、と疑う必要がある。
そういう意味を忘れると、問題は知らない間にエスカレートしていくのかもしれないのだから。
日本の
殺人事件のほぼ半分は、親族間の事件だ。
そして、その半分は親子間の殺人だ。
日本でトラブルを抱える親子は、相手に理解してほしいと望めば望むほど悲劇を生む。
無償の愛など、ありえない

もっとも、「子殺し」の現実の深刻さに向き合わない点では、報道関係者も同罪だ。
フジテレビの報道番組『ニュースJAPAN』では、この歌を特集コーナーで紹介した。
しかし、わが子を殺した親がこの歌を聞いた時にどう思うかを配慮せず、この歌の持つ社会的悪影響を指摘することもなかった。
その理由を調べてみたら、
文月メイさんの所属事務所が、フジテレビの音楽番組を制作してたことがわかった。
要するに、歌を売るためのプロモーションのために、「殺すまではいってないけど、虐待してしまう不安を持つ親」だけにフォーカスして伝えるという編集方針を設けて、報道番組で宣伝したのだ。
一方、NHKも
『news watch』の「特集まるごと」で、『ママ』を紹介した。
この番組では、児童虐待そのものをテーマにし、取材相手は育児中の母親たちだった。
虐待死させた母親たちからの声を拾わないのは、この歌が彼らに悪影響を与えると知ってるから、かもしれない。
(たぶん、実際はそこまで関心を持っていないか、持っていたとしても、取材の手間を省いたのだろう)
顔も名前も肉声も出せない立場の人間は、殺人の過去を持つ人だけではないが、出せない事情があるからといって、言いたいことがないわけではない。
ところが、ニュース枠の報道番組では、社会の中の少数派の立場は、番組制作者の関心外なので配慮されない。
少数派の立場に立てるのは、深夜のドキュメンタリー枠のみだ。
予算のない中、当事者性を大事にした番組を放送できる貴重な枠だが、深夜にしか少数派が配慮されないのは、放送倫理を監督するはずのBPOでも関心外だ。
こうしたメディアの報道のあり方には改善の余地が大いにあるが、問題はむしろ「報道関係者やアーチストは重すぎる現実にどこまで深く向き合うか」ということにある。
そこで、さだまさしさんの作詞・作曲の
『償い』という歌を聞いてみてほしい(※歌詞付き)。
一生懸命働いている毎日の中で、疲れた体でたった一度の過ちを犯してしまった人の歌だ。
この歌に登場する「被害者の奥さん」に相当する人が、虐待死の場合、誰になるのかを考えてみてほしい。
「殺人」という重い題材にして歌を作るには、殺人に至る加害者の事情や殺された側のリアルをふまえないと、安っぽくなる。
何度も言うが、虐待死は「人殺し」だ。
あなたは、わが子が誰かに殺されても、わが子の遺影を前に「君を殺した人には『あなたのことは嫌いにならないよ』と言うんだよ」と祈るだろうか?
文月メイさんの『ママ』と、さださんの『償い』を聞き比べれば、多くの気づきがあるはずだ。
『ママ』で描かれた母親が、わが子を独立した命として尊重しないまま育てたことにも気づけるはずだ。
ちなみに、
『償い』は実話を基にしている。
「人殺し」のような生々しい命を題材に扱う表現には、殺した人・殺された人・二人を見る人の3者の思いを汲むために、なるだけ当事者に会うプロセスが必要不可欠だろう。
特に、その表現が報道や歌、本のような商品になる場合なら、なおさら社会的影響を考える必要がある。
そのためにこそ、プロデューサという編集権をもった責任者の仕事はある。
僕は、この歌でデビューした新人・文月メイさんの作詞力の未熟さに気づけず、この歌詞のままでリリースさせ、文月さんを矢面に立たせたプロデューサの社会性の足りない仕事ぶりを残念に思う。
表現の自由は、自分が表現した作品に対する受け手の反応を受け入れる覚悟ができない限り、拡張できない。
受け手を傷つければ、恨まれたり、殴られたりするかもしれない。
そうならないよう、世に出す前に作品を「編集」したり、自分が題材にした当事者から感想をもらうのは、表現者が自由に表現するために必要なスキルだ。
だが、表現者がむしろ警戒すべきなのは、表現者が知らないところで、自分の作品によって責められているように感じ、傷ついた人が不安や恐怖に苦しみ続け、誰にもそれを言えないまま死んでしまうことではないだろうか?
『ママ』のレコード会社や制作責任者のプロデューサは、歌詞に描かれた「虐待死」を犯してしまった親たちや、実際に虐待されて育った人たちに発売前に聞かせ、感想を尋ねただろうか?(※発売後の感想は
こちら)
そうした配慮をせず、「賛否両論を呼べば話題が広がって売れる」と見込んで、この歌でデビューする新人の作った未熟な歌詞のまま歌わせたなら、矢面に立つ歌手にだけ責任を負わせるひどいデビューだ。
メロディやリズム、編曲などの呪術的な演出によって聞く側の情感を喚起し、未熟な歌詞でも、その未熟さを脱臭し、聞く側にとって受け入れやすい部分だけに説得力を持たせてしまう音楽の力は、一歩間違えると多くの人を傷つける恐ろしいものだ。
だからこそ、歌詞の社会的影響を、レコード会社もプロデューサも発売前に考える責任がある。
その責任を放棄した自由は、「儲けられたら万事OK」と考える連中の、ただの居直りにすぎない。
最後に、たったワンコイン(500円)から子育てを助け合える仕組みを作った社会起業家
「AsMAma」の活動を知らせておこう。
社会起業家とは、政治に頼らず、民間で社会問題を解決する仕組みを作り、その活動費を賄うために手段として収益事業を行うソーシャルビジネスの担い手のことである。
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