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■東北の復興は、これからだ! ~やりたい仕事がないなら被災地へ行こう


 11月3日(祝)、Npo法人ETIC.が東北で新たな事業を立ち上げるリーダーの「右腕」となる人材を派遣する「右腕派遣プログラム」の一環として、日本財団ビルで「みちのく仕事マッチングフェア」というイベントを行う。

 入場無料で、100名の若手人材を集め、東北の復興活動におけるソーシャルビジネスの担い手になってもらおうというものだ。

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 詳細は、イベントの公式サイトを参照してほしい。

 3・11以後、遠方から被災地に駆けつけ、そのとんでもない惨状を目の当たりにし、そこに住み着き、復興の仕事に携わるようになった学生や若者は珍しくない。

 何より驚くのは、既に1年半以上も前の出来事なのに、地震や津波、原発事故によって壊滅した町が新聞・テレビが伝えるような「明るい希望」というイメージではないということだ。

 だからこそ、まず自分の目で現実の被災地を見てほしい。

 そして、自分でなくてもできるような仕事ではなく、自分にしかできない仕事がそこで必要とされていることに気づいてほしい。

 20代が自発的に正社員の仕事を辞めてしまうことは、勤務先の企業にとって問題視されてきたが、そこには働く若者自身にとって譲れない条件があったからだと思う。

 それは、「自分が本気でやりたい仕事内容ではなかった」ということと、「顧客にとって切実に求められ、はっきりと感謝されるような仕事ではなかった」ということだ。

 30代以下の若い世代にとって、「自分らしく」「誰かのために役立っている」という2点の手ごたえは、仕事を続けられるのに不可欠な条件である。

 この2点は、就職活動で内定し、最初に勤めた企業の仕事現場で満たせるとは限らない。

 だから、「いつになったら自分にしかできない仕事だと思えるのか?」「こんな仕事を続けていても誰も自分に感謝などしてくれない」という現実の前で、焦燥感や違和感を持つ。

 もちろん、5~10年、同じ企業にいれば、自分のしたいこととできることには開きがあったり、自分の思っていた適職と現実の適職が違うことにも、明快な回答が得られる。

 しかし、他の誰かにとってかわっても問題ない仕事(=自分らしくない仕事)や、顧客に感謝される手ごたえを感じられない仕事を続けていては、自分の人生を自分であきらめているような「不戦敗」の気分を延々と味あわされる。

 だから、5年以内に最初の就職先を辞めてしまうのも、自分の人生に対して誠実に生きようとする健全さの一つかもしれない。

 実際、不況が続けば、売上偏重の仕事を強いられ、「社会に貢献する」という本来の仕事の目的も見失われてしまうし、それゆえに精神的にまいってしまったり、自分だけがそうした働きに対して違和感を覚えているのかという孤独を感じることもあるだろう。

 その結果、気がつけば、うつ病になったり、ニートやひきこもりと呼ばれる生活になってしまったり、何のビジネススキルもないのに「一人で働ける」(=会社に行って組織の中にいなくてもいい)というだけでノマド・ワークに憧れるようになるなど、煮詰まっている自分から抜け出せなくなってしまう若者も続出してしまうのだ。

 しかし、そういう時代だからこそ、東北の被災地にチャンスを感じてほしい。

 被災地では、地元に経済的な活気を取り戻し、一刻も早く安心で安全な町に復興させようという気持ちで新しい仕事を作り出そうとしている人たちが続々と現れている。

 彼らは、「自分の会社の売上を上げれば、それでOK!」などとは思わない。
 むしろ、「みんなで助け合って、みんなが今より少しでも良い暮らしを取り戻せるようにしよう」と考える。

 何もかもなくなってしまったからこそ、新しい仕事、新しい生き方、新しい仕組みによるまちづくりが試行錯誤されているのだ。

 いま、君の住んでいる町に、自分らしく働けて、顧客から満面の笑みで感謝される仕事があるなら、ぜひそれを続けてほしい。

 しかし、そんな仕事についておらず、金ばかり追いかけているような働き方に疲れているなら、11月3日のイベントに足を運ぶか、同サイトで紹介されている東北の仕事に参加してみてほしい。

 同イベントを手がけるNPO法人ETIC.は、若手の社会起業家を育成してきた団体だ。

 社会起業(ソーシャルビジネス)は、社会問題を解決するために事業を興す人たちのこと。

 彼らは、金儲けが目的なのではなく、問題解決のコストを賄うために収益事業を作るという発想で働いている。
 それが、従来の働き方とまるで違うことにピンと来るだろうか?

 あなたが切実に困っている問題は何?
 それが他の人も同じように苦しんでいるなら、それは社会問題なんだ。

 たとえば、それは地方における「就職口がない」という社会問題かもしれないし、「うつ病で就職できない」という社会問題かもしれない。

 そのように、政治も行政も満足に解決できないために、切実に悩み苦しんでいる人が多い社会問題に対して、本気で解決しようと動き始めた人がいたら、君だって応援したいと思うだろう?

 だから、社会起業家の周囲にはボランティアでも手伝いたい人材が集まったり、寄付金を出す人もいる。

 あなたの会社に、ボランティアでも手伝いたい人はいる?
 寄付金を出したいと申し出てくる人はいる?

 それだけでも、社会起業家がどれだけ社会に切実に求められているかが理解できるだろう。
 そして、東北の復興には、そうした社会起業家の存在が欠かせない。

 今の仕事に満足していないなら、あるいは既に失職しているなら、東北へ飛び、社会起業家の仕事に合流してみないか?

 そして、東北を従来よりも面白い場所へ、君と若い仲間の力で変えてみないか?

 「どうしても東北には行けない」という方は、せめて社会起業(ソーシャルビジネス)できっちりメシが食えている先輩たちに学んでみよう。

 社会起業家について少しでも知りたい方は、ぜひこのゼミに顔を出してほしい。

★社会起業家・養成ゼミ TOKYO
http://socialventure-youseizemi-tokyo.blogspot.jp/

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■映画『希望の国』を見て、自分の仕事を作り直そう


 目標や目的を忘れ、手段や手法にばかり目を奪われてしまうことはよくある。
 よくありすぎて日常化し、常態化してしまう。

 それはビジネスでも、原発事故でも、同様だ。

 日本人はとくに物忘れが激しい国民性で、しかも表と裏を使い分ける。

 「企業理念じゃ、メシは食えないよ」と言いつつ、毎日の仕事が社会悪になっても売上を伸ばすことばかりに動いてしまったり、「原発反対!」と大声で叫んでも自分が無理なくできる節電すら習慣化させようとしなかったりね。

 10月20日から上映が始まった映画『希望の国』(園子温監督)は、そのことをふまえ、あえて認知症の女性をサブキャラクターとして登場させている。

 広島・長崎・福島の3度の被爆を経験したこの国で、認知症の彼女は「えっ? またうちの町に原発が建ったの?」という言葉を繰り返し、家にいるのに「ねえ、帰ろうよ」と夫に何度もねだる。

 女優の大谷直子さんが演じるこの役が、まさに日本人の性そのものなのだ。
 園監督は、その日本人の内面の本質をえぐりだす。

 だから、気持ち悪いと思う人もいるかもしれない。
 しかし、自分自身のいやな部分に向き合う苦しみを受け止めるところからしか、希望は始まらない。
 そのことを、この映画は勇気を持って示唆している。

 テレビや新聞は今年に入って中国や韓国との領土問題に国民の目を向けようとした。
 同じ日本人が作った原発によって、日本は領土を自分で削ってしまったのに。

 フクシマ原発から近いエリアの住民は、今も家に帰れない。
 彼らだけでなく、基本的には誰もそこに入れず、「立入禁止」の看板が立っている。

 それが、今日の日本の真実の姿だ。
 そこから目をそらせるために、外国との関係に目を向けさせようとしている人たちがいる。

 けれど、フクシマはまだ何も終わっていないのだ。

 その重すぎる痛みから簡単に目を背けることができないはずなのに、東京のメディアは後回しにできる問題をあたかも大きなことのように連日報じている。

 映画『希望の国』の中で、認知症の女性は何度も問う。

「おとうちゃん、ねぇ、家に帰ろうよ」
「あら、また、うちの町に原発ができたのね」

 もちろん、もう帰れる家など、もう、ない。

 止まっていた原発は再稼働してしまい、原発を作って今なお推進し、他の国々に輸出までしようとしている自民党が力を増し、次の選挙は勝つだろうと予想されている。

 世界では原発を使わない方向へ動き出しているのに、3度も被爆しても原発推進へ動き出そうとしている日本人は、まさに認知症と同じだ。

 そこに希望はあるの?
 映画『希望の国』は、答えを強要することなくそう問いかける。

 希望があるとしたら、僕らは不便や痛みを引き受ける覚悟をもって新しい時代を切り開くしかないだろう。

 この映画が被災者のトラウマを引き起こしかねないという責任と覚悟を持って作られたように、もう3/11以前と同じようには生きられないことをどれだけ日本人全体がわが事として実感できるか、そこが観客に課せられた。

 ぜひ、映画『希望の国』を見てほしい。
 今こそ見てほしい。

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 息子とその嫁を圏外に避難させた父は、叫ぶ。
「国はもう、あてにならない。自分で考えて動き出さなきゃ」

 園子温監督も、インタビューに答えてこう言う。

「よく取材で、『なぜ、今、福島を映画化するんですか?』と聞かれるけど、逆に僕は『なぜ、みんなそれをしないのか?』と聞きたい。あんなに大きなことが起きても、それを映画の題材にしない日本の映画界はすごくおかしい」

 初日のレイトショーでこの映画を観た僕は、旧知の園監督と同時代感覚を共有していることに喜んだ。

 もう、政治談議なんかしている場合じゃない。
 この国をまともな国に変えるには、2流・3流の政治家が跳梁跋扈する政治に期待していても、らちがあかない。

 そもそも政治だけが国を変える手段ではない。
 むしろ、毎日の仕事を通じて経済のあり方を変えていくことで、僕らは自分の生活を守ることができる。

 国になんて任せなくても、社会は自分たちで変えられるのだ。

 自分の生活を守るためには、自分の稼ぎを優先するのではなく、むしろ「みんなのため」を優先することで自分の仕事が誰かの役に立っている働き方を作り出すことだ。

 自分の生活、自分の家族、自分の会社を真っ先に守ろうとすればこそ、自分たちだけが一時的に富を確保できるが、それは社会全体では孤立化と収奪を招く。

 あの震災の日から1週間以上、コンビニの商品棚は、自分たちだけはなんとか生き残りたいと考えた人たちによって買い占めによって空になり、お金が無く、自力で移動もできない社会的弱者たちは被災者と同じように飢えることになった。

 自分だけを守ろうとする発想は、自分より弱い人をもっと弱い立場へ蹴落とす。
 これは、受験戦争と同じだ。

 自分だけが優秀な大学に入れば、そこで満足してしまう。
 しかし、本当に優秀な人材は、そこに後ろめたさを覚える。

 だから、世界中で、優秀な人材ほど社会起業家を目指している。

 「自分の生活」を優先することで思考停止してしまう人たちのおかげで、下へ下へと落とされてきた社会的弱者たちの苦しんでいる問題を、社会起業家は毎日の仕事として解決していく。

 その目的からブレずに、そのために必要な発想と手法を作り出している。

 本来、仕事とは、そういうものだったはずだが、不況が極まると、働く目的が忘れ去られ、金さえ手にできれば手段さえあればいいと思いがちになる。

 その象徴的な存在が、「東電」と、東電の金に群がる政治家や広告代理店やメディア企業などだった。
 しかし、もうそんな日本には帰れないはずだ。

 帰れない以上、僕ら自身が公益に資する仕事を作り出す担い手として成長しなければ、希望なんか作り出せない。

 政治に期待できない以上、僕らは経済によってこの社会を変えている社会起業家の仕事から学ぶ必要がある。
 社会起業家について少しでも知りたい方は、ぜひこのゼミに顔を出してほしい。

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■『週刊朝日』に「取材には応じないよう」言われたものかき ~『橋下vs朝日』より大事なこと


 大阪市長の橋下さんと、その橋下さんについて決して公益に資することのない記事を書かせた「週刊朝日」。

 その構図の中で、実際に記事を書いたノンフィクション作家の佐野眞一氏は、「『週刊朝日』に取材には応じないよういわれている」夕刊フジにコメント拒否の理由を答えたそうだ。

 朝日新聞も、その子会社が作っている「週刊朝日」も、報道の社会的価値を見失ったから、業界全体の売上が落ち続けていることに対して、まったく鈍感だ。

 そのことは以前のブログにも書いたので、今さら朝日新聞だけでなく、多くのマスメディア企業が『原発ムラ』を同じように身内を守って社会悪をまきちらす既得権益にすぎないことを指摘するまでもないだろう。

 「橋下VS朝日」という構図は、朝日新聞以外のマスメディアに利益をもたらすキャッチコピーなので、そこにことさら目をつける必要はないし、例の連載が終わったからといって、「週刊朝日」が編集方針を本質的に変えることもないだろう。

 なぜなら、既得権益を守りたい企業では、表向きだけは事態を収束させる「内側のルール」を最も優先するので、「週刊朝日」の編集長を退社させたり、朝日新聞出版の社長のクビを切ることもしないはずだから。

 本当に公益に資する仕事(=社会的価値のある仕事)をまっとうしたいなら、編集長や社長がその価値を貶めたという理由で十分、更迭もしくは辞任に追い込むのが、トップ・マネジメントの王道である。

 それができないなら、その組織は、社会的価値よりも自分たちの既得権益を守りたいのだ。
 いまふうにいえば、ブラック企業ということ。

 ブラック企業は、そこで働いている部下もつらいが、その仕事の結果として商品を買うことになる消費者(=市民)にとっても、精度の低い情報を買わされるのだから、二重の意味で「ブラック」なのだ。

 朝日新聞グループにどれほど優秀な人材がいようとも、組織人としてはただの社畜であり、高い年収という札束で横面を張り飛ばされれば、シッポを振る犬と同じである。

 そんな組織で長年働くことにどんな誇りがあるか、さっぱりわからない。
 引退して肩書きがなくなった後、孫に昔の自慢をする頃には、その組織も外資に売り飛ばされてるだろう。

 しかし、そんなことより、僕らフツーの人々にとって、はるかに深刻な問題は、そういう組織の一員でもないのに、雑誌編集部にシッポを振るフリーランスのものかきがいることだ。

 雑誌記事も、テレビ番組も、マスメディア上の多くのコンテンツは、雑誌社やテレビ局の正社員ではなく、その下請けとなっているフリーランスのライターやディレクター(あるいは制作会社)によって作られている。

 以前のブログでも書いたが、雑誌が安いギャラでフリーライターに取材・執筆させた記事が無ければ、雑誌は発行できない。

 それなのに、昨今では取材経費や交通費、インタビュー取材の裏取り経費などを縮小(もしくはカット)しているので、ただでさえ情報の精度は落ち続けている。

 遠方まで取材に行ったり、電話だけでインタビューした相手の言い分を後で関係各所に確認しようと思えば、そこに多くの経費や時間、手間がかかることは、誰でも想像できるだろう。

 つまり、経費が無ければ、遠方にはいけず、裏取り取材もできないので、情報の精度は低くなるのだ。

 情報の精度が低くなるということは、怪しい情報がはびこるだけでなく、本来ならもっと社会的価値のある記事をメディアに載せることができなくなることを意味する。

 情報の精度が落ちて困るのは誰?
 僕ら、読者である一般市民だ。

 いくらネットが流行っても、その記事を作っているのは、新聞、雑誌、テレビであり、ネット独自のジャーナリズムなどないからだ。

 だから、良心的なフリーライターなら、情報の精度を落とさないように、自腹を切って金をかけ、自分の記事の精度を維持しようと努める。

 町工場の職人が、どんなに安く買い叩かれても、自分が作る商品の品質を守ろうとするのと同じだ。

 いや、「稼げるけど誰も幸せにしないプログラム」を書くのがイヤで転職を繰り返してるITエンジニアだってそうだろう。

 誰だって、自分の仕事内容が顧客にとって最低限の品質を守れないのに売り続けるのは、気が引けるはずだ。
 しかし、そういう自分の仕事の公益性を守ることこそ、人は働く誇りを持てる。

 フリーライターも、記事の品質を守るだけの取材(仕事)をやったからこそ、どんなに安く記事を買い叩かれても自分の仕事に誇りをもてるのだ。

 自分が書いている雑誌の言いなりになるなら、その仕事、やめてくれ!
 自分が食えなくなっても、本当のことを読者へ届けられる。
 そのことだけが、安いギャラでも耐え忍んで仕事をするフリーランスの誇りなんだ。


 その誇りまで失って、ブラックな仕事を続ければ、それは情報の精度を下げる社会悪であり、読者=市民を裏切る背徳行為であり、メディアの自殺だ。

 この仕事への誇りがあればこそ、経費カットも安いギャラも耐えられるのだ。
 おかげで貧乏もするが、読者を思えば、手は抜けないのだ。

 そして、自分の仕事への誇りがあればこそ、取引先である雑誌編集部に対して、「報道の中立性を保てなくなる偏向記事はやめてくれ」とか、「著者に断り無く編集権を行使しないでくれ」と対等な意見が言える。

 ちなみに、編集権とは、雑誌や新聞の編集部、テレビ・ラジオの放送局が持っている権利で、フリーライターや放送作家の書いた原稿を自分の都合でいかようにも捻じ曲げて自社が伝えたいように伝えられる権利のこと。

 どれだけフリーライターが深く広く取材をしようとも、雑誌編集部は編集権を行使して文章を変えられる権利があるため、ライター側がは著作権を行使して「そのように直すなら掲載を拒否する」と反対できるのだ。

 だから、その雑誌の編集方針に納得できなければ、編集部に対して断ることで、取材を積み重ねてきた自分の仕事を守ることが出来る。

 しかし、ライターの取材が、最初から雑誌編集部の良いなりで、その言いなりに沿った事実しか拾わないのであれば、それは「雑誌編集部の犬」であり、今回の騒動なら「朝日村の犬」に成り下がることになる。

 橋下氏に関する記事を書いた佐野さんは、編集方針に納得した上で記事を書いたはずだ。

 それなのに、いざ騒動になった途端、「週刊朝日に『取材には応じないように』といわれている」とコメントした。

 多くの人に誤解してほしくないので、はっきり言っておくが、フリーライターは雑誌に所属していないので、いくらでも自分の意見を自由に言える。

 というか、自由に言わなければならない。

 もし自由に言わなければ、「お前は雑誌編集部から記事のギャラ以外に説明できない利益供与を受けているんだろ?」と勘ぐられてしまうからだ。

 こんな不信感を読者に抱かれてしまったら、個人名で仕事をしているフリーライターは仕事がもうできなくなる。
 だからこそ、記事を載せた雑誌編集部に何を言われようとも自分の意見は言うべきだし、そこにこそどんな権力にも屈しない「報道の自立性」がある。

 こんなことさえわからずに、「朝日村」にズブズブのような印象を残してしまった佐野さんは、すべてのフリーライターに謝罪していただきたい。

 多くの名もないライターは、くだらない取材不足の編集者に対して「やれやれ」と内心思いながらも、「編集さん、そういうふうに赤を入れるとニュアンスが違うんで困ります」と日々戦っているんですよ。

 戦えば、編集部から「面倒な奴」と思われて、仕事がなくなるリスクが高まるけれど、戦わなければ、自分の署名原稿で社会的価値の低い情報を読者に買わせ、読者の大事な時間を奪うことになる。

 そして、多くのフリーライターは、あのような下品な記事で稼ぎたいなどとは思わないし、編集者に煽られてあんな記事を書くぐらいなら腹をすかせていたほうがマシだというプライドすらある。

 佐野さんぐらい名が売れ、本が売れていれば、あんな記事を書く必要もないだろうし、断ることもできただろう。それがどうしてもできなかった理由があるなら、その理由こそきっちりコメントしていただきたい。

 相手が政治家だからって、やっていいことと悪いことがあるし、そもそも政治家はその人格や経歴ではなく、仕事で評価するというのが、教養人の最低限度の政治姿勢だ。

 週刊朝日はそれを忘れ、社会的価値よりも雑誌の売上を優先した編集方針のまま、今後ものうのうと読者をバカにした記事を載せ続けるのだろう。

 ただ、この一件でも目が覚めない他のマスメディア企業も、取材の先々で取材拒否・コメント拒否を今後、続々と経験することになるはずだ。

 僕らには、取材を拒否する権利が誰にでもある。
 それは、自分自身の誇りを守るためであり、自分の所属先のためではない。

 報道の社会的価値を見失ったメディア企業は、売上減の果てに、やがて外資に食われるかもしれない。
 その前に、誇りあるトップ・マネジメントを社長ができるだろうか?

 それとも、ネット時代についていない自分を認め、潔く早めに退陣し、社会起業を学んだ若い世代に建て直しを任せるだろうか?

 そこで社長の器が問われうだろうが、いずれにせよ、マスメディアが社会的企業に進化するためには、読者からの不信感が追い風として必要なのかもしれない。

 テレビ局や新聞社、雑誌編集部に勤める若い社員は、それに備えて社会起業を学んでおいてほしい。
 それが、君と君の勤務先を助けることになるだろうから。

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■少数派が救われるためのUD発想 ~ガマンに気づいた人から動き出す


 「しょうがないか…」とガマンさせられていることが、僕らの日常には本当に多い。
 あまりにたくさんガマンを強いられているので、ガマンには慣れればいいやと思いがちだ。

 でも、小さなガマンが積み重なっていけば、いつかは大きなストレスになる。
 それは、児童虐待やDV、いじめなどの暴力事件や、やっつけ仕事、自己評価の低さを温存・増殖させてしまう。

 つまり、みんなが何かにガマンを強いられている現実は、公害であり、社会問題なんだ。
 そうした社会問題に気づくことで、その問題を解決するためのビジネスも生まれる。

 たとえば、女子トイレ。

 用を足すだけでなく、メイク直し、授乳、乳幼児のおしっこ付き合いなど、衛生的でない環境でいろいろな用事を便所で行うことにガマンしてる女性は少なくない。

 女子トイレは、用途別に分け、個室を増やすことでその店の集客数も増やせる。
 だから、それを理解した店や駅では、ユニバーサルデザイントイレ(多目的・多機能トイレ)を導入し始めている。

 なのに、まだまだ多くのターミナル駅やデパート、大型イベント会場などの女子トイレは、いつも混雑してるよね。
 あれも立派な社会問題なんだ。
 「みんな」がその混雑にガマンを強いられているのだから。

 そのように「みんながガマンしてること」=社会問題だと問題意識を持った人は、解決活動を始める。

 NPO法人Checkでは、ユニバーサルデザイントイレの位置情報をGoogleマップに入力する活動を続けてきた。

 多くの人が使うトイレでは、車椅子で移動する障害者や高齢者、ベビーカーを利用する親や、オストメイト(人工肛門・人工膀胱))を造設した人などは、スペースが狭すぎて用を足せない。

 そうした属性の人々は、社会の中では少数派(マイノリティ)だったからだ。

●車椅子を使っている人を含めた肢体障がい者:176万人
●1歳未満の乳幼児(=その子を連れて外出する親御さん):107万人
●オストメイト(人工肛門・人工膀胱を増設されている方):15万人

 1億2000万人が住んでいる日本では、上記3者の合計(298万人)は人口の約2.5%にすぎない。
 そうすると、最大公約数の国民向けに政策を作る国家は、ずっと票にもならない少数派を切り捨ててきた。

 しかし、ふつうのトイレに行けない彼らは外出をためらうことになり、遠出の旅行に行かなければならない時は2週間以上も前から水分を摂取せず、トイレをガマンできる体を準備しないといけなかった。

 このままでは、旅行代理店は、高齢化が進む時代の中で潜在的な市場を自ら放棄しているのと同じだ。
 高齢化すれば、誰もがいつかは車椅子の利用者になる可能性が高いのだから。

 そこで、旅行代理店の営業をやめ、ユニバーサルデザイントイレの位置情報をネット上にシェアし始めたのが、NPO法人の代表理事・金子さんなのだ。

 そして、彼はユニバーサルデザイントイレだけでなく、「トイレシェアリング・ステッカー」を開発した。

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 要は、店の外に「うちはトイレを貸し出してますよ。どうぞお気軽に使ってください」というビジュアル・メッセージを絵だけで伝えるというもので、男女のアイコンだけならフツーのトイレ、車椅子のアイコンがあればユニバーサルデザイントイレがその店にあるとわかるのだ。

 このステッカーによって救われる人は、とんでもなくたくさんいる。

●過敏性腸症候群の患者:1200万人
●過活動膀胱の患者(トイレが近い人):810万人
●「ほぼ毎日」尿もれの症状のある女性:50万人
●外国人登録者数(日本語が読めない):208万人
●1年間で来日する外国人(日本語が読めない):622万人

 上記の5者に、前述の3者を足すと、約3200万人に膨れ上がる。
 この数は、日本に暮らす人の約27%(4人に1人以上)に相当する。

 さらに、今後、高齢化が進むに従って尿漏れ不安の高齢者が増えていくのは必至。

 そうなると、潜在的には「4人に1人以上」どころか、「3人に1人以上」の人がトイレに困ってしまう(=外出に不安を感じている)のが実態だろう。

 彼らにとっては、目の前にお店があっても、トイレだけ借りて出てくることははばかられるし、借りられる保証もないので店の人に声をかけにくい。

 だから、外出するのさえためらってしまう。
 それは、店舗で事業を経営する人にとっても、営業上の大きな機会損失である。

 これを裏返すと、店はこのステッカーを買って店先やトイレの入口などに貼り出しておくだけで、従来よりも1.3倍程度の売上増を期待できることになる。

 なぜなら、このステッカーを貼れば、Googleマップにアップロードできるので、顧客自身がトイレ探しと同時に店を発見してくれるし、トイレの利用者にはクーポンや無料券、チラシなどを手渡せるし、「ついで買い」も期待できるからだ。

 観光できた外国人のような「一見さん」の新規顧客を開拓できるだけでなく、地元在住の人なら常連客にもなってくれるだろう。

 もっとも、メリットは、店や「トイレ不安」の客だけにあるのではない。

 このステッカーが今後、どんどん売れていけば、その収入によってNPO法人Checkは、ユニバーサルデザイントイレを必要とする人たちにもっと多くの情報をネット上でシェアできるように、位置情報の発掘とアップロードを速く多く進めることができる。

 そして、そのことはやがて「ユニバーサルデザイントイレを作ると売上増になる」という気づきを、観光地の店舗やデパートなどの大型店舗、巨大催事場などの経営者たちに与えるだろう。

 そして、最終的にこの国にトイレ不安で外出できない人を減らせるのだ。

 つまり、マイノリティを救うためには、「トイレが不安」という共通の属性を持つ人が他にもたくさんいると気づき、そうした人たちも含めた「大きな社会問題」であることをアピールできれば、マイノリティの問題を解決できる仕組みが作れるということなんだ。

 「少数派だから無理」という発想で思考停止するのではなく、マイノリティと本質的に同じ問題を抱えている人を想起すれば、その悩みや不安がもっと多くの人に共通するものだと気づく。

 それこそがUD(ユニバーサルデザイン)による問題解決の発想であり、少数派として扱われている難病やLGBT、ホームレス、ニートなどにも十分に応用できるはずのものだと思えれば、これまで解決できなかった少数派の問題の解決にも希望を感じることはできないだろうか?

 NPO法人Checkが働く目的(=ミッション)は、「誰もが気兼ねなく外出できる社会を作ること」である。
 そのために必要な活動を専従スタッフとして毎日行うには、当然、人件費が必要だ。

 だから、NPOであっても、商品を生み出している。

 このように、社会問題の解決をお題目の目標ではなく、毎日の事業目的とし、活動を持続可能にさせるための収益源を作り、ビジネスを「手段」にして働くのが、社会起業家なのだ。

 NPO法人Check代表理事の金子さんは、10月20日(土)に、「社会起業家・養成ゼミTOKYO」に講師として、受講生に直接指導する。

 身近に社会起業を学ぶチャンスがないのなら、下記のページを早めにチェックしてみてほしい。

 銀行や大学、ITベンチャーなどで働く人たちも、既に学び始めている。

★社会起業家・養成ゼミ
http://socialventure-youseizemi-tokyo.blogspot.jp/


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■自己評価の低い人ほど、営利優先ではない新しい働き方を学ぼう!


 昨今、福祉の世界では、法定賃金を支払うのを義務とする意識を支援者が持ち、障碍者が健常者と同じ賃金をもらえるだけの仕事を作り始めている。

 これまでなら、福祉作業所に通う障碍者は、月収1万円程度しか賃金を支払ってもらえなかった。

 それは、支援者側が「どうせ障碍者はこの程度の軽作業しかできないはずだ」と思い込み、軽作業ゆえに低賃金を強いられる障碍者の潜在的な可能性の大きさに期待していなかった。

 それではいつまで経っても、障がい年金に依存した暮らしとなり、結婚・出産・子育てあるいは親の介護費などを支払うことができず、健常者並みの生活や人生には届かないままだ。

 そこで、障碍者の個々の能力・経験・症状などを十分に考え、障碍者の個々の属性が活かせる職場を作ると同時に、「障害者が作っているので買ってください」という同情票による市場ではなく、「この商品・サービスは値段に見合う価値があるので買ってください」という市場原理に基づいたビジネスを作り出すことを、福祉業界では全国的に取り組み始めているのだ。

 ところが、ひきこもりやニート、メンヘラ、ホームレス、元ヤン(少年刑務所などの出身)の支援現場では、そうした仕事作りが遅れてる。

 その最大の理由は、そうした社会的弱者を支援する側のスタッフに、かつての福祉業界のように意識が低いままで、個々の属性を活かした職場を作り出すというイノベーションを始められないままだからだ。

 つまり、社会的弱者に転落した当事者に自立への意識が足りないのが問題ではなく、自立へ導くはずの支援者の意識と方法にこそ問題があり、そのために引きこもりは高齢化し、ニートはネットカフェ難民やホームレスになり、ホームレスは無縁仏になり、少年院出身者は再犯を繰り返したり、「二度とやらない」はずの薬物を手を出してしまう。

 これでは、支援活動はさらに当事者を社会の底辺へ導き、それによって支援者の給与が国や自治体からさらに手厚く支給される根拠を作ってしまう。

 ぶっちゃけ、現状の支援体制は、支援する側のメシを保証するためのマッチポンプになっている。
 いったい誰のための支援なのだろう?
 答えははっきりしている。

 なのに、なぜ支援スタッフたちは、自分たちの生活を守ることばかり考え、社会的弱者の当事者の立場に立たないのか?

 それは、支援者自身が自分の仕事に対する社会的価値を十分に感じておらず、自己評価の低い人であることを自覚できずにいるからだ。

 しかし、支援スタッフは、自己評価の低い人ばかりに囲まれていると、それをフツーのことと感じてしまうのだから、彼らを責めるつもりなどない。

 日本では、学生でもサラリーマンでも自分の職場や業界の内側にしか関心がなく、それが自己評価を自分で貶めていることすら気づかない。

 そういう「ムラ社会」的な発想をデフォルトにしているので、有名人や芸能人などは別世界の住人だと思いがちだ。

 たとえば、仙台で被災者と近い大学生たちがUstream番組をしてたりする。

 大学生どうしがつるんでいるだけで、大学生向けの話になりがちだ。
 それなら教室で話していれば十分だが、Ustreamの視聴者には社会人もいるというメリットに気づかない。

 だから、「仙台なら楽天のミキタニ社長をそのスタジオに招いたら?」とソーシャルストリームに書くと、学生たちは「絶対ムリ」と苦笑して終わってしまう。

 仙台なら楽天の試合もあるから、ミキタニさんが仙台入りすることもある。

 タイミング次第で声をかければ、関心を示すだろうし、被災者の生の声を聞けるとわかれば、楽天として復興活動を支援する上で有益と考えてくれるかもしれない。

 そもそもお金持ちは、大きなギャラを払えば動いてくれるわけではない。
 お金よりも、そこに自分が参加することにどんな社会的意義があるかと考える。

 だから、学生が本気になって地元の被災者のためを考えた活動をしているなら、有名人はそこに招かれることは名誉と考えるだろう。

 そのように、自己評価が低いままでは見えないルールが、世の中にはいっぱいある。
 そうしたルールを学ぼうとすれば、これまでは「絶対ムリ」と考えてしまっていたこともできるようになる。

 福祉業界は、もう動き始めた。
 だから、同情票ではなく、「このスィーツは美味しいので買う価値がある」という論理で成功している。

 ニートやメンヘラの支援業界では、スタッフ自身の自己評価の低さから、当事者であるニートたちの自立が遅れたままになっている。

 では、どうすればいいのか?
 支援スタッフ自身の自己評価を引き上げられるだけの学びを提供することだ。

 社会的弱者は、福祉の業界だけでなく、さらに広範囲に存在している。

 仕事と介護の両立に悩む独身サラリーマンも、子育てと仕事の両立に苦しんでいるシングルパパ、再就職ができないままホームレスしかないと思いがちの40-50代の離婚失業者、低学歴のためにバイト面接さえ拒否される若者など、さまざまな社会的弱者がいるということは、それだけ解決ニーズの高い市場が潜在的に大きくなっているのが、今の日本なのだ。

 そして、これまでの営利優先的なビジネスの発想では救えないので、既存の企業への就職が困難ならば、問題解決優先でビジネスを解決手段として作り出す「社会起業」(ソーシャルビジネス)の発想が必要になる。

 社会起業を学ぶことは、自己評価をいきなり上げなくても、自己評価の高い人と出会い、自分ができないことをできる人に任せ、一緒に相互補完しながらビジネスを作り上げる仲間を増やしていける。

 この「人に任せる」ということが、自己評価の低い人には苦手だ。

 しかし、社会起業は、そもそも自分が金儲けしたいから始めるものではない。
 あくまでも問題を解決することを毎日の仕事にするというモチベーションから、社会起業は始まる。

 お金に余裕がある時しか社会貢献しなかったり、社会問題の解決を究極の目標にはしていても毎日の業務の目的にはしていないが従来の企業だが、それとは一線を画するのが、社会起業なのだ。

 人のために役立つ仕事を作り出す社会起業は、それに携わる人すべてをハッピーにする。
 だから、一緒にハッピーになることへ誘うことに、ためらいがなくなるのだ。

 社会起業では、どういう解決の姿が当事者にとって幸せなのかを考え、共有し、それを軸にしてビジネスを生み出すので、当事者に近い属性を持った支援者ほど、社会起業を成功させるポテンシャルは高い。

 だからこそ、自分ができないことは、できる人に声をかけたり、ネット上で仲間を募れば、「自分だけでは絶対できない」と思っていた夢のプランも実現できる。

 みんなを幸せにする仕事を生み出すことなら、優秀な人材が集まってくる。

 最近では、営利目的の企業で荒稼ぎしていても幸せに感じず、社会起業の画期的な新しさに気づき、自分でもチャンスがあればコミットしたいと考えている優秀な人が増えてきた。

 自分が起業未経験でも、経験者と組めば、即座に解決できることがいっぱいある。

 そうした優秀な人材と出会うチャンスが無かったり、社会起業を学ぶチャンスがないのなら、下記のページを早めにチェックしてみてほしい。

 銀行や大学、ITベンチャーなどで働く職員も、既に学び始めている。

★社会起業家・養成ゼミ
http://socialventure-youseizemi-tokyo.blogspot.jp/


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