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■11月29日(金)・30日(土)は函館で 12月1日(日)は札幌で会おう!


 「子ども虐待を助長してしまう」
 「親から虐待された子どもだった人たちが、不安と恐怖を訴えている」

 そんな評判がtwitter上で集まっている文月メイさんのデビュー曲『ママ』についてtwitterのまとめこのブログなどで書いていたところ、北海道の方々からお招きいただけることになりました。

 児童虐待や、誰もが生きやすいまちづくりについてはもちろん、そうした深刻な社会問題を解決するための仕組みを生み出すソーシャルデザインについて、函館と札幌でお話します。

 僕はなかなか北海道に呼ばれる機会がないので、函館・札幌にお住まいの方は、足を運んでいただけるとうれしいです。
(※僕の執筆・編集した本をご持参の方には、もれなくサインさせていただきます)


■ソーシャル・デザインに関して ~児童虐待防止を中心に~

 親からの虐待経験を歌にした『ヒカリ』という曲でtwitter上で人気急上昇中のシンガーソングライター・イクラさんの歌と、不肖・今一生による児童虐待の現状と解決の仕組みに関する講演を開催。
 「虐待してしまう」「虐待された」「両者の間に介入する」当事者としての話し合いになれば…。

◎日時:11月29日(金)PM6:00-9:00(PM5:00開場)
◎場所:中島れん売横丁「ふれあいセンター」(太田かまぼこのとなり)
◎ゲスト:イクラ(シンガーソングライター)/歌&演奏 twitter
      今一生(フリーライター・編集者)/講演 twitter
◎入場:無料(※予約不要)
◎備考:手話通訳・要約筆記あり/広報・準備のボランティア募集中
◎お問い合わせ:川越敏司(公立はこだて未来大学 教授)
https://twitter.com/ToshijiKawagoe
kawagoe (at) fun dot ac dot jp →送信時に、(at)の部分を@に、dotを.に変えてください
    tel:0138-34-6424/Fax:0138-34-6301
◎主催:北海道障害学研究会、川越敏司(公立はこだて未来大学・複雑系科学科・教授)
◎公式サイト:下記リンク参照
http://www.fun.ac.jp/~kawagoe/disability.html
◎地図:このリンク参照
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■「地域再生とまちづくり」講演会&シンポジュウム

 日本障害者・高齢者生活支援機構は、障害者に限らず、子供から高齢者にいたる全ての人が街と人を愛し続けながら生涯を安心して暮らせるコミュニティづくりを実現することを目的に活動を行っています。
 このイベントは、法人の事務所がある中島廉売における市内からのアンケート調査に基づき、広く市民の意見を公開討論の形で集約して、今後の地域の再生、活性化を目指すことを目的として開催されます。

◎日時:11月30日(土)PM1:30-4:30(受付開始PM1:00)
◎場所:函館市青年センター体育館
◎参加:無料(※予約不要)
◎主催:NPO法人日本障害者・高齢者生活支援機構
◎共催:中島町商店街振興組合/中島町仲通り商店街/中島町親睦会
◎後援:北海道渡島総合振興局・函館市・中島町会
◎講師&シンポジスト  中島興世(元恵庭市長)
      シンポジスト   今一生(フリーライター・『ソーシャルデザイン50の方法』著者)
      シンポジスト   大橋美幸(函館大学 准教授)
      シンポジスト   荒木明美(道南はばたきの会 代表)
      コーディネーター 川越敏司(公立はこだて未来大学 教授)
◎問い合わせ先:「地域再生とまちづくり」シンポジウム開催事務局
        (NPO法人 日本障害者・高齢者生活支援機構)
電話 0138-51-0026 
FAX 0138-51-0044 
E-mailjled@mls-j.com
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■ゆるくなれる児童虐待トーク

 児童虐待は深刻だけど、思い詰めてるだけじゃ、明日は見えないよね。
 無理に親を受け入れなくていいし、嫌ってもいいし、子どもを預けられる関係を増やしてもいい。
 虐待してしまう親の事情、虐待されてしまう子どもの痛み、虐待を減らす無理のない介入について、一緒に考えてみませんか?

◎日時:12月1日(日)PM1:00-3:00
◎場所:澄川TMC(札幌市南区澄川3条1丁目9-41 地下鉄南北線・澄川駅から徒歩1分)
◎出演:今一生(フリーライター・『日本一醜い親への手紙』編集者)
◎参加:500円+飲食費(※飲食代は、各自精算)
◎定員:10名(※予約先着。お早めにご応募ください)
◎備考:イベント時間中は完全禁煙/乳幼児の大声は大歓迎(※子連れでの参加を歓迎します)
◎駐車場:澄川駅付近に2件ほどコインパーキング
◎お問い合わせ:下記のどちらか1人にメール(※両方に出す必要はありません)
 大橋ルミ uzura6969@gmail.com
 吉井香 kaoieneko@gmail.com
◎イベント公式Facebookページ(※予約は必ず上記のメールで)
https://www.facebook.com/events/615407905167497/
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 なお、函館のFMいるかに今一生が出演した11月18日の放送が、下記から聞けます。
(※イクラさんの名曲『ヒカリ』も聴けます)




 ちなみに、北海道に滞在期間中の今一生は、以下のようなスケジュールです。

■11月29日(金)
◎AM10:30/千葉の自宅を出発
◎AM11:00/五井駅発のバスに乗車
◎AM11:50/羽田空港、着
◎PM1:20/羽田発、函館行きJAL
◎PM4:30/函館駅前の駐車場で川越さんと合流
◎PM5:00-9:00/中島れんばい横町「ふれあいセンター」で講演
◎PM9:30-11:00/勇旬いか太郎、大門横町で打ち上げ
◎PM11:30/函館駅前のスマイルホテル函館に宿泊

■11月30日(土)
◎AM10:00/チェックアウト~函館駅前のカフェでまったり
◎正午/移動開始
◎PM1:00-5:00/函館市青年センターでシンポジウムに参加
◎PM9:30/千代台駅から函館駅前へ
◎PM11:25/函館駅前から高速バス・高速はこだて号で札幌駅前へ

■12月1日(日)
◎AM5:30/札幌駅、着 近隣のお店を転々
(※僕と会いたい方は氏名・ケータイ番号を添えてメール
◎AM12:00/札幌駅前で移動開始
◎PM1:00-3:00/澄川TMCでイベントに出演
◎PM6:00/札幌駅から新千歳空港へ
◎PM8:00/新千歳空港から羽田へ
◎PM9:40/羽田着、バスで五井へ



 このように、児童虐待や、さまざまな社会問題を解決する仕組みを作るソーシャルデザインやソーシャルビジネス(社会起業)について、ライター・今一生は講演に応じています。

 小さな集まりでも、どんなに遠い地方の村にも、快く出張します。
 ご予算やイベント開催の方法、集客ノウハウなども含め、初心者の方もお気軽にご相談ください。

■今一生への講演依頼は、こちら


 このブログ記事を読まれている方は、下記のブログ記事も読まれています。

■歌詞には「編集」が必要 ~文月メイさんの『ママ』を素材に考える

■虐待死は、殺人である ~文月メイさんの『ママ』で「素直に号泣」した方へ

■正しい人は怖い ~児童虐待防止CM&文月メイさんの『ママ』への恐怖

★文月メイさんの歌『ママ』への感想(togetterまとめ)

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

■本の商業出版を考えている個人・法人の方は、こちら

■「歌詞の編集」を通じて、作詞力をUPしたい方は、こちら

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■正しい人は怖い ~児童虐待防止CM&文月メイさんの『ママ』への恐怖


 今月(11月)は、児童虐待防止推進月間だ。
 厚労省でも、「児童虐待は社会全体で解決すべき問題」とポスターで訴えている。

 この言葉がポスターにあるのは、親がわが子を虐待してしまう背景には、一人で子育てをしている疲れが蓄積したり、子育ての悩みを相談できる人がいなければ、精神的に余裕を失って、したくもない虐待をしてしまいがちになる親が少なからずいるからだ。

 だから、子育てを一人だけで背負わせて責任を個人に帰属させるのではなく、他の人の力を借りて「みんなで子育て」できる仕組みを作ろうというのが、「社会全体で解決」の意味である。

 実際、妻に子育てを押し付けるばかりで育児参加しない男は、今なお圧倒的に多い。
 それどころか、妻に仕事や火事、育児のすべてを押し付けて自分は無職で遊びまくっている父親も実在する。

 だからこそ、そうした夫婦に対して、祖父母や親族、地域社会の隣人たちなどが「おせっかい」であっても子育ての苦労を分担し合うことが求められている。

 助け合いがないと、最悪の場合、日常的な虐待の先に子どもが殺される「虐待死」を招いてしまうからだ。

 そうした深刻な事態に至らないよう、児童虐待かもしれない現実を発見した際には、児童相談所などへの通告が国民には義務付けられている

 そこで、児童相談所への通告を知ってほしいという思いから、広報PRビデオが民間でも作られている。
 しかし、その意図は必要な親には届かず、逆にデメリットがこれを見た親から指摘されている



 この動画は、NPO法人児童虐待防止ネットワーク オレンジリボン事務局の「児童虐待防止キャンペーンCM」だ。
 仰向けで笑う赤ちゃんを映した映像に、こんなナレーションがついている。

あやしてくれて、ありがとう。
ミルクをくれて、ありがとう。
おしめを変えてくれて、ありがとう。

「子育てに自信がない」「イヤになる」などは、育児放棄の危険信号です。

 私はあなたを必要としています。



 あなたは、赤ちゃんの世話をして、その赤ちゃんから「ありがとう」というメッセージを受け取りたい?

 僕はこの動画に、優等生の学級委員長が勉強のできない同級生をなじるような、気持ちの悪い違和感や恐怖を感じている。

 「虐待はいけない」なんて当たり前だ。
 しかし、その正しさをまっとうしたくてもできない事情を抱えているのが、わが子を虐待してしまっている当事者たちではないだろうか?

 赤ちゃんや幼児は、一人ではご飯を食べることも、安心の環境を自力で作ることも出来ない。
 放置すれば、最悪の場合、死んでしまう弱い存在だ。

 だから、赤ちゃんを生かすために行うことは、すべて当たり前のこと。
 なのに、なぜ「ありがとう」という言葉が「児童虐待防止」につながるのだろう?

 僕には、この動画が児童虐待を防止するどころか、助長させる論理になるように見えて怖いのだ。

 「赤ちゃんもあなたの世話に感謝してるよ」というメッセージは、「ありがとう」という見返りを求めたい親を満足させるかもしれない。

 しかし、そのように自分の頑張りに対する見返りを赤ちゃんに求めること自体が、児童虐待を招くのでは?
 そして、「赤ちゃんに見返りを求めてよい」と思わせること自体が、虐待促進そのものではないだろうか?

 この動画の最後にある「私はあなたを必要としています」とは、どういう意味なのだろう。

 これが、赤ちゃんから親に向けられた言葉なら、虐待まではしない育児不安の親には「赤ちゃんは誰かの世話を必要としない生きられない存在なんだよね。だから、自分が疲れて虐待しそうになったら誰かに相談しよう」と思うかもしれない。

 でも、他方では、既にわが子を虐待してる親、あるいは他人から見れば明らかに虐待をしているのに認めたくない親にとっては、「私を必要としてくれるのはこの子だけ。この子を離したくない」という思いを強める結果になりかねない。

 つまり、自ら児童相談所へ相談する必要が無い親にとっては虐待予防にはなるかもしれない一方で、既に虐待してしまっている親をさらに深刻な虐待へ導きかねない恐ろしいメッセージに見えるのだ。

 これは、有線放送やラジオなどで放送が自粛された文月メイさんの『ママ』という歌にも言える。

 その歌では、わが子を虐待した後でゴミと一緒に捨て死なせた母親に、殺された子どもが「ぼくには、たった一人のママ 嫌いになったりしないよ」と言う部分などが、親から虐待された経験のある当事者たちから続々と不快感を示されている。

 中には、「この歌で泣いた」という反響を見たために、虐待に対する世間の無関心ぶりに絶望感を覚えて自傷行為に及んだり、気分障がいを起こしたり、虐待されたトラウマの記憶に不意に襲われたというリスナーもいた。

 こうなると、もはや公害だ。
 「児童虐待への気づきになれば」という趣旨を宣伝文句にするなら、いま流行の「偽装表示」もの。

 解釈自由の歌という商品だからこそ、発売元のユニバーサルミュージックジャパンの社長が謝罪会見をしなくて済んでいる。
(※児童虐待防止月間の1ヶ月前に発売してるんだから、その商売っ気で謝罪会見を開いて宣伝すればいいのに)

 「虐待死」で殺された子どもをファンタジー上の「天使」(非実在)として描こうとも、その歌を耳に入れるのは生身の人間だ。

 親から虐待されて深刻なトラウマに苦しんでいる人たちや、わが子を「虐待死」させて殺人者としての人生を送っている人たちの生きている現実を前にして、歌の作り手が「そういう人を想定して書いてない」と言っても、それは表現者としての未熟さを言い訳したにすぎない。

 『ママ』についてはこのブログに書いたので、この歌に「素直に泣いた」という人は冷静に歌詞を読んでみるといい。

 音楽の持つ呪術力から覚めて「あの感動はなんだったんだ」と、自分の浅はかさを思い知るはずだ。

 わが子を虐待してる自覚の無い親、親に虐待されてることに自覚の無い子にとっては、『ママ』は泣けるのかもしれない。

 虐待というものは、それをしてる親も、されてる子も、その現実を認めたくないものだし。
 現実の残酷さに気づくことによって、それまで日常的に保ってきた幻想の平和が崩れてしまうのは怖いから。

 そこで、児童虐待について歌ったスザンヌ・ヴェガの『LUKA』を聞いてみてほしい(※以下の動画には日本語の訳詩がついている)。



 『LUKA』(ルカ)では、日常的に両親のケンカを見たり、親から殴られても「自分のせいだ」と思ってしまう子どもが、家の外の大人に心配されても「何も聞かないで」と強くお願いする。

 心配してる大人たちからの関心を、ルカは拒否する。
 なぜだろう?

 誰かが「あの家では児童虐待があるようだ」と近所の人にうわさ話をしたり、役所に通告することによって自分の身に何が起こるか、それを考えると怖いからだろう、と思う。

 これは、いじめの問題の解決が難しいのと似てる。

 「●●ちゃんがいじめられてる」と先生に告げ口する子がいると、いじめられっ子は、先生に叱られたいじめっ子から報復のいじめを食うことになる。
 それが以前よりひどく残酷な仕打ちになることを、いじめられっ子は恐れる。

 だから、虐待されてる当事者だからといって、自分から家の外に現実をうち明けることは難しいのだ。
(※こういう現実を放置することは、やがて大人になって働きだした頃、勤務先の会社が不正や社会悪を社員に強いる際にも内部告発を難しくさせる)

 既にルカは、自分が「まちの噂」になっていることにうすうす気づいており、それを聞きつけた自分の親が機嫌をそこねて自分をひどく殴った過去があるから、周囲の人たちの心配を拒否しているのかもしれない。

 この歌のように、強い大人に虐待されている弱い存在の痛みに真っ先に関心を持つ人は、今この時もどこかで虐待されている子どもを緊急に救い出す必要性を切実に感じることだろう。

 虐待している親の子育ての大変さを、虐待されている子どもの苦しみより優先して考える人は、圧倒的に弱い存在に対する関心や共感がそもそも薄いのだ。

 だから、「虐待してしまう親の大変さも大事でしょ。それを歌って何が悪いの? 私は間違ったことは何もしてない。私は正しい」と考えても、それ以上のことは考えなくなる。

 わが子を虐待してしまう親も、「虐待しようなんていう意図はない」のだろう。
 だから、「それでも、してしまうんだ」という自分の愚かしさやどうしようもないダメさをなかなか認めたがらない。

 それと同じように、良かれと思って作った児童虐待防止のCMについて「誰かを傷つける意図はない」と説明すれば十分と考える人は、自分が傷つけた相手に「ごめんなさい」が言えないのだ。

 「正しい」と思っているうちは、自分の間違いを謙虚に受け止めたり、反省することなどできない。

 そして、親に虐待死された子どもや、虐待から必死の思いで生き延びた人などの弱い存在の気持ちには、強い関心を持たなくなる。

 だから、「正しい人」は、怖いのだ。

 日本でも、家の外では「立派な紳士」として通っているのに、家の中では「しつけ」という正義を振りかざしては、妻をぶん殴り、子どもを怒鳴りつけて従わせる支配的な振る舞いを平然として反省など絶対にしない父親が少なからずいる。

 そういう家庭では、母親は子どもを守れない。
 守ろうとすれば、さらにひどい暴力や罵声が夫から仕掛けられてしまうからだ。

 もっとも、そのように明らかな身体的虐待なら、周囲の気づきもあるかもしれない。
 見えにくい心理的虐待は、虐待する親も、虐待される子どもも、自覚するのが難しい。

 日常的に理不尽なことを強いてくる親との戦いは、子どもにとって疲れるばかり。
 だから、戦いをやめる子どもは少なくない。
 親には口答えせず、黙って従っておいたほうが楽だから。

 そして、親の理不尽さを責めることを次第にあきらめていった子どもは、「どうせ自分は間違ってるんだ」という倒錯的無力感を内面に蓄積していき、「親の言うとおりになれない自分が悪い」という行動原理を刷り込まれてゆく。

 すると、大人になっても、それが心理的虐待そのものだとは気づかないまま、自分自身の人生を自分の責任(=権利)だけで決めて進めることができなくなる。

 常に親の顔色をうかがって自分の行動なのに許しを求めたり、勤務先の会社が不正行為を強いてきても「雇われている身分だから断れない」と自分の無力さに居直ることを正しい選択だと信じ込んでしまう。

 だから、そうなる前に、危険な親元から家の外へ安心して避難できるように、僕は1999年に『完全家出マニュアル』という本を書いた(※今後、最新情報を詰め込んだ21世紀版をkindleから出版予定)。

 どういう育てられ方をしたかは、どういう社会にしたいのかというイメージを形作る。

 問題を前にした時に解決の主体になろうと思えるのは、冷静に自分の親子関係を見据えられるだけの勇気を獲得してきた限られた一部の人たちであり、「どうせお前なんかには出来ない」と言われて育つ子は珍しくない。

 僕は1990年代前半から児童虐待について地道な取材を重ねてきたが、取材対象の中心は「親から虐待された当事者」だった。

 彼らの声をいくつか紹介しよう。

「新興宗教にはまっている両親は、1日1個だけのカップめんを渡した。
 その1個を3人兄弟で毎日分け合って食べてた。
 中学生になってネットで調べたら、自分の親がしていることはネグレクト(育児放棄)だと知った。
 だから、児童相談所に駆け込んだけど、職員は『大人を連れてきて』と門前払いされた。
 中学には、入学式しか行ってない。小6の頃にみんなから『お前の家は狂ってる』といじめられたから」

「姉と二人暮らしなのに、18歳で妊娠した。男は逃げた。
 今、妊娠6ヶ月。もう降ろせない。
 誰に相談したらいいか、わからない。
 毎晩キャバクラで働いてるけど、おなかが出てきてもう限界かも。
 仕事で酒を飲んでいるけど、どんな子が生まれてくるかなんて、考えたくない」

「子どもの頃に、親から性的虐待を受けてました。
 それを言い訳にはしたくないのですが、自分が育てた子どもが思春期からひきこもり出しました。
 そして、30歳になる頃から暴れ出して、私にだけ暴力を振るうようになりました。
 ある日、取っ組み合っているうちに息子を突き飛ばしたら、息子は死んでしまいました。
 私のような人間は、子どもを生んではいけなかったのでしょうか」


 このような、子ども自身にとって「どうしようもできない現実」は、彼らの親にとっても「どうしようもできない現実」であるという深刻さを、虐待とは無縁の人たちこそ知る必要がある。

 彼らの苦しみは、彼ら当事者だけでは解決することが難しいものなのだから。

 児童虐待の真実を知ってほしいと考えた僕は、かつて当事者の声を集めて本を出したことがある。
 それが、『日本一醜い親への手紙』である。

 その本の内容の一部は、下記の動画に紹介してある。
(※有料ダウンロードは終了。1997年に初刊行され、現在はノンカフェブックスから復刊している)



 この動画をご覧になれば、虐待された子どもの人生がどうなってしまうか、よくわかるはずだ。
 親にだけ育児の責任を押し付けることが虐待につながることも察せられるはず。

 そして、冒頭に書いた「児童虐待防止キャンペーンCM」が時代と逆行しているメッセージを放っていることにも気づけるだろう。

 自分を虐待した親に対して、子どもが全面的に許容するなんて悪夢だ。

 イヤなことをされたら、相手が親でも、夫でも、先生でも、医者でも、学者でも「イヤだ!」「あなたのほうが悪い」「私は悪くない」と言っていい。

 それは、決して悪いことじゃない。
 相手から奪われた自尊心を回復するために必要な権利だ。

 この正当な権利をみんなが守ろうとしないと、虐待はこの国からなくなるはずがない。

 「みんな」とは、あなたのこと。
 「イヤだ!」「つらい」と感じてる人は、いつも、あなたのそばにいる。

 切実に他人の力(=あなたの力)を借りたいのは、既に深刻な虐待に及んでわが子を「虐待死」させてしまう不安を日々抱えている親たちであり、その親と暮らして不安と恐怖の毎日を送っている子どもたちであり、既に大人になっているのに虐待された記憶に苦しめられているかつての「被虐待児」だ。

 彼らに届く言葉を発しないのなら、「自分の友だちしか見ない」と思って悪ふざけ画像を誰もが見られるネット上に公開してウケを狙っては世間から不快感を示される「バカッター」の若者たちと何も変わらない。

 虐待の不安にゆれる親たちの中には、虐待している自分がひどく叱られてしまうことを恐れて児童相談所に相談するのをためらったり、わが子を一時保護されてしまうさみしさに耐えられないため1本の電話さえかけることができない人も珍しくない。

 そういう人たちが相談窓口に対して安心や救いを感じられるようなキャンペーン動画を作れないとしたら、従来の虐待防止の活動が「当事者ニーズ」を最重要だと考えられていないまま進められてきたことを反省せざるを得ないだろう。

 赤ちゃんにまで「ありがとう」や「親を嫌ったりしない」と言わせる表現に違和感を覚えない人は、育児を親の専売特許だと思い込んでいるのかも。

 しかし、子どもの笑顔や「ママ、大ちゅき」を額面どおりに受け取る親は、子どもにとって気持ち悪い存在だ。

 子どもに必要なのは、親ではない。
 安心できる関係だ。
 安心できる人の前では、笑顔も言葉もいらない。

 自力ではメシも食えず、生きられない幼児の自己防衛の手段を見て、「この子は私を愛してくれている」などと勘違いする親は怖い。

 「自分を必要としてくれるから世話をする」という理屈は、「自分のことを理解してくれないなら世話なんかしたくない」という気持ちの裏返しだからだ。

 「児童虐待防止キャンペーンCM」として表現すべきだったのは、虐待を知った一般市民が第3者として防止のために具体的に動けることが豊かにあることを示すことだったのではないだろうか?

 万が一、責めるべき相手がいるとしても、それは既に十分苦しんでる親でも子でもないはずだ。

 彼らを孤立させ、虐待の深刻な現実についてはもちろん、良い意味での「おせっかい」として子育ての現場に無理なく手を貸せる方法にすら関心を持たない一般市民ではなかったか?

 これまで児童虐待防止キャンペーンは、広報に莫大な金を費やしてきた。
 それは、児童相談所への相談件数を上げることに寄与したかもしれない。

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 だが、苦しんでる親子に手を貸せるはずの一般市民の心を揺り動かすだけの表現にまでキャンペーンCMが練られていない以上、虐待防止の点では費用対効果の良い投資とはいえない。

 日本の児童虐待は戦前からで、国民的に親から心理的虐待を受けてきた構図もある。

 天皇が人間宣言をしてから60年以上が経った今日でも「親は親であるだけで尊敬すべし」という家父長制の亡霊は日本社会の隅々に生きている。

 それゆえに、虐待の世代間連鎖が重なり続け、親に対する諦めが、政府に対する諦めに通底し、児童福祉予算を低いままにしているのかもしれない。

 児童福祉の国家予算が現状に見合う程度にまで割かれないために、児童相談所の機能が十分に果たされていない現実をふまえるなら、民間で虐待問題の解決に動き出すしかない。

 それは、市民それぞれが自分の働く現場でできることを考え、実行すること。
 つまり、児童虐待を解決する当事者として主体的な意識を持って働くことだ。

 「誰かがやってくれれば」と祈っているだけでは、らちがあかない。
 、3~4日に1人の速度で子どもが「虐待死」しているのだから、現実は「待ったなし」なのだ。

 僕は出版業界で働いているので、『子どもを愛せない親からの手紙』『パパとママからのラブレター』という本も作ってきた(※Amazonで買えなくても図書館にある)。

 後者の本は、生まれたばかりのわが子に、生まれるまでの夫婦の出会いから出産までのストーリーを聞かせるという形式の手紙を一般市民から集めて作った。

 生まれる前にわが子に対して「無事に生まれれてくれれば、他に何も望まない」と無償の愛を感じていた親自身に、その思いを作文にして記録し、記憶してもらうためのものだ。

 この本で、子育ての最中にわが子に対して多くを求めすぎていることに自覚的になってほしかった。
 いわば、児童虐待を未然の防ぐための「自戒本」なのだ。
(※売り切れ寸前なので、関心のある方は、お早めにご購入されたい)

 もっとも、こうした虐待へのピンポイントのアプローチより、もっと先進的な取り組みがある。
 それは、つくば市で活動しているNPO法人「子連れスタイル推進協会(通称らくふぁむ)」の活動だ。

 同団体では、母親が子連れで参加できるデトックスツアーなど、親子で楽しめる楽しいイベントを続々と開催している。
 それらは、表向きは「虐待防止」を掲げていないが、参加すれば、隣の母親の育児のあり方が見える。

 そこで母親たちは、多くの気づきを得る。

「自分の育児は、あまりにも完璧を求めすぎてた。もっと大らかに扱っても子どもは大丈夫」
「わが子を他人に預けてもいいんだ。そういう信頼関係を誰かと築くことが親の自分には必要なんだ」
「母親どうしの見栄の張り合いのために、わが子をどうこうするなんてナンセンスだ」
 …などなど。

 相談のためだけに、足を運ばせるようなことはない。
 だから、あえて「子育て相談窓口サロン」にしてはいないんだそうだ。

 同団体は、出産・育児の苦労を経験した母親たち自身によって運営されている。
 「私は支援する側/あなたは支援される側」という上下関係ではなく、対等なヨコのつながりだ。

 「当事者性の高い活動」であり、どんな問題の解決も、苦しみを知っている当事者の声からしか始められないことを教えてくれる。
 この「当事者性の高さ」こそ、社会の仕組みを変えるソーシャルデザインの発想に必要な条件の一つだ。

 僕は思う。

 自立とは、親を他人にすること。
 子育てとは、自分がいなくてもわが子が一人で生きていけるようにすること。
 「無償の愛」とは、自分のがんばりの対価を相手に求めないこと。

 ご意見のある方は、twitter@conisshowまでお気軽に。

 最後に、11月18日には久しぶりに上京し、午後3時から新宿でお茶しているので、合流したい方はこのブログをご覧あれ。
 文月メイさんのファンも、もちろん大歓迎だ。



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■今一生への講演依頼は、こちら
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■虐待死は、殺人である ~文月メイさんの『ママ』で「素直に号泣」した方へ

 
 文月さんの歌う『ママ』は、自分を殺した母親に、殺されてゆく子どもが「嫌いになったりしないよ」と励ますなどの歌詞が、誰もが自由に意見を表明できるインターネット上の一部で問題視されている。

 まだ聞いてない人は、このブログ記事(←クリック)にある動画を見てほしい(※歌詞の全文もある)。

 『ママ』は、「虐待死」で殺された子どもが「天使」になって母親に語りかけるというファンタジーだが、これを作詞し、自ら歌っている文月さんは、次のように語っている。

「この男の子が亡くなってしまう歌なんですけど、
本当は子供もお母さんの事が大好きで、お母さんも子供の事が大好きで、
本当はそこに無償の愛、私が伝えたかったもの
亡くなっていく子供ですら最後までお母さんに幸せになって欲しいっていう思いを
残しているということを、ここで伝えたかった」

(フジテレビ『ニュースJAPAN』より)

 虐待する母も、虐待された子も、「無償の愛」をもっていた、と文月さんは自ら言っているのだ。

 「無償の愛」とは、相手に何も求めない愛のはず。

 しかし、この歌では、母親はわが子をゴミ袋と一緒に捨てる。
 あきらかに、「私のそばにいないで」とわが子に求めている。

 しかも、子どものほうも、「天使」になった後も、いつでも母親を見守ってる。
 「だって弱虫なママは一人じゃ生きられないでしょ」と、そばにいることを母親に求めている。

 どこが「無償の愛」なのだろう?

 もっとも、この歌は「ファンタジー」(幻想)なのだから、あえて一度、そのことを不問にしよう。

 では、現実の「虐待死」はどうか?

 虐待による死亡事例は平均で年間50件を超え、1週間に1人の子どもが命を落としている

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 厚生労働省が、都道府県、指定都市及び児童相談所設置市に対する調査によって把握した、平成23年4月1日から平成24年3月31日までの12か月間に発生、または表面化した児童虐待による死亡85事例では、99人(※心中を含む)の子どもたちが親に殺されている。

 最新のデータでは、「3~4日に1人」のスピードで子どもたちが亡くなっているのだ。

 その数だけ、わが子を虐待で殺してしまった親たちがいて、今もテレビやラジオで音楽を耳にしている。
 この現実は重い。

 僕は1997年、親から虐待された当事者100人が親に向けて手紙を書いた『日本一醜い親への手紙』という本を企画・編集した。

 どういう内容だったかは、Amazonや図書館で確かめてほしい。

 大事なのは、この本をきっかけに、僕は実際にわが子を虐待して殺してしまった親に会って話を聞く機会が生まれてしまったことだ。

 そうした出会いを重ねて、わが子に向き合う親の子育ての大変さと、実際に殺してしまった事実の間には、「紙一重」どころか、深くて暗い溝があると知った。

 「殺すところまで虐待しなくてよかった」という言葉は、結果的にわが子を殺してしまった親にとって絶望的に孤独を感じるフレーズだ。

 どんなに働いても低学歴ゆえの薄給、近くに子育てに少しでも協力してもらえる身寄りや友人もいない、金を無心に来る夫や家族を拒めば暴力や罵声の数々…。

 さまざまな事情に苦しむ中でわが子を虐待してしまい、それを止めてくれる協力者も話を聞いてくれる相談者も満足に現れず、わが子を失ったことで安堵さえ覚える親もいた。

 その「安堵」を、僕は責めることができない。
 その人に対して本当に僕ができることは何もなかったのかと、社会人の一人として反省する。

 子を殺したからといって、わが子に対して愛することがなかったとは必ずしも言えない。
 愛したくても、愛するだけの余裕がなかったのかもしれない。

 そこで虐待死をその親だけの責任と考え、その親子に手を貸せるかもしれない第三者の選択肢を関心外にしてしまえば、子育て中の親が孤立する現実は温存される。

 あなたが何かに困った時、「それはお前の問題だろ? 俺は関係ないし、関心もない」と言われても納得してしまう考え方は、自分の孤立を自分で準備してしまうのと同じだ。

 それこそが虐待と虐待死を解決できない今日の社会の仕組みであり、僕らの罪深さだろう。
 自分には関係ないことでも、いや、関係がないならなおさら、困ってる当事者の声を大事にしようよ。

 わが子を失った現実に安堵しようが、泣きわめこうが、「虐待死」後の親たちは「わが子を殺した人間」として法的に処罰されることはもちろん、出所後も世間からも疎遠や孤立を強いられてしまう。

 「虐待」と「虐待死」では、ここまで「その後の人生」が変わってしまうのだ。

 虐待している間なら、子どもにはまだ救われるチャンスがあるかもしれない。
 だが、虐待死は、殺人そのものだ。

 『ママ』という歌は、児童虐待どころか、「虐待死」を描いている。
 この違いをわからず、殺人をファンタジーにしてしまったところに、この歌の罪深い間違いがある。

 子育ての頃から孤立を強いられ、子殺しによってさらに深い孤独に追い詰められた人たちは、どういう気持ちで今この時を生きてるだろう?

 そこで、「殺してしまったんだから当然の報いだ」と平気で関心外にする人もいる。

 それでも、彼らは生きている。
 おそらく、生まれたばかりのわが子の顔や、動かなくなった死体などの記憶に不意に襲われながら。

 児童虐待に関心や理解が乏しい人にとって、虐待死は「虚構」(ファンタジー)かもしれない。
 しかし、自分が殺したわが子の記憶から逃げられない親たちにとっては、現実そのものなのだ。

 自分の過ちの記憶、社会から強いられる疎遠と孤立、それでも生きていかなければならない不安…。

 わが子を殺した人たちのそうした不安や恐れが誰にも理解されない場合、何を導くだろう?
 それを関心外にしたままで、本当にいいのだろうか?

 むしろ、僕らが虐待や、その先にある虐待死について、親の個人的な能力や属性に責任があるかのように勘違いし、子育てを助け合う仕組みを社会の中に作れなかったことに目を向けないことに気づく必要があるのでは?

 文月メイさんは、「この曲に込めた思い」について、以下のように書いている。

虐待のニュースを頻繁に耳にする昨今。
自分の子どもを殺すという異常な行為、
人間が人間でなくなる瞬間にあるものは
「愛の欠乏」ではないでしょうか。
子どもから親への揺るぎない「無償の愛」を、
一人でも多くの心を失いかけている人に伝えたい
思いから「ママ」が出来上がりました。

facebookでの書き込みより)


 親から虐待され、ゴミ捨て場に捨てられ、殺されてしまった子どもに、「親への揺るぎない無償の愛」はあるだろうか?

 そんな愛を子どもに期待していいのだろうか?

 殺された子どもは、もう誰にも自分の気持ちを訴えることができない。
 親を恨んでいようと、愛していようと、自分では言えなくなってしまった。

 「死人に口なし」だ。

 虐待によって存在を奪われ、殺されることで命と体を奪われ、ついに持ち得なかった自尊心や発言権すら死後に奪われた子にとって、自分の気持ちを第三者によって「あなたもお母さんに幸せになってほしいと思っていたのよね」と一方的に語られてしまう屈辱は、「3度殺される」のと同じだ。

 親や子から愛を奪い、虐待死にまで追い詰めたのは誰?
 彼らを助けられないでいた僕ら(虐待の非当事者である第三者)ではないのか?

 そういう問いかけなしに、虐待死という重すぎる現実と釣り合うだけのファンタジーなんて、本当に作れるんだろうか?

 僕も、そんな現実の重みに無関心だったら、『ママ』を聞いて「素直に号泣」したのかもしれない。

 文月さんも、わが子を殺してしまった親に会う機会があったなら、「この人や子どもの遺影の前ではとてもこの歌を歌えない」と気づいただろう。

 虐待されている幼い子どもは、他者から「あんな親元にいて大丈夫?」と批判されても、虐待をする親を擁護してしまうことがある。

 その擁護が「親が好き」という言葉になったとしても、それを額面どおりの意味に受け取るのは早計だ。

 親なしには生きていけない幼い子にとって、その言葉は「親を好きでいなくては生きていけない」という切実な叫びではないか、と疑う必要がある。
 そういう意味を忘れると、問題は知らない間にエスカレートしていくのかもしれないのだから。

 日本の殺人事件のほぼ半分は、親族間の事件だ。
 そして、その半分は親子間の殺人だ。
 日本でトラブルを抱える親子は、相手に理解してほしいと望めば望むほど悲劇を生む。
 無償の愛など、ありえない

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 もっとも、「子殺し」の現実の深刻さに向き合わない点では、報道関係者も同罪だ。

 フジテレビの報道番組『ニュースJAPAN』では、この歌を特集コーナーで紹介した。
 しかし、わが子を殺した親がこの歌を聞いた時にどう思うかを配慮せず、この歌の持つ社会的悪影響を指摘することもなかった。

 その理由を調べてみたら、文月メイさんの所属事務所が、フジテレビの音楽番組を制作してたことがわかった。

 要するに、歌を売るためのプロモーションのために、「殺すまではいってないけど、虐待してしまう不安を持つ親」だけにフォーカスして伝えるという編集方針を設けて、報道番組で宣伝したのだ。

 一方、NHKも『news watch』の「特集まるごと」で、『ママ』を紹介した。

 この番組では、児童虐待そのものをテーマにし、取材相手は育児中の母親たちだった。
 虐待死させた母親たちからの声を拾わないのは、この歌が彼らに悪影響を与えると知ってるから、かもしれない。
(たぶん、実際はそこまで関心を持っていないか、持っていたとしても、取材の手間を省いたのだろう)

 顔も名前も肉声も出せない立場の人間は、殺人の過去を持つ人だけではないが、出せない事情があるからといって、言いたいことがないわけではない。

 ところが、ニュース枠の報道番組では、社会の中の少数派の立場は、番組制作者の関心外なので配慮されない。
 少数派の立場に立てるのは、深夜のドキュメンタリー枠のみだ。

 予算のない中、当事者性を大事にした番組を放送できる貴重な枠だが、深夜にしか少数派が配慮されないのは、放送倫理を監督するはずのBPOでも関心外だ。

 こうしたメディアの報道のあり方には改善の余地が大いにあるが、問題はむしろ「報道関係者やアーチストは重すぎる現実にどこまで深く向き合うか」ということにある。

 そこで、さだまさしさんの作詞・作曲の『償い』という歌を聞いてみてほしい(※歌詞付き)。

 一生懸命働いている毎日の中で、疲れた体でたった一度の過ちを犯してしまった人の歌だ。



 この歌に登場する「被害者の奥さん」に相当する人が、虐待死の場合、誰になるのかを考えてみてほしい。

 「殺人」という重い題材にして歌を作るには、殺人に至る加害者の事情や殺された側のリアルをふまえないと、安っぽくなる。

 何度も言うが、虐待死は「人殺し」だ。

 あなたは、わが子が誰かに殺されても、わが子の遺影を前に「君を殺した人には『あなたのことは嫌いにならないよ』と言うんだよ」と祈るだろうか?

 文月メイさんの『ママ』と、さださんの『償い』を聞き比べれば、多くの気づきがあるはずだ。
 『ママ』で描かれた母親が、わが子を独立した命として尊重しないまま育てたことにも気づけるはずだ。

 ちなみに、『償い』は実話を基にしている。

 「人殺し」のような生々しい命を題材に扱う表現には、殺した人・殺された人・二人を見る人の3者の思いを汲むために、なるだけ当事者に会うプロセスが必要不可欠だろう。

 特に、その表現が報道や歌、本のような商品になる場合なら、なおさら社会的影響を考える必要がある。
 そのためにこそ、プロデューサという編集権をもった責任者の仕事はある。

 僕は、この歌でデビューした新人・文月メイさんの作詞力の未熟さに気づけず、この歌詞のままでリリースさせ、文月さんを矢面に立たせたプロデューサの社会性の足りない仕事ぶりを残念に思う。

 表現の自由は、自分が表現した作品に対する受け手の反応を受け入れる覚悟ができない限り、拡張できない。
 受け手を傷つければ、恨まれたり、殴られたりするかもしれない。

 そうならないよう、世に出す前に作品を「編集」したり、自分が題材にした当事者から感想をもらうのは、表現者が自由に表現するために必要なスキルだ。

 だが、表現者がむしろ警戒すべきなのは、表現者が知らないところで、自分の作品によって責められているように感じ、傷ついた人が不安や恐怖に苦しみ続け、誰にもそれを言えないまま死んでしまうことではないだろうか?

 『ママ』のレコード会社や制作責任者のプロデューサは、歌詞に描かれた「虐待死」を犯してしまった親たちや、実際に虐待されて育った人たちに発売前に聞かせ、感想を尋ねただろうか?(※発売後の感想はこちら

 そうした配慮をせず、「賛否両論を呼べば話題が広がって売れる」と見込んで、この歌でデビューする新人の作った未熟な歌詞のまま歌わせたなら、矢面に立つ歌手にだけ責任を負わせるひどいデビューだ。

 メロディやリズム、編曲などの呪術的な演出によって聞く側の情感を喚起し、未熟な歌詞でも、その未熟さを脱臭し、聞く側にとって受け入れやすい部分だけに説得力を持たせてしまう音楽の力は、一歩間違えると多くの人を傷つける恐ろしいものだ。

 だからこそ、歌詞の社会的影響を、レコード会社もプロデューサも発売前に考える責任がある。
 その責任を放棄した自由は、「儲けられたら万事OK」と考える連中の、ただの居直りにすぎない。

 最後に、たったワンコイン(500円)から子育てを助け合える仕組みを作った社会起業家「AsMAma」の活動を知らせておこう。

 社会起業家とは、政治に頼らず、民間で社会問題を解決する仕組みを作り、その活動費を賄うために手段として収益事業を行うソーシャルビジネスの担い手のことである。

 なお、このブログ記事を読まれている方は、以下のブログ記事も読まれています。

■正しい人は怖い ~児童虐待防止CM&文月メイさんの『ママ』への恐怖

■歌詞には「編集」が必要 ~文月メイさんの『ママ』を素材に考える

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■「歌詞の編集」を通じて、作詞力をUPしたい方は、こちら

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■11・18(月)、新宿で会おう! ~カフェ・ミーティング&南三陸の羊の試食会


 11月18日(月)、僕(今一生)は久しぶりに上京します。

 午前中には横浜市社会福祉協議会(桜木町駅前)で「福祉メイクセラピスト養成講座」が開催されます。

 高齢者施設・障害者施設などで効果的な福祉メイクセラピーを15年やってきた葉月えみさんが福岡から上京し、日々の生活の質の向上、リハビリ的、コミュニケーションとして活用する理論と実践の体験講座です。

 福祉職の方はもちろん、社会貢献に関心のある美容師や美容・福祉を学んでいる学生さんなどが対象となりますが、15日までに下記リンクのFacebookページをご参照ください。

●福祉メイクセラピスト養成講座
https://www.facebook.com/events/297963517009550/


 ちなみに、この日の午前11時10分~30分の間、北海道のFMいるかの番組に電話で出演します。

 「児童虐待の歌」というふれこみの文月メイさんの歌『ママ』が、なぜ児童虐待を助長してしまうのかについて話します。
 これは、ネットでも聞けますので、関心のある方はコチラまで。
(※なお、今月29-30日には函館で児童虐待とソーシャルデザインについて講演の予定。後日、詳細を発表)

 僕はその日、横浜駅で友人とランチした後、新宿に出ます。
 そこで、下記の2つの集まりに関心のある方は、お気軽にご参加ください。


【今一生とカフェでソーシャルデザインについて語ろう】
●日時:2013年11月18日(月)PM3:00-6:00
●場所:新宿駅東口アルタ前(※カフェは当日お知らせします)
●予約:氏名・ケータイ番号を添えてconisshow@gmail.comまでメール
●連絡:予約者にはこちらのケータイ番号をお知らせしますので、当日アルタ前からお電話ください
●話題:生きにくい社会を生きやすい社会に変える仕組みを作り出すソーシャルデザインについて
    社会的課題の解決を望まれる方なら初対面・学生も大歓迎!
    (※文月メイの歌『ママ』が児童虐待を助長してしまう恐れについても話します)
●料金:1杯以上のドリンク代(※各自精算)
●定員:予約先着8名様まで(※オーバーした場合、予約を〆切ることがあります)


 上記のカフェ・ミーティングが終わったら、新宿3丁目のBar ESPAに繰り出す予定です(下記)。

 南三陸町産のワカメで飼育した羊肉(1歳半)の試食会に、あなたも参加できます(※予約不要)。

 この羊が被災地でどのように復興につながるのか、その活動に従事する団体の理事長の話も聞けます。
 「羊肉の概念を変える!」と噂のワカメ羊の焼き肉としゃぶしゃぶが大放出!

 無くなり次第、終了するので、早い時間帯にご参加ください。

【新宿deわかめ羊祭り】
●日時:2013年11月18日(月)PM6:00-11:00(※店自体は深夜2時頃まで)
●場所:エスパ新宿3丁目店’(tel:03-3351-7173)
●住所:新宿区新宿3-6-12 藤堂ビル4F(※中華料理屋の右のビルの1階の奥まったエレベータで)
●地図:以下の通り
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(※アルタ前の道を伊勢丹方向へ歩き、伊勢丹前の交差点を渡って直進。左側に「末広通り」があったら左折し、歩いていくと、末広亭を過ぎたあたり中華料理屋があるので、その並びのビルです)
●料金:ドリンク代+料理でだいたい2000~4000円程度(※女性は安くなる傾向アリ。店主の気まぐれです)
●詳細:下記リンクを参照
http://satoumiproject.ldblog.jp/archives/34475987.html

 
 …というわけで、関心のある方は、個人でも、友だちを誘ってもいいので、お気軽にご参加くださいな。

 以下のブログ記事についても、みんなで話しましょう。

■文月メイさんの歌『ママ』を聞いて、児童虐待に関心を持った方へ

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■講師が全員「社会起業家」の講義録に関心のある方は、こちら
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